唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十五年 西暦 820 和暦 弘仁十一年 

2020-02-19 10:01:15 | Weblog
憲宗皇帝はもともと仏教・道教を深く信仰していた。藩鎭征討が続く間はそれでも
自制していたが、徐々にエスカレートし、特に道士の作る金丹を愛用して、精神に
異常をきたすことがあった。もともと強情で激発しやすい性格でもあり、宦官達に
対する懲罰も過激になることも増えてきた。
[唐の法律では奴隷であっても濫りに殺害することは禁じられていたが、皇帝にと
っては宦官は家畜程度の認識である。]

また憲宗は皇太子を評価せず[穆宗。凡庸で遊び好きで、確かに無能であった]、
信任する宦官吐突承璀は澧王惲に交代させることを密かに進言していたが、太子派
には既に洩れていた。太子は憂慮して義父の郭釗に相談し、大きな勢力を持つ郭家
も画策していた。

正月、沂海兗密觀察使曹華が兗州へ治所を移した。
 王弁の乱が起こった沂州では、収拾はしたものの安定しなかったため。



正月、義成節度使劉悟が入朝し憲宗に拝謁した。
 単なる儀式でしかないが、このころ憲宗は体調不良で姿を見せない事が多く、
 群臣は憂慮していた。

正月庚子,宦官陳弘志が憲宗を弒逆した。
 弘志の個人的暗殺ではなく、太子[郭家]と反吐突承璀宦官グループのクーデ
 ターである。公式には金丹による中毒死とした。
 宦官神策軍中尉梁守謙・馬進潭・劉承偕・韋元素・王守澄は太子を擁立し,
 吐突承璀と澧王惲を殺した。
 神策軍兵士達に莫大な褒賞を与えて慰撫した。
 これより宦官勢力は増大し無能な皇帝を擁立して勢力を振るうことになった。
 外戚となる郭家は家長の郭釗が謹慎な人であったので目立つことは無かった。
 陳弘志は処罰されることはなく、この後も在任した[15年後の太和9年文宗
 により誅された]。

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