やり過ぎ [武寧牙軍の横暴]
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「横暴な武寧軍の兵士を抑えるには・・・という方法で」
「単なる進士出身の者には・・・無理でしょうね」
先ほどより帝前では、大府卿崔珙が滔々と論じていた。
自立して節度使となった王智興が転じた後、彼がさんざん甘やかせた武寧軍の兵士達は、新任の節度使高瑀を追い出したのであった。
瑀は忠武軍節度使としては有能なほうであったが、無頼の武寧軍を抑えることはだきなかった。
「兵士の集団を扱うときは・・・」まだまだ珙は調子に乗って論じていた。
「三年勤めると大金持ち、五年勤めると孫の代まで」といわれる実入りの良い嶺南節度使を約束されて気持ちが高ぶっていたのだ。
文宗皇帝はすっかり感心してしまった。
「朕はそなたを武寧軍節度使にすることにした。嶺南は王茂元にでもやらせよう」
珙は愕然として己のやりすぎを悟った。
しかし今から引くことはできない。
「承知しました。武寧をしっかり抑えてみせましょう」
そしておのれのおしゃべりを悔いながら退出していった。
しかしなんとか任期中は強暴な武寧軍を抑えきって右金吾大将軍、京兆尹として出世していった。
*******背景*******
徐州武寧軍節度使は、自立した強大な淄青平盧軍節度使を抑えるために作られた方鎭で、憲宗によって淄青が解体された後も、その牙軍は自立心が高かった。
長慶二年その將王智興は節度使崔羣を逐って自立した。しかし自立を追認された後は、宣武軍・横海軍の反乱鎮定に功績をあげたが、同僚だった牙軍諸将を抑えかねて、太和六年には他鎭への転任を願い出た。
そのため忠武軍節度使高瑀との交代となったわけである。瑀は清廉で忠武軍を統制していたのだが、まもなく強暴な武寧牙軍は統制できなくなって交代を求めてきたのである。
崔珙はなんとか抑えきったが、後任の節度使達はしばしば軍乱に逐われ、ひたすら牙軍を甘やかすしかなかった。