いつも寝不足 (blog版)

動物園・水族館へ行った記録が中心(?)。
他の話題はいつも寝不足 (信州FM版)で。

香山リカ『貧乏クジ世代』

2006年05月13日 | 読書
貧乏クジ世代―この時代に生まれて損をした!?

PHP研究所

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ここで言う「貧乏クジ世代」とは、いわゆる団塊ジュニアを中心とした70年代生まれのことで、わずかに遅く生まれたために上の世代のようなバブルの恩恵を受けられず、また、わずかに早く生まれたために少子化の進む下の世代のよりも苛烈な世代内での競争を強いられた世代のことである。

1985年に成立した男女雇用機会均等法の一期生にあたる女性についても同じ「貧乏クジ世代」という括りで論じてはいるが、分量的にも少ないので70年代の団塊ジュニア(第二次ベビーブーム世代)がメインだろう。

なかなか示唆に富んだ面白い本なのだが、惜しむらくは客観性に乏しい。これは上掲のリンク先でレビュアーの多くが指摘していることだ。本書の終盤に『「甘え」の構造』が客観的データ性に乏しかったことを指摘しているために、余計そのことが強く意識されるのだろう。

また、団塊ジュニアが主たる対象のはずなのに、70年代生まれと風呂敷を広げ過ぎている点も気になる。いわゆる団塊ジュニア(※)とは71-74年生まれを指すのだが、考察・論考の対象を70年代生まれとしてしまうと、論旨がぼやけてしまう。
※団塊世代の子供が1番多くなるのは、この後であるという点は特に気にする必要はない。

なぜなら、「貧乏クジ世代」を特徴づけるのがバブルの経験(リアルタイムの直接的な経験とは限らない)、より正確には、バブル以前・バブル以後の両方をを知っていることなのに、79年生まれではバブル崩壊時点(91年)でまだ12歳(小6)だし、75年生まれでも16歳(高1)だからだ。個人差はあるにしても、70年代後半生まれがバブル以前・バブル以後を明確に経験しているとは考えづらい。

また、団塊ジュニアであっても、高卒以下は明らかに対象にならない。より正確には都市部の有名大学出身者のみが対象であるはずなのに、そのことを明言していない。「貧乏クジ世代」の着想自体が、いわゆる「勝ち組」に属する人たちを診察した経験に基づいていることは明らかだし、実例として持ち出されるものも大手企業や中央省庁に属する人たちがほとんどなので、ちゃんと読めば、この点は明らかなのだが、意識的にか無意識的にか、あまり深くは言及されていない。

以上をまとめると、この本の考察・論考の対象は71-74年生まれの団塊ジュニアで都市部の有名大学出身者であるが、必ずしも客観的データに基づいたものではない。

じゃぁ、読む価値がないかというと、必ずしもそうとは言い切れない。少なくとも、主たる対象である71-74年生まれの団塊ジュニアで都市部の有名大学出身者のうち、不遇感を拭えない人は読むべきだろうし、論考・考察の対象がかなり限定されていることを承知していれば、書名に騙されたとは思うまい。

以下余談。

世代論というのはなかなか難しくて、論じられることの多い団塊の世代にしても、単純にその時代に生まれたという括りで論じてしまうとおかしなことになる。少なくとも、全共闘世代、すなわち、大学へ進学した者と、それ以外は区別しなければならない。

同じ世代の中でも様々な階層が存在することを意識しないと、いわゆる2007年問題で団塊の世代のうちホワイトカラーに属する人たちの定年まで問題であるかのような誤った議論がまかり通ることになる。2007年問題で問題になるのは基本的に熟練工の技術の継承であって、ホワイトカラーは対象にならない。また、継承が危惧される熟練工の技術は、それほどには多くないと思われる。したがって、2007年問題は存在しないというのが私の認識。ただし、「2007年問題」問題は存在する。

海道龍一朗『真剣』

2006年02月17日 | 読書
友人に薦められて読んでみた。

真剣―新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱

新潮社

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上泉伊勢守や新陰流と言ってもピンと来る人の方が少ないかと思う。柳生十兵衛なんかで有名な柳生新陰流の師匠筋と言えば多少は分かるかな。

かく言う私も、そこそこ時代小説を読むし、岩明均の「剣の舞」で上泉伊勢守の一番弟子 疋田文五郎が主人公になっているので多少は知っていたのだが、剣豪小説には余り興味がないのもあって、その生涯についてほとんど知るところがなかった。
雪の峠・剣の舞

講談社

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全体としてみると、デビュー作にしてはなかなか良い出来だと言える。ただ、読んでいて気になったのが言葉遣い。戦国時代の人間が「真逆まぎゃく」はないだろう。愛洲移香斎や宝蔵院胤栄にわざわざ(いわゆる)関西弁をしゃべらせたりして、本人も上方文化に浸るために引っ越したほどなのに、これはないでしょう。また、白旗を振って降伏ってのもいただけない。白旗は源氏の旗であって、降伏のしるしにはならない。

そして、これは紙幅のせいかと思うが、壮年期の事績がちょっと薄い気がする。もちろん、わざと城を明け渡した上で取り返したりするエピソードも入っているのだが、いっそのこと、このあたりはもっと端折って胤栄との対戦にもっていった方が良かったような気がする。

