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王景崇伝
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景崇、字は孟安。
成德節度使紹鼎の子。壽安/章惠長公主の嫡孫。
父紹鼎は成德節度使となるが無法であったので牙軍が放逐しようとした時に死んだ。
大中十一年八月.弟紹懿が継承し十年間無事に治めてきたが疾となり、
咸通七年三月.鎮州大都督府左司馬知府事都知兵馬使で兄の子景崇に継承させた。
その折り「兄の不行跡により王氏が鎭を失うところだった。お前は唐朝とも融和し、麾下や璘藩とも友好を築きしっかり継承するように」と遺言した。
四月.祖母の壽安公主が唐朝にまだ若い孫の景崇の継承を認めるよう要求した。
六月/八月.起復忠武將軍守左金吾衛將軍同正檢校右散騎常侍充成德軍節度觀察留後上柱國紫金魚袋。
十二月.正授節度使檢校工部尚書。
成德節度も曾祖父庭湊が反唐朝を旗印としていたが、祖父元逵より唐朝との融和路線に転じていた。
十一年九月.魏博節度使何全皞が逐われた後、韓君雄の継承に助力。
龐勳の乱には派兵し鎮圧に協力。加檢校尚書右僕射。太原縣男,食邑三百戶。
祖母、母の喪にも禮を守った。起復左金吾衛上將軍同正,進位檢校司空。
政治は有能幕僚に任せ、近親に介入させなかった。
公主嫡孫であるためどんどんと進階し、十一年十二月.同中書門下平章事、檢校太尉。
十四年九月.兼中書令[乾符三年九月説もある],封趙國公食邑三千戶,食實封二百戶。
乾符二年三月.侍中を兼ねる。
四月.加開府儀同三司。
五年.常山郡王。
黃巢の乱にも義武王處存と協調し派兵し、貢輸を続けた。
中和二年三月.蔚州刺史蘇祐が濫りに起兵した時はこれを殺した。
節度使たること十四年、檢校太傅に至る[正任の太尉となったともいう]。
三年正月/二年十二月卒、年三十七,贈太傅,諡曰忠穆。
回紇の末裔である成德王氏も完全に貴族化していた。
成德節度では魏博や幽州と違い王氏の継承が定着し、武力的には弱体化していった。
王景崇伝
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景崇、字は孟安。
成德節度使紹鼎の子。壽安/章惠長公主の嫡孫。
父紹鼎は成德節度使となるが無法であったので牙軍が放逐しようとした時に死んだ。
大中十一年八月.弟紹懿が継承し十年間無事に治めてきたが疾となり、
咸通七年三月.鎮州大都督府左司馬知府事都知兵馬使で兄の子景崇に継承させた。
その折り「兄の不行跡により王氏が鎭を失うところだった。お前は唐朝とも融和し、麾下や璘藩とも友好を築きしっかり継承するように」と遺言した。
四月.祖母の壽安公主が唐朝にまだ若い孫の景崇の継承を認めるよう要求した。
六月/八月.起復忠武將軍守左金吾衛將軍同正檢校右散騎常侍充成德軍節度觀察留後上柱國紫金魚袋。
十二月.正授節度使檢校工部尚書。
成德節度も曾祖父庭湊が反唐朝を旗印としていたが、祖父元逵より唐朝との融和路線に転じていた。
十一年九月.魏博節度使何全皞が逐われた後、韓君雄の継承に助力。
龐勳の乱には派兵し鎮圧に協力。加檢校尚書右僕射。太原縣男,食邑三百戶。
祖母、母の喪にも禮を守った。起復左金吾衛上將軍同正,進位檢校司空。
政治は有能幕僚に任せ、近親に介入させなかった。
公主嫡孫であるためどんどんと進階し、十一年十二月.同中書門下平章事、檢校太尉。
十四年九月.兼中書令[乾符三年九月説もある],封趙國公食邑三千戶,食實封二百戶。
乾符二年三月.侍中を兼ねる。
四月.加開府儀同三司。
五年.常山郡王。
黃巢の乱にも義武王處存と協調し派兵し、貢輸を続けた。
中和二年三月.蔚州刺史蘇祐が濫りに起兵した時はこれを殺した。
節度使たること十四年、檢校太傅に至る[正任の太尉となったともいう]。
三年正月/二年十二月卒、年三十七,贈太傅,諡曰忠穆。
回紇の末裔である成德王氏も完全に貴族化していた。
成德節度では魏博や幽州と違い王氏の継承が定着し、武力的には弱体化していった。
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