出家 [幽州節度使劉總の苦悩]
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今日もたくさんの僧達が読経をつづけ、寺院ともおもいかねない節度使の邸。
僧達に混じって節度使の劉總もまた必死に読経を続けてきた。
夜が来るのが恐ろしい。
読経に疲れ果てて眠るわずかな睡眠だけが總の休養だ。
毒殺した父、暗殺した兄や弟の亡霊が次々に總を苦しめる。
「朝廷にお願いした件はどうなった」
「殿は天平節度使に御転任です。幽州には元宰相の張弘靖様が来られます」
「天平などは不要だ、ただ出家の許可が欲しいだけなのだ」
「殿の功績を考えると一挙に僧というのはと・・・」
「早く僧となって心の安静を得たい、地位や封爵などどうでもよい」
魏博・成徳が帰順したあと、残った幽州も朝廷の支配下に戻ろうとしていた。
しかし總には今の朝廷のやり方ではすぐに破綻することは目に見えていた。
總の一族には中央で官爵をもらい、面倒な諸将は京師に赴かせて神策軍に組み込む
幽州も三分して統治すべきたなど数々の献策をおこなってきた。
しかしそんなことより今は一刻も早く安静が得たい・・・・。
長慶元年四月、義武節度使は奏した。
「總様は出家し、幽州を出ようとし、義武との境界に於いて亡くなられました」
總の献策は一族の処遇以外はあまり実行されなかった。
幽州から瀛莫二州は分割されただけ、朱克融のような不満の將達は登用されなかった。
七月幽州軍乱・八月成徳軍乱・二年正月魏博軍乱、河北三鎮はまたすべて失われた。
*******背景*******
元和年間、憲宗皇帝のもとに唐朝は藩鎭抑圧をすすめ、淮西・淄青を亡ぼし、義武・横海・魏博は帰服し、成德をも征圧した。あとは幽州のみとなったが、十五年憲宗は皇太子の策謀により宦官に殺された。太子は即位して穆宗となったが、遊び好きの無能であり、宰相達も戦略の無い凡庸なものが並び、急速に体制は弛緩していった。
しかし長慶元年、憲宗の余徳により残る幽州劉總も歸順を求め全国制覇が実現した。
ただまだまだ不安定な状況であるにも関わらず、無能な穆宗・宰相体制のため、河北三鎭は次々と反乱し唐朝の覇権は短期間にくずれていった。
幽州劉總は前節度使の濟の次子であったが、後継者の兄緄が謀反したと誣告し、狼狽した父濟を毒殺し、罪を緄になすりつけて殺し自立した。
その後、唐朝に協力姿勢を示し、節度使となり、成德征討で功績を上げていた。そして魏博・成德・淄青・淮西が鎮定されるのをみて、自家の保身を図って唐朝に帰服しようとしていた。
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