北畠具教とものりとの闘茶のくだりも、エピソードとしては面白いが、全体としてみた場合、あまり必要がない気がする。特に、北畠具教が結局、上泉伊勢守を手放すための理屈こねの部分はくどくどし過ぎる。言いたいことは分かるのだが、作品の構成として考えた場合、要らないよね。

何か、良くない点ばかり書いてしまったが、700ページ近くある分厚い本にも関わらず、読むのにそれほど手間取らないのは、やっぱり良く書けている証拠なのだろう。さすがにワンシッティングとはいかないが、それに近い感じで読めると思う。

肩のこらない歴史小説を読みたい人や、人物の清々しい物語を読みたい人にはお薦めかな。

『生協の白石さん』

2005年12月11日 | 読書
各種メディアで取り上げられ、Amazon.co.jpのランキングでも1ヶ月以上上位をキープしているので今さらという気もしないではないし、本が出る前から知っていたのだが、妹が図書館から借りてきたので読んでみた。

生協の白石さん

講談社

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既に知っている受け答えも活字になって読み返してみると、また違った味わいがある。それに、農工大の前は早稲田にいたってのも親近感を抱かせる。1994年か95年にはいたようなので、見たことあるかも。当然憶えていないけれど。

更に言えば、がんばれ、生協の白石さん!の管理人は長野県出身だし、白石さんの出身大学は信大だ。何学部なのか知らないが、思誠寮にいたそうなので高校の同級生に訊けば知ってるかも。

個人的に最も好きなのが「死にたい。」に関する答え。このユーモアがありつつも真剣な切り返しは本当に「上手いなぁ~」と感じ入ってしまう。

ところで、この本を読んだ妹の感想が、「頑張って農工大行けば良かった」。岡山大学農学部(※)出身者が何を言ってるんだか。とは言え、大学時代に教えを受けた先生の多くが農工大出身者で「何で、農工大行かなかったの」と言われたことがある本人にしか分からない感想なのかもね。
※大原農業研究所の流れを組む研究室じゃなかったってのもあるようだ。

『死体まわりのビジネス』

2005年11月07日 | 読書
数年前に、「世界まる見え!テレビ特捜部」でも紹介されたことがある犯罪現場清掃会社のルポルタージュ。

死体まわりのビジネス-実録●犯罪現場清掃会社

バジリコ

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Amazon.co.jpのカスタマレビューを読む限り原書のMop Men からはかなり刈り込まれているようで、残念。オリジナルが224ページで、翻訳も同じくらいのページ数ってことは大体1/3くらい刈り込まれてるかな。殊に写真が皆無ってのは痛いな。

犯罪現場清掃会社を簡単に説明すると、犯罪・事故・自殺などで汚れた現場を血痕一つ残さずに清掃する会社。社長のニール・スミザーが映画『パルプ・フィクション』を見て思いついたそうだ。

まぁ、そういう会社はあっても不思議ではないし、実際、ないと何かと困るだろう。ただ、この会社が変わっているのは車やTシャツ、キャップにまで会社の名前を入れていることや、社長が露悪的に冒涜的な言辞を弄するところかな。仕事が暇な時は、誰か汚く死んでくれないか(※)、と願っていることは冗談交じりとは言え本当だろう。
※きれいに死んだら仕事にならないから。

ただし、そう願ったからと言って誰か死んでくれるわけではないし、そんなことを願わなくても仕事は定期的に確実に発生することはニール・スミザーが言っている通り。そもそも、犯罪現場清掃会社が成功している理由は、より良い仕事をより安くという点にある。他社が1万ドルの見積もりを出すところで、半値の5千ドル以下で完全保証つきの仕事をするんだから成功しない方がおかしいとも言える。

言い換えると、犯罪現場清掃会社はビジネスとして犯罪現場を清掃するプロフェッショナルな会社だと言える。つまり、散弾銃で頭を吹っ飛ばして自殺したジョニー坊やの脳みそを母親や父親が片づけなくて済むようにするとともに、その自殺自体には何の感傷も抱かず(※)あくまでも飯のタネとだけ捉えている。
※と言うか、あからさまに罵倒している。もちろん、この罵倒も宣伝戦略の一部。

こういった割り切りがなければ、死亡後1ヶ月もバスタブの中に放置された腐乱死体の痕跡を片づけるなんてできないよね。この腐乱死体ができあがるまでの描写が秀逸だと思うので、ちょっと長めに引用。


動物の腸には、その内容物をエサにする細菌が無数に住みついている。宿主が死体になると、細菌は腸そのものを蝕み、やがて腸を破って周りの臓器まで侵し始める。

そして、クロバエやキンバエの仲間、よくいるイエバエなどが死の匂いをかぎつける。ハエは死体の選り好みをしない。老衰だろうが、自殺だろうが、殺人だろうがおかまいなしだ。

