唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河陽節度使史4

2020-10-05 10:00:57 | Weblog
乾符元年[874年]
◎. 穆仁裕は乾符2年に検校刑部尚書宣武軍節度使に転じる。
◎.正月 金紫光禄大夫尚書左丞翰林学士承旨鄭延休が檢校禮部尚書河陽節度使となる。

乾符五年[878年]
◎.3月 河陽兵千人が宣武・昭義軍とともに黄巣から東都防衛にあたった。
◎.7月 義成・忠武・昭義軍とともに晉陽へ、沙陀李國昌を防いだ。

乾符六年[879年]
◎.正月 鄭延休は山西節度使へ転じる。

廣明元年[880年]
◎.11月 蔚朔等州諸道行營都招討使李琢[晟の孫.聴の子]が河陽節度使となるが、入れず貶■刺史。
琢は檢校吏部尚書前太常/太僕卿隴西郡開國公三千戸、4月に光祿大夫檢校右僕射御史大夫蔚朔等州招討都統行營節度使となり、沙陀を討った。6月沙陀を破り、7月蔚州を陥した。11月黄巣を討つことを命ぜられた。
◎.11月 神策大将軍羅元杲が河陽節度使となるが、諸葛爽に敗北して行在に遁走。
◎.12月 黄巣は降ってきた夏綏節度使諸葛爽を河陽節度使とした。
爽は汝州防御使から、北面行營副招討として沙陀と戦い、5月振武節度使、10月に夏綏節度使[両方とも赴任せず]となり、11月に河東鄭従讜から黄巣を討つことを命ぜられたが衆寡敵せず降った。

中和元年[881年]
◎.3月 通鑑では前夏綏節度使諸葛爽復自河陽奉表自歸,即以為河陽節度使と帰順しているが、[旧紀]では8月.諸葛爽降賊,偽署爽河陽節度使と誤記している。

中和二年[882年]
◎.正月 宰相王鐸が京師回復をめざして諸道行營都都統權知義成節度使となり、諸葛爽及宣武節度使康實は左・右都統先鋒使となった。
◎.5月 功績により諸葛爽は同平章事となった。使相濫造である。
◎.8月 魏博節度使韓簡は勢力拡大を図り、軍三萬を率いて河陽を攻めた。爽は河陽城を棄てて逃げた。簡が守河橋を確保し、鄆州天平節度使に侵攻した。

中和三年[883年]
◎.2月 魏博節度使韓簡は天平を攻めたが降せない間に、諸葛爽は河陽を回復し、將李罕之は武陟に魏博軍を大破した。敗走した韓簡は部下に殺された。爽が河陽節度使に戻った。

中和四年[884年]
◎.2月 河東節度使李克用は黄巣を討つため南下したが、河陽節度使諸葛爽は河橋が不完であることを理由とし、澤州で阻止した。3月 やむをえず克用は河中で渡河した。

光啓二年[886年]
◎.10月 河陽節度使諸葛爽は卒し、大將劉經と張全義は爽の子仲方を留後とした。
◎.12月 將劉經と張全義・李罕之の間で内紛が起こり相い攻め合ったが、黄巣に附いた蔡州秦宗權の將孫儒が来寇し河陽を陥し、仲方は汴州に逃れ、將李罕之は澤州に、張全義は懷州に籠もった。

光啓三年[887年]
◎.5月 孫儒は秦賢が孝村で朱全忠等に大敗したことを聞き、河陽を屠して焼き払って去った。舊將李罕之が澤州より来て河陽を、懷州刺史張全義が洛陽を回収した。

文德元年[888年]
◎.4月 河南尹張全義は懸命に荒廃した東都を再建していたが、李罕之は流賊上がりのいいかげんさで掠奪で生計を立て、全義領も荒らした。がまんできなくなった全義は河陽を襲撃し、罕之を澤州に逐った。
◎.7月 澤州刺史李罕之は河東李克用の兵を率いて河陽を攻撃した。危機に瀕した全義は、克用と不仲の宣武節度朱全忠に懇願して支援を求めた。そこで全忠將丁會が来援し罕之を破った。罕之は澤州に戻り克用の麾下となり、全義は東都に戻り全忠の麾下となった。河陽留後として丁會が入った。

龍紀元年[889年]
◎. 河陽留後は全忠將張宗厚→朱崇節となったもよう。

大順元年[890年]
◎.5月 克用麾下の昭義留後李克恭が乱殺され、全忠は河陽留後朱崇節を潞州に入れて權知留後とした。克用は康君立・李存孝に包囲させた。
◎.7月 全忠將葛従周等が潞州に入った、
◎.9月 全忠軍は潞州から敗走し朱崇節は河陽に戻ったようだ。特進検校司徒兼御史大夫河陽節度使.沛縣子五百戸となったか?。

大順二年[891年]
◎.8月 李克用が懷孟州に来寇。
◎. 河陽節度使は朱崇節から趙克裕に代わったようだ。いずれも全忠麾下の交代である。

景福元年[892年]
◎.5月 河南尹張全義は兼檢校司徒同平章事兼孟州刺史充河陽三城節度孟懷澤觀察等使。趙克裕は左遷されたようである。

乾寧元年[894年]
◎. この頃の河陽留後は侯言。当時河東李克用は全盛で全忠はこの方面では守りを固めるだけだった。

光化元年[898年]
◎. 全忠は武寧・天平・泰寧の三鎭を平定し、將丁會を河陽留後に送り込んだ。

光化二年[899年]
◎.正月 留後丁會は檢校司徒孟州刺史河陽節度使となった。元年12月に克用麾下の李罕之が反して潞州を占拠し全忠に附き、この月に昭義節度使として任命それに連れる。
◎.3月 河陽節度使丁會は澤州を陥した。
◎.5月 李克用軍が潞州李罕之を攻めた。全忠は河陽に進み、張存敬・丁會を派遣して撃退した。
◎.6月 疾が重い昭義節度使檢校太尉兼太師侍中潞州大都督府長史隴西郡公三千戸李罕之を孟州刺史充河陽三城節度孟懷觀察等使として、檢校司徒孟州刺史河陽節度使丁會を澤潞等節度使に交代させた。李罕之は懷州まで来たがそこで死んだ。
◎.8月 克用軍が澤潞二州を奪回した。
◎.8月 全忠は澤州を河陽からはずし、河南府の王屋、清河、鞏三縣を河陽節度に領させた。

光化三年[900年]
◎.10月 克用將李嗣昭は幽州劉仁恭を支援するため、懷州を陥し河陽に迫った。留後侯言は狼狽したが、佑国軍將閻寶が力戰して撃退した。

光化四年/天復元年[901年]
◎.閏6月 検校司徒河陽節度丁會を潞州大都督府長史昭義節度等使とし、昭義節度等使孟遷[3月に全忠軍に攻められ潞州をもって降っていた]を檢校司徒為河陽節度使とした。
裏切り常習の孟遷はまもなく全忠に殺された。
河陽節度から澤州を削るといことがまた書かれている。

天祐元年[904年]
◎.5月 河陽節度使張漢瑜に加同平章事。漢瑜については詳細不明だが、沁州刺史として特進.縣男を与えられている勅がある。

天祐二年[905年]
◎.3月 降伏していた前平盧軍節度使檢校太傅同平章事兼青州刺史琅邪郡公二千五百戸王師範を孟州刺史河陽三城懷孟節度觀察等使に移す、もちろん実権はない。後梁に入って右金吾上将軍となり、開平2年[908年]、朱友寧敗死の恨みから族滅される。

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