帰服 [王武俊の裏切り]
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「潮時ですな!」と謀臣
「潮時かな?」と武俊
時は興元元年正月、朱泚の反乱で京師を失った皇帝は大赦を発して、おのれの間違いを謝した。自立して反乱を起こしていた王武俊も赦されたわけである。
「これ以上戦ってもなんの利益はありませんし」
「ここ数年間の戦乱で成徳六州は荒れ放題です」
「金も米もほとんど残っていません」
配下の武将達も戦いに疲れて厭戦気分である。
成德節度使李寶臣が死んで以来、三年間の戦乱が魏博・成徳の管区では続く。
自立した寶臣の子惟岳を討った武俊も、その中で成徳節度使の地位を求めて戦い続けてきた。功績にも関わらず恒冀二州しか与えられなかったのだ。
「魏博の田悅も疲弊しています。戦いをやめたいでしょう」
「しかし幽州の朱滔は納得しまい」と武俊
「奴の所は戦場になっていません、回紇を引き込んでこちらの土地を荒らすばかりです」
「このままでは滔は皇帝になりますが、殿は節度使のままでなんのプラスもありません」
「今なら皇帝はこちらの自立を認めます」
「同じ主君なら遠いほうが良いというではありませんか」と息子の士眞も賛成した。
「しかし滔に勝てるかどうかだ」
「河東の歩兵や昭義の弓兵と組めば、滔を破ることはむつかしくありません」
「騎兵にはこちらも自信があるしな」
「潮時だな」と武俊はつぶやいた。
五月、李抱真、王武俊連合軍は經城東南で滔軍を破った。斬首三萬級、滔は幽州に逃げ帰った。
*******背景*******
建中二年成德節度使李寶臣が卒した。德宗皇帝は子の惟岳の継承を認めず、幽州朱滔・河東馬燧・昭義李抱眞などに征討を命じた。
成德將張孝忠・康日知は唐に附き、王武俊が惟岳を殺して乱は平定された。
しかし德宗は戦後処置を誤り、滔・武俊を怒らせてまた乱が発生した。
幽州朱滔は武俊や魏博田悅と組み、回紇を引き込んで河北を征圧し東都を狙った。
しかし戦乱は長引き、疲弊した武俊や悅は唐との和約を望むようになっていった。
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