死んでから数分以内の肉体にやってきて、まだ柔らかい肉に卵を産みつける。鼻孔や耳、目、傷口などの穴は格好の産卵場所だ。産みつけられた卵は、温度にもよるがふつう八時間から一五時間で孵化する。うじ虫が成熟するまでにも同じくらいの時間がかかる。その間うじ虫は液体タンパクに頼って生きるが、成熟してからの数日間は鋭いフック状の口で肉のごちそうを引きちぎって食べる。さらに一週間経つと成長を終えてサナギになる。まもなくハエとなり、新たな卵を産みつけるのである。卵、うじ虫、ハエと変化するサイクルは二、三週間だ。

うじ虫の一群は、恐るべきスピードで死体を貪り食う。群がったうじ虫は肉に突進して穴を開けていくが、しばらくすると群れの一番上に這い上がって空気を吸い、また肉に突進してはかぶりつく。上がってくるうじ虫と潜っていくうじ虫が入り乱れ、熱狂のるつぼと化す。群れが生み出す熱によって、気温の低い場所でもうじ虫は成長できるのである。

細菌も組織や細胞を分解し続ける。体液は染み出して体腔に溜まり、様々なガスが発生する。硫化水素やメタン、カダベリン、プトレシンだ。ガスは細菌の成長を促進し、圧力を高めていく。この圧力が身体を膨らませ、細胞や血管から体液を体腔に流れ込ませる。

腐敗はどんどんスピードを増して進んでいく。肉体から漏れ出た液体やガスが、さらにクロバエ、ニクバエ、甲虫、ダニを引き寄せる。遅れてきた虫たちの中には、腐肉だけでなくうじ虫を補食ママするものもいる。

二週目までに肉体は崩れ、黒ずみ、臓器が露出し、強烈な悪臭になる。大量の液体が染み出し、それをエサとする虫が集まってくる。この時点で、肉体を貪る虫は数種類になっている。
「File 04 浴槽の中の男 I ―うじ虫とハエとゲイリーの結末―」 pp. 58-59


何か、この引用だけ見ると、死をエンターテイメントとして取り扱う本に思えるかもしれないが、それはちょっと違う。いや、著者は「娯楽としての死」が飯のタネとなる雑誌世界のライターなので、「娯楽としての死」のより良き提供者となるべく犯罪現場清掃会社の取材をするわけだけれど、その自覚が、この本を(少なくともこの本に関しては。今後のことはいざ知らず)単純な「娯楽としての死」の提供に留まらないものにしているのだと思う。もちろん、それも計算のうちだとは思うが。

いずれにせよ、大上段に構えずに「娯楽としての死」を考え、自らゴム手袋をはめて犯罪現場を清掃した著者にしか書けないものに仕上がっていると思う。また、ニール・スミザーにはその罪深い言辞にもかかわらず、成功を追い求める有能な実業家として清々しささえ覚える。

復刊ドットコム奮戦記

2005年10月09日 | 読書
本てぇのは代替性が極端に低いという点でかなり特異な商品だと言える。ジイドの代わりにヘミングウェイとか、鉄腕アトムの代わりにドラえもんという訳にはいかないのは誰でも納得するところだと思う。究極のニッチ商品なのかもしれない。

んが、しかし、需要のある本が常に入手可能とは限らない。古本屋で探せば手に入らないこともないが、定価1,000円の本が数万円で取引されることも珍しくはない。読めればいいなら図書館という手もないではないが、本好きの人は少なからず所有することを望む。そこに復刊ビジネスという分野が成り立つ余地がある。

復刊ドットコム奮戦記-マニアの熱意がつくる新しいネットビジネス

築地書館

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復刊ドットコムを運営するブッキングは元々はオンデマンド印刷による本の販売を目的に作られた会社だが、これが全く振るわないことから飯のタネを探して辿り着いたのが、復刊ビジネス。

「奮戦記」と言うには記述もあっさりしているし、エピソードも多くないので盛り上がりにも今一つ欠けるが、1冊の本が復刊されるまでに実に様々な問題を解決していかなければならないということが分かる。

復刊のために解決しなければならない問題とは大別すると経済的なものと著作権がらみのものがある。前者の解決は比較的容易なのだが、後者は難しい場合が少なくない。著作者が嫌だと一言言えばどうしようもないし、そもそも著作権者と連絡が取れない場合もある。

それらの問題をクリアするためにブッキングの社員達がありとあらゆる手段を行使し、復刊を望むファンから様々な協力を得て、遂に復刊に辿り着く様子は、本好きの一人としては熱くこみ上げてくるものを感じざるを得ない。

また、復刊される本はその復刊を熱烈に望む人たちがいてこそ初めて復刊されるので、ほぼ間違いなく面白い本であることが保証されているとも言える。その意味では、隠れた傑作を知るための手引きとしても使用できる。

僕たちの終末

2005年09月27日 | 読書
神様のパズル』、『メシアの処方箋』に続く機本伸司の3冊目。

僕たちの終末

角川春樹事務所

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今回の舞台は太陽の活動異常のために人類滅亡の危機に瀕した2050年近辺。この危機を奇貨として外宇宙への移民船を飛ばしてしまおうとする民間プロジェクトの顛末が描かれている。多分、アニメやマンガ、各種SF小説などの影響で、人類は(いつかは)外宇宙へ進出するだろうと漠然と思っていたが、その実務となるとなかなか想像できていない。

