渭水の盟 [太宗の恥辱]
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武德九年七月、父の高祖皇帝を恫喝して退位させ、強引に即位した皇太子世民[太宗]のもとに急報が入った。
突厥頡利可汗・突利可汗が百万と号する大軍で侵攻してきて渭水に迫ってきていた。
突厥の使節執失思力は
「可汗は属国の帝が許可も得ず即位したことに激怒されています」
「また皇太子建成や齊王元吉を殺害し、高祖皇帝を廃位した事に異議をとなえておられます」と高飛車に言い放った。
皇太子・齊王殺害は太宗側の一方的な襲撃であり大義は無い。
また高祖は進んで地位を譲ったわけではなく、武将尉遅敬德の武力による威嚇に脅えた結果である。
そのため朝廷の人心は太宗に決して好意的ではないのだ。
「まずいな、戦うわけにはいかないし、その戦力も今はない」
と太宗は判断し、思力に皇居を預け、わずかな供回りとともに渭水へむかった。
そして可汗の元で、莫大な貢ぎ物とともに平伏謝罪した。
諸臣には絶対見せられない状景だ。
もともと可汗は本気で征討する気などは無く、宗主国としての権威を示すつもりであったので、平身低頭する太宗の地位を追認してやった。
そこで正史では「挺身輕出,軍容甚盛,有懼色」とか「頡利獻馬三千匹、羊萬口,帝不受」という与太話を加えてごまかしている。貢ぎ物を出したのは太宗で、頡利可汗が馬・羊などをくれるはずもないので受け取れるはずもないのである。
「くそ、この恥は晴らさないではおられぬわ」
太宗にとっては恥辱の極みであり、この後対突厥軍備に邁進していくのであった。
*******背景*******
唐高祖は隋に太原で反した時から突厥の支援を受けていた。その後も何度かの支援・対立関係があったが、強大な突厥帝国の属国であった。唐は漢民族の国家ではなく鮮卑族が建てた国なので、初期は中華思想的なものはなく、突厥の支配下にあることに違和感はなかったようである。
高祖の失敗により、あまりに太宗[世民]の軍功が大きくなりすぎ、皇太子建成との対立が国家をゆるがすようになってしまったのでこのような事態を引き起こしてしまった。
この時点で太宗は自分の部下達を除き、唐帝国の宰相や軍を掌握していなかったため、総力戦に入ることができなかった。
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