唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劉玄佐/劉洽伝

2019-05-15 10:12:28 | Weblog
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劉玄佐/劉洽伝
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洽は滑州匡城の人。

放蕩をし、捕吏となるも罪を犯し鞭打たれる。

逃亡して永平軍の兵士となり、牙將に至る。

大曆中.李靈耀が汴州で反し、洽はその隙に乗じて宋州を陥し、永平軍の領とした。
十二年十月.永平節度使李勉は洽を宋州刺史とした。

建中二年正月.兼御史中丞充宣武軍宋亳潁節度使に昇進。
十月.兼御史大夫。
自立した淄青李納より、その叔父李洧が徐州を以って唐朝に歸した。
十一月.納は徐州を急攻したが、洽は洧を救い、納兵を大破し濮州を取り、貢輸路を通じさせた。

四年五月.功により檢校兵部尚書兼曹濮觀察淄青兗鄆招討使.累封四百戸。

淮西李希烈が反し、洽は永平李勉、淮南陳少游、東都哥舒曜と共に防いだ。

興元元年正月.敗北した李勉に代わり汴滑都統副使知都統事。

三月.檢校尚書左僕射、同中書門下平章事。

十一月.希烈が陳州を攻めたが、洽はこれを破り汴州を回復した。
加汴宋節度使陳州諸軍行營都統。

貞元元年三月.入朝し檢校司空.八百戶。。
四月/五月.賜名されて玄佐となった。
六月.汴州刺史となる。

二年九月.義成節度李澄が卒し、其子克寧が自立しようとしたことを抑える。

十一月.鎭海節度韓滉に従い始めて入朝。
滉は玄佐を対吐蕃防衛の主将に薦め、本人もその気であったが滉の死により辞した。

四年正月.検校司徒兼涇原四鎮北庭兵馬副元帥。

性は豪縱、財を軽んじて兵に厚賞を与えることを好み、百姓に重税を賦課した。
汴州の兵は李忠臣の統治以来、横暴であったが玄によりより甚だしくなった。

しかし玄佐の母は臣節を尊び、訓戒を忘れなかったので唐朝には忠実であった。
また隣藩の淄青の内情を深く探り、李納は怖れて侵犯することがなかった。

貞元八年二月/三月.鎭に卒する。年五十八,贈太傅,諡曰壯武。
妾と私通とた部下に殺されたという説もある。

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