例えば、恒星間航行可能な宇宙船を建造するためには何万~何百万tの物資が必要で、それを宇宙へ運び出すにはスペースプレーンを何回飛ばさなければならないか。また、長期航行に備えて持続可能な船内環境を整えるには何万tの水が必要で、循環システムはどうするのか。水洗トイレは使用できるのか。肥だめは不可避なのか。そもそも、費用はどれくらいで、その資金繰りはどうするか。

考え出すだけで頭が痛くなる。宇宙船を飛ばすのが夢ではなく、現実になるとはこういうことなのか、と瞠目せざるを得ない。もっとも、上記のような問題は思考実験の段階を出ることなく唐突に宇宙船は完成しちゃうんだけど。この展開は、かなり肩透かし。

もっとも、本書の冒頭は「ここは自分のいるべき場所じゃない」という主人公の神崎正の独白から始まり、「なあ、僕をプログラミングした奴は、どんな奴なんだろうな」「それに僕は、何で僕なんだ?」という問題の提起がされているので、必ずしも、宇宙船建設にまつわる細かい話は重用ではないのかもしれない。

しかし、この問題って、本当に終盤になるまで再提示されないので読者はスッカラカンに忘れてるんじゃないだろうか。それに、109頁から112頁掛けて展開される正の演説がいかしてるので、尚更、主題は宇宙船の建造だけであるかのような錯覚に陥ってしまう。宇宙船の建造へと駆り立てている動機がどこにあったのか終盤まで忘却の彼方ってのはどうかと思う。

確かに、真っ先に提示されている問題を忘れてしまうのはいけないとは思うが、構成的に、頭とお尻に比べて、間に挟まれている部分が長過ぎると思う。また、最後まで読めば、所々にそれを匂わすエピソードが挟まれていたのが分かるのだが、必ずしも、冒頭の問題を十分に想起させるものではなく、これから本格的に宇宙船建造かと思った瞬間に、ハイできあがり、ってのは何だかなぁ。

え~っと、まとめ直すと本書の問題点は以下の通り。宇宙船建造という問題と、それに駆り立てている動機が上手く結びついて描写されておらず、唐突に宇宙船は完成するわ、忘却の彼方にあった最初の主題が最終盤にいきなり戻ってきてびっくりするわで、何か、全体的に不調和な感を拭えない。宇宙船建造に関する問題も、その動機も、別個に取り出せばなかなか良く書けていると思うのだが、両者が上手く調和していない。

読んでいない人には訳が分からないだろうが、344頁の「<あきらめないで>」へ至る展開は嘆息するほど美しいと思う。ただ、上記のような問題のために作品全体としての完成度は必ずしも高くなく残念。

話だけがどんどん進んでいって、その展開を支えている個々の心情なんかが置き去りにされているってのは前2作にも共通する問題点なのだが、少なくとも、今回は予め提示はされているだけ前進なのかな。前2作では、そんな話は聞いてない、としか言いようのない唐突さで物語の中に出てきていたから。次回作に期待かな。

いしかわじゅん『鉄槌!』

2005年09月25日 | 読書
話題のネコ裁判のコメントで紹介されていたので読んでみた。

鉄槌!

角川書店

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いしかわじゅんと言えば、最近は『BS マンガ夜話』で有名らしいが、私にとっては火浦功作品のカバーを描いてた人というのが最もしっくりくる。もちろん、『漫画の時間』の著者であり、『薔薇の木に薔薇の花咲く』や『東京物語』などの作者でもある。

さて、本書は、スキーバスに吹雪の中で置き去りにされ命の危険を感じた著者が、そのことをエッセイマンガで描いたところ、名誉毀損で訴えられることから始まる。偽証人まで繰り出す原告や非常に不可解な弁護士たちの行動に悶々としつつも、取り敢えず和解(不本意ながら)に至るまでの経緯がテンポ良く書かれている。

著者は、一気に読んでしまったと言われるのが一番嬉しいらしいが、確かに、一気に読まずにはいられない。文庫版には、偽証人への電話インタビューも追加されている。

ちなみに、件のスキーバスの会社はビッグホリデー(http://bigs.jp/)(※)
※リンクの条件をゴチャゴチャ書いてるのでリンクしない。訴えられちゃたまらんからね。

斎藤貴男の意外な著作

2005年08月30日 | 読書
斎藤貴男というと、『機会不平等』(文春文庫)が一番有名かと思うが『国が騙した』(文藝春秋、1993年)の次に、オリジナルの『夕やけを見ていた男 ―評伝 梶原一騎』(新潮社、1995年)を著している。

梶原一騎伝 夕やけを見ていた男

文藝春秋

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そう言えば、オリジナルが出た時に買おうかと思った記憶がうっすらとある。ただ、当時は梶原一騎にそれほど興味がなかったので買わなかったが。

では、現在は興味があるのかと言われると微妙なところだが、桑田乃梨子の作品のあとがき(くわた劇場だっけ?)に『愛と誠』の話が何回か出てきて興味をそそられたため、『愛と誠』は取り敢えず(新書版の方をヤフオクで)買って読んだ。

