唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

江南 劉展の乱

2022-12-03 08:55:53 | Weblog
乾元2年5月
試汝州刺史劉展は滑州刺史充汴滑節度副使となり、やがて宋州刺史に移りましたが、河南は戦乱により刺史とかは名目にすぎませんが。

上元元年11月
宋州刺史劉展は淮西節度副使を帯びました。展は剛強自用ため、節度使王仲昇より憎まれていました。
仲昇は監軍使内左常侍邢延恩を通じて肅宗皇帝に展を除くことを上申しました。
しかし展は強力な兵を持っています。
そこで李峘に代えて江淮都統とし、兵を帯びない赴任途中に捕らえて殺しましょうと提言しました。
定見の無い肅宗皇帝はこれを許可し、都統李峘と淮南節度使鄧景山に計画を通知しました。

延恩が展に任命を通告すると、展は「俺は陳留參軍より數年で刺史になった。これでも出世しすぎだと思っている。江淮は租賦の出る要地だ。俺のような無頼がそんな出世するとは信じられない、なにか裏があるのに違いない」と。
延恩「こんな良い話をなにをもって疑うのか?」
展「印節を本当に与えられたら信じよう」
延恩は廣陵に行き、峘に通じて印節を展に渡した。
展は印節を得ると宋州の全軍七千を率いて廣陵へ赴きました。

ところが展が来ると、李峘は塞を構えて入れません。

怒った展は峘軍を京口に襲うと、歴戦の展軍を恐れた峘軍は自壊し、峘は宣城に奔りました。
展は潤州を陥し、昇州軍一萬五千人は展に応じ金陵城を攻めました。
節度使侯令儀は、兵馬使姜昌群に責任を押しつけて逃げました。

展陷昇州、將宗犀を潤州司馬丹楊軍使、昌群領升州,從子伯瑛を助けさせます。

上元元年12月
李峘麾下の軍人副使李藏用は峘に「日頃傲慢でありながら、兵も軍備もたっぷりあるのに捨てて逃げる、のか」責めるが、峘は藏用に任を押しつけました。藏用は散卒を集めて展を防ぎます。

展將傅子昂、宗犀は宣州を攻めると、宣歙節度使鄭炅之は逃げ、峘はさらに洪州に奔ります。

李藏用は展將張景超、孫待封と戦いますが敗れ杭州に奔ります。
景超は蘇州,待封は湖州を取りました。
展は將許嶧を潤州刺史,李可封を常州刺史,楊持璧を蘇州刺史,待封を領湖州事としました。
景超はついに杭州に迫ります。
展は李晃を泗州刺史,宗犀を宣州刺史としました。
傅子昂は江州を取り江西に入り、屈突孝は濠、楚州を陥し、王□恆は舒、和、滁、廬等州を陥し、向かうところ敵なしでしたが、ただ壽州刺史崔昭だけが保っていました。

江淮地方を失って狼狽した肅宗皇帝は、任城に屯していた平廬都知兵馬使田神功に劉展征討を命じました。神功軍は江淮の財を得られると知って勇躍南下を始めました。
兄貴分にあたる神功の精鋭軍がくると知り、展は慌てて分散した軍を集約し始めました。

上元2年正月
張景超は杭州を攻め、李藏用將李強を石夷門に破りました。
孫待封は李藏用將温晁に敗れ烏程に奔り、李可封は形勢不利とみて常州を以って降りました。
田神功將楊惠元は王□恆を破り、范知新と鄧景山は常州に入りました。
神功は邢延恩と揚子江を渡り展軍と戦いました。
范知新・賈隱林等は展と弟殷・許嶧を破り誅しました。
王□恆・孫待封は李藏用に降りました
残党張景超・張法雷も逃亡しました。

神功の率いる平盧軍は江淮を大掠し、安史の乱では被害を受けなかった江淮は荒廃してしまいました。

真面目に戦った李藏用は文官達が戻ってくると、散逸した官財の責任を問われて殺され、逃亡した宦官・文官達は責任を問われませんでした。


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