唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淄青 李納の乱

2022-12-04 08:28:55 | Weblog
淄青平盧軍節度使は安東都護府にあった平盧軍が、安史の乱では安禄山に同調せず唐朝側に残って戦い、孤立したため全軍渡海して山東半島に移動してきたものです。
その時青密・淄沂節度使を与えられ淄青平盧軍節度使となりました。

高麗人の李正己は全帥侯希逸を逐い、魏博田承嗣や汴宋李靈耀の乱には唐朝側に協力して勢力拡大し、淄青德棣齊鄆曹濮兗海沂密十二州を支配する巨大藩鎭を形成し、河北三鎮や淮西・山東と連携して半独立の体制にありました。

建中二年から始まった成德李惟岳の継承の乱には、同じ継承問題を抱える正己は、消極的な姿勢で動きはありませんでした。

建中2年7/8月
平盧淄青節度觀察使司徒太子太保同中書門下平章事李正己は卒しました。
子の納は自立し継承を求めましたが、当然德宗皇帝は認めません。

建中2年9月
納は宋州を攻撃しました、

建中2年10月
正己の從父兄である徐州刺史李洧は州を以って帰順しました。洧は徐沂海觀察使の地位を求めましたが、御史大夫充招諭使に任ぜられました。

建中2年11月
納は將王温・石隱金に魏博將信都崇慶の援軍を得て徐州を攻めました。
唐朝は朔方唐朝臣・宣武劉洽・神策曲環,滑州李澄を派兵して納軍を破り救いました。

徐州が確保できたことで江淮からの漕運が通じました。

建中2年12月
李納麾下密州刺史馬萬通が帰順し、密州刺史に任ぜられました。

建中3年正月

李納は劉洽軍に迫られ、濮州に帰り魏博に援兵を求めました。

淮南節度使陳少游は海、密二州を取りましたが、すぐ納に回復されました。

建中3年2月
成德李惟岳が滅び、魏博田悅は敗北し、納は苦しい状態になりました。
宣武劉洽は濮州を攻めて外城を陥し、納は帰朝を求めて泣訴しました。

建中3年3月
徐州刺史李洧を徐沂海團練觀察使としました。沂海は虚名です。

納は弟經や子成務を人質にすると申し出ましたが、増長した中使宋鳳朝は受け入れず、勝利を確信する德宗皇帝も認めませんでした。そのため納は鄆州に戻り、また田悅と同盟しました。

建中3年4月
李納德州刺史李士真、棣州刺史李長卿は帰朝しました。徳棣二州は幽州朱滔に与えられましたが、滔は反して大將李濟時を派遣して占領させました。

建中3年7月
李納は魏博信都承慶の援軍を得て宋州を攻めましたが勝てず、兵馬使李克信、李欽遙に劉洽を防がしました。

淮寧節度使李希烈が兼平盧淄青兗鄆登萊齊州節度使として李納を伐つ事になりましたが、希烈は実行する気はありません。

建中3年11月
納は朱滔・田悅・王武俊らと唐より自立し「齊王」を自称し、官属を置きました。

李希烈は許州に鎮し、李納を討つと称して汴州を攻めようとしました。
納く汴州付近に出兵し漕運を止めました。

建中4年末
形勢不利な德宗皇帝は反軍を朱滔・朱泚兄弟と李希烈・田悅・王武俊・李納に分裂させる働きかけをしました。敗戦に疲弊した田悅と、本領が安堵されるなら文句はない王武俊・李納は乗り気でした。

興元元年正月
德宗皇帝は自己批判し李希烈・田悅・王武俊・李納を赦しました。田悅・王武俊・李納は王号を捨てて帰朝しました。

曹州刺史李納は鄆州刺史平盧軍節度使に任ぜられました。
ひれにより反軍は、朱泚・朱滔・李希烈の三者となり、分断されて平定されていくことになりました。納は十二州を維持することができました。

興元元年4月
李納は平章事を加えられ使相となりました。


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