正直言って、あまりピンと来なかったのだが梶原一騎作品に特有の暑苦しさが印象に残った。また、今回『梶原一騎伝』の指摘で明瞭になったのだが、かなり殺伐とした作品(特に後半)でありながらも映画化されたり賞を取ったりと、なかなか評価の難しい作品でもある。

それにしても、梶原一騎の原作になる作品の何と多いことかと驚嘆させられた。一番有名なのは『巨人の星』、『タイガーマスク』、『あしたのジョー』などのいわゆるスポ根ものかと思うが、それ以外にも様々な原作を手がけている。

例えば、デビューしたばかりの矢口高雄と組んだ『おとこ道』や上掲の『愛と誠』、そして『朝日の恋人』などなど。この3作品は

How to Stop Worrying and Start Living

2005年08月23日 | 読書
原題はタイトルの通り。ちょっとくどく訳すと、くよくよと悩むのをやめ、はつらつとした生活を始めるのにはどうすれば良いか、といったところか。

道は開ける 新装版

創元社

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まだ読んでいる途中なのだが、第六章「心の中から悩みを追い出すには」で紹介されているジョージ・バーナード・ショーの言葉が素晴らしい。

惨めな気持ちになる秘訣は、自分が幸福であるか否かについて考える暇を持つことだ。

本書の中で神経衰弱とか、憂うつと称されているものは、今の括りでいうと、うつ病になるかと思うが、本書をうつ病真っ只中の人に適用するのは正直厳しいかと思う。初期もしくは回復期にある人なら大いに助けになるだろうし、健常な人にも悩みの陥穽に落ち込まないための手引きになるかと思う。

皇室を知る

2005年08月17日 | 読書
おことば 戦後皇室語録

新潮社

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私の皇室に対するイメージってのは、第五章「そして、昭和は終わった (昭和五十八年~平成二年)」と第六章「無関心にさらされて (平成三年~十年)」の章題がなかなか端的に表していると思う。特に後者が。昭和47年生まれなので、今上の恋愛→成婚は両親がまだ少年と呼ばれるような頃の話だし、島田雅彦(編著者)のように自分の成長と皇太子の成長を併置して感じることもできなかった。皇太子の成婚だってさして身近な話題という訳でもない。

こういった事情(基本的に無関心)は、ほとんどの人に共通するものだと思う。例えば、

昭和三十四年十月、「皇室アルバム」は華々しく放映を開始した。「開かれた皇室」を象徴するこの番組は、皇室の生活についてのディディールを公開する画期的な番組だった。(p. 97)

で始まる「『皇室アルバム』と僕」の結語は以下の通りだ。

実は今でも、「皇室アルバム」は週末の早朝に放映されている。(p. 98)


もちろん、折々に触れて皇室の話題はニュースでも流されるし、皇位継承権や人格否定発言などなどで週刊誌の話題をさらうことも珍しくはない。しかし、皇室という枠で括られてしまう人たちが実は人間で、各々の感情と将来への希望や不安を抱きながら生きているということをどれだけの人が身に沁みて考えたことがあるのか分からない。

少し話が逸れるが、城山三郎『大義の末』(角川文庫、1975年)に東京高商(現 一橋大学)を慰問(?)に訪れる当時11歳の今上の姿が描かれている。それまで、天皇というと昭和天皇の変ちくりんなしゃべり方(※1)や、お仕着せ風のお言葉を述べる(※2)今上の姿しか思い浮かばなかったが、『大義の末』に描かれた少年皇太子は、敗戦という事実と皇統を継ぐ者であるという事実の狭間で懸命に振る舞う(皇族に求められるものを)けなげな一少年でしかなかった。
※1 その理由についても、本書で簡単ながら触れられている。
※2 もちろん、お仕着せの場合もあろうが、可能な限り自分の意見・言葉を述べようとしていることは、編著者が指摘している通り。


そして、その後に続く主人公(おそらく城山三郎自身)の感想が、少なくとも私の今上に対する考えを変えた。現在の象徴天皇制について、また、皇室の存続(廃絶含む)について最も真剣に考え苦悶してきたのは他ならぬ今上のはずで、その結果が開かれた皇室と平和憲法に則った各種のお言葉や行動として表れているように思う。この点を島田雅彦は以下のように述べている。

英王室に範を採った当時の宮内庁首脳部は、このような大衆化を全て許した。「『恋』の『平民』皇太子妃ブームは、いわば新憲法を前提としてのみブームとなり得たのである。それは新憲法ブームという方がふさわしくはなかろうか」という松下圭一は予言的に述べているが、のちにケネス・ルオフが『国民の天皇』で考察しているように、それは正しい見通しだった。

現在の明仁天皇を見ていると、ご成婚当時の天皇観をそのまま堅持し、揺るぎがないという印象がある。右翼の批判などどこ吹く風、自分は確かに天皇ではあるけれども、たとえ一人の市民だとしても、公の義務と責任をしっかり果たしさえすれば、敬意を持って遇される人間になる、という民主主義の思念に極めて忠実に行動しておられるように見受けられる。

神としての天皇の威厳や、国民的影響力を発揮するカリスマよりも、率直で、礼儀正しく、信念に基づいて行動する善人になること。一学者としても成果を残しているし、昭和天皇の代行として諸外国に謝罪を続けた独自の気配りと歴史観は終始一貫している。また、現代では形骸化してしまっている一夫一婦制、ここでは妻一筋に生きる姿勢を、これほど律儀に守っているご夫妻も珍しい。

明仁天皇は、その地位が約束されずとも、世間の荒波を実力で渡ってゆくことができる人材に育ったに違いない。歴代の天皇に比べても、能力、人格で勝負しようとされている稀有な天皇だと考えるべきではないか。 (pp. 86-87)

個人的には、今上のこういったところに非常な好感を持つし、島田雅彦が冒頭に掲げる「親愛なる陛下、殿下へ」で始まる献辞も一見、いわゆる「右翼的な」ものに見えるけれども、実は、人間としての皇族に対して捧げられたものであることが分かる。これは三島由紀夫の「などてすめろぎは人間(ひと)になりたまひし」に代表されるような「ロマン主義の源としての天皇」(例えば、本書冒頭の白馬に跨る昭和天皇)とは対極にあるものだ。

実は、今上はいわゆる「右翼」に評判が良くない。もちろん、「右翼」といっても一枚岩ではないし、様々な主張を持つ人たちをレッテル張りしたものに過ぎないから、今上に対して不満を持つ人がいても何ら不思議ではない。しかし、仮にも「右翼」が天皇に対して批判的な態度を取るとは。。。

これは、今上こそが現行の憲法を最も体現しているという奇妙と見えなくもない事情によっている。実は今上や東宮のおことばこそが最大の護憲勢力と言ったら笑われるだろうか。しかし、これは紛れもない事実で、いわゆる「左翼」勢力が後退し、護憲という呼び声が虚空に消えていく中で、繰り返し繰り返し現行憲法の象徴天皇と不戦を表明しているのは今上だし、民とともにあろうとしている姿に嘘偽りはないと思う。このあたりの事情は、孝明天皇こそが最大の幕府支持者だったということに似ていなくもない。

司馬遼太郎が、日本の歴史は天皇抜きで考えると分かり易いと述べているのを佐高信が批判していたが、これは正しくて、神主の親玉でしかない時期が長かろうがなにしようが、天皇を抜きにして日本の歴史を考えるのは無理がある。もちろん、現在から過去を見渡す際に明治維新近辺で異常なまでに盛り上がった天皇に対するロマン主義を通して、それ以前の天皇を解釈する愚も避けなければならない。その意味では、司馬遼太郎の主張も正しい。おそらく、小説の明解さのために天皇抜きという視点を使うのが司馬遼太郎の本意ではなかったかと思う。

いきなり、日本の歴史なんて長大なことを言い出しても仕方ないので、取り敢えず私たちと同じ時代を生きている皇族がどういった人たちであるかを知るところからはじめるには本書はうってつけだと思う。例えば、

私は日本の建国が決して一人の英雄の手によって一時にできあがったものでなく、我々の祖先が、あるときは争い、あるときは和し、またあるときは苦しみ、あるときは楽しみつつ、旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代と何万年という時代を重ねつつ成し遂げてきた複雑な社会的発展の結果生まれたものであることを確信し、この際歴史的真実を歪曲してまで、一部の日本人のかたがたの昔をしのぶ感情論から、学問研究の百年の計を一瞬にして誤るおそれのある建国記念日の設置案に対して深い反省を求めてやまない。(p. 90)

という三笠宮崇仁の信念や

もうダメだよ。皇族をやめたい。至急会議を開いてほしい。(p. 142)

という三笠宮寛仁の悲痛な叫びは知っている人は知っているけれど、知らない人は全く知らないと思う。こういったことは全てうやむやにされ封印されていくから。

国家の「機関」ではなく、「人間」である天皇とその眷属を知る。その結果として、

今後も憲法の定めるところに従い、市民の平和な未来のためにお務めを果たされる陛下、殿下にとって、日本が、そして世界が希望の源であらんことを願っています。また、陛下、殿下が私どもに与えられている自由と権利をともに享受される日が来ることを心よりお祈り申し上げます。(p. 1)

という天皇観を私は非常に好ましく思う。

※もう少し書くかも※

わいせつなものはわいせつでない

2005年08月12日 | 読書
ラリー・フリント/田畑智通=訳『ラリー・フリント』(徳間文庫、1997年)の中に、わいせつに関する面白い記述がある。

もし雑誌や映画で描かれていることが淫らだとすれば、平均人は嫌悪するのであってそそられることはない。同時に、もしその描写を見て淫らな行為(過激なサド・マゾ行為や獣姦など)に駆られるのなら、その人は平均的ではない (p. 164)

これは、1977年にシンシナティで争われた『ハスラー』のわいせつ性に関する裁判において検察側の証人として出廷したウォーデル・ポメロイ(『キンゼイ・リポート』の共同執筆者)の証言の一部。

法で取り締まらなければならないような過激なものに一般的な人は欲情しないのでわいせつではなく、一般的な人が欲情するようなものは法で取り締まらなければならないほど過激ではないのでわいせつではない、というややレトリカルな話。

『ハスラー』のわいせつ性を立証しなければならない検察側の証人がこんなことを言い出しちゃうんだから、検察は参っちゃうよね。さらに、ポメロイ医師は「強姦魔や幼児虐待者のような異常者は、ポルノグラフィーとは無縁の社会で生きていると思われます」とも言っている。

まぁ、それはさておき、なぜこの本を読む気になったかと言うと、私が『ハスラー』の定期購読者(※)だったことも多少関係しているが、より具体的には野村秋介『さらば群青』(二十一世紀書院、1993年)で、言論には言論で、言論でないものには相応の手段でという主旨のことが何回か書かれていたから。
※2年間だけだが。何回か横浜税関で放棄させられた。引っ掛かると下のような通知が届く。
  外国郵便物輸入禁制品該当通知書


言論でないものとは、一例としていわゆる「不敬イラスト」事件なんかを挙げることができて、野村秋介は、あれは言論ではない、と切って捨てている。この事件には鈴木邦男も関わっていて、言論の絶対的な自由を主張している同氏も以前の著作(『がんばれ!!新左翼』三部作など)を読む限り、言論ではないという立場を取っている。

野村氏も言論を尊重し、暴力を厳に戒める立場を取っているが、肉体言語としての暴力を否定しないなどなかなか複雑な思想の持ち主でもあるし、天皇は裁判権を持たないなどの理由もあって、言論ではない、という結論に至っているのだとは思うが、何が言論であり何が言論ではないのかという点が今一つ不明確な気がしてスッキリしなかった。

さらに、最近の九条改正を隠れ蓑として言論統制も憲法化しようとする動きが活発になっているのを見て嫌ぁな感じが日に日に募っているし、鈴木邦男の最近の著作やWebサイトでも言論の自由に関する限り、いわゆるイエロージャーナリズム的なものに関しては必ずしも射程に入っていない感じで不十分な感が拭えない(※)
※鈴木氏の言論に関する覚悟のほどは、全ての著作に自宅住所や電話番号を載せ、いつでも反論を受け付けるようにしているなど疑念を挟む余地はないが。

イエロージャーナリズムの問題を持ち出すと、やや唐突な感を抱く人がいるかもしれないが、アメリカの憲法修正第一条、信教や言論の自由を保障している条項だが、これを最も強固に擁護したのが他ならぬラリー・フリントなので、言論の自由を考える際、決してイエロージャーナリズムやわいせつ問題を避けて通ることはできない。

と言うわけで、ようやく『ラリー・フリント』に戻ってきたわけだが、この本を原作に映画化もされている。映画版は見たことがないが、カスタマー・レビューを見る限りなかなかの仕上がりになっているようなので、機会があったら見てみたい。
ラリー・フリント

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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※この項もう少し書く(予定)※

右翼と農業問題はどうなっているのだろう?

2005年07月25日 | 読書
鈴木邦男『新右翼 ―民族派の歴史と現在』改訂増補版(彩流社、2005年)を「へぇ、右翼が環境問題を取り上げるのが新しかったんだ、30年前は」(※)なんて思いながら読んでいて、ふと思った。
※経団連事件の檄文など参照のこと。

山紫水明、秀麗なる山河ということで右翼が環境問題というのは分かった。じゃぁ、農業問題はどうなっているのだろう。豊葦原瑞穂の国なんてことを言うまでもなく、日本の伝統文化の中で農業の果たす役割は大きい。右翼が伝統・文化を守ることを目的とするならば農業問題は避けて通れないはず。

そもそも、日本人が持つ自然に関する観念とはほぼ農村のそれ(※)と合致すると思うのだが、どうだろう。もし、そうならば、環境や自然保護を考える際、農業問題は不可分の要素だろう。
※ただし、50年以上も前の。既に存在しない類の。

三里塚闘争なんかで左翼が援農に行っていたのは知っているが右翼がそういう活動をした(orしている)というのは私の不勉強の故だとは思うが、知らない。また、元左翼活動家が自然農法やらに走ったなんて話はちらほら聞くが、元右翼活動家がそういうことをしているというのも聞いたことがない。まぁ、人数が圧倒的に違うから取り上げられる度合いが違うせいもあるだろう。

新右翼―民族派の歴史と現在

彩流社

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なぜ制作できたかが不思議

2005年07月17日 | 読書
ルドルフ・グレイ/稲葉紀子=訳『エド・ウッド ―史上最低の映画監督』(早川書房、1995年)読了。

日本では『死霊の盆踊り』の脚本で有名なエド・ウッドの伝記。妻のキャシー・ウッドをはじめ、エド・ウッドと関わった人々にインタビューしたものを時期やテーマ毎に細切れにして並べている。

エド・ウッドは、その生涯を(超低予算)映画に捧げたが、本の副題の通り「史上最低の映画監督」に認定されるほどその作品はつまらないらしい。実際に見たことはないが、伝記からもつまらなさが伝わってくる。

それにしても、不思議なのが、それほどつまらない作品を連発しながらも少なからぬ作品を監督・制作し、役者や脚本もこなし膨大な量の小説も書いていること。いくら低予算で作成するのが早いからと言って、ただつまらないだけだったら、これだけの仕事に関わることはなかったんじゃないかと思う。

みんな「つまらない、つまらない」と言いつつ楽しんでいた節が少なからず見られるのだが、「そんなことはない」という声も強固で、一体どんななんだろうと興味が湧く。一度は見てみたいが、お金出すのは嫌だな。何か上手い方法はないものか。

伝記でも取り上げられている初期の3作品(『グレンとグレンダ』、『怪物の花嫁』、『プラン9・フロム・アウタースペース』)を収録したのが以下のDVDボックス。なお、『プラン9…』が史上最低の映画に選ばれたのと、他の作品のトータルなクオリティの低さが史上最低の映画監督という称号に結びついている。
エド・ウッド・コレクション

ジェネオン エンタテインメント

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また、この伝記を原作に映画が作成されていてアカデミー賞(助演男優賞)も受賞している。リンク先のレビューにもある通り、エド・ウッドにとって晩年のベラ・ルゴシ(『魔人ドラキュラ』で有名な往年の名優)との交流は欠かすことができない要素なんだけれど、伝記でもエド・ウッドがベラ・ルゴシを気遣い、本当に好きだったんだなということが伝わってくる。また、ベラ・ルゴシもエド・ウッドとの仕事を物心両面の支えにしていた様子が窺える。上のDVDボックス収録の3作品はいずれもベラ・ルゴシのための作品であるという共通点がある。
エド・ウッド

ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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お金にだらしないし、大酒飲みで、作る作品は悉くつまらないにも関わらずエド・ウッドが大量の作品を曲がりなりにも残すことができたのは、彼が非常に魅力的な人間であったというのが最大の理由のような気がする。そして、映画に対する情熱と才能との致命的な乖離が彼の生涯をある面では素晴らしく、ある面では悲劇的にしていることは間違いない。

ちなみに、エド・ウッドは元海兵隊員で南太平洋の激戦地に赴き、タワラ進攻作戦にも参加し生還している。この作戦は4,000人が参加し400人だけが帰還したという。その作戦中にもピンクのブラをつけていたというエピソードがエド・ウッドの服装に対する倒錯の強さを物語っていて、後の『グレンとグレンダ』を制作することとも多少関係している。

補足しておくと、エド・ウッドは女性が好きで好きでたまらなくて、自分も女性になりたかったらしい。しかし、それは、現在のエド・ウッドを否定するものではなく、今のエド・ウッドのまま女性になるということが重用だったらしい。つまり、現実的には女装することが限界。生まれ変われるなら、女性になりたいという願望は持っていたらしい。なお、念押ししておくと、女性が好きなのでホモではない。自分も女性になりたいほど女性が好きなだけで、女たらしであることに変わりはないからだ。

川端裕人のネイチャーライティング (3)

2005年06月12日 | 読書
川端裕人のネイチャーライティング (2)」の続き。

ペンギン大好き!

新潮社

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ペンギン大好き!』という書名を最初目にした時は、あまりに頭が悪そうな書名なので敬遠してしまったのだが、『ペンギン、日本人と出会う』を読んで開眼してしまったので、次の機会には迷わず手にした。

これは、『ペンギン、…』と後続する『サボテン島のペンギン会議』の写真集に相当する。と言うか、『ペンギン、…』、『大好き!』、『サボテン島…』は私の中では川端裕人のペンギン3部作として位置づけられている。

『ペンギン、…』がペンギンに関する包括的な話を展開しているのに対して、『大好き!』は、もう、純粋に、「これだけ色々なペンギンの姿を撮ってきたんだっ」という川端裕人の喜びがあふれているような写真集。『ペンギン、…』では触れられていないフィヨルドランドペンギンを冒頭に持ってくるあたりは、さすがによく計算されている。

「森の妖精」と呼ばれ、森林の小川を泳ぐフィヨルドランドペンギンは見る者に強い印象を与えずにはおられない。フィヨルドランドペンギンは、ニュージーランドの森林部に棲む種類で森の中に巣を作りながら川を泳いで海へ行ったり来たりしている。

ペンギンが森林の中の淡水の川を泳ぐ姿って、何だか想像しにくいでしょ。でも、泳いでる。この写真1枚だけでも、自分の知っているペンギン像の大幅な修正が必要だということを実感させられる。しかし、それは決して不快な体験ではなく、「もっと君たち(=ペンギン)のことが知りたい」という拡張への心地良い欲求を喚起してくれるはず。

『ペンギン、…』はペンギンと日本人との絡みが中心となったので、日本人に馴染みのあるフンボルト属、エンペラーペンギン属がメインで、マカロニペンギン属がポチポチと言った感じだったのだが、『大好き!』はのっけからマカロニペンギン属のフィヨルドランドペンギンだ。

また、ペンギンの中で最も絶滅が危惧されているキガシラペンギンにも紙数を割いている。正直言って、キガシラペンギンの未来は暗いと思わざるを得ない。ただ、著者が川端裕人。そんなことでは心は折れません。恩田陸が評するところの「見えるロマンチスト」はある意味リアリストで、目の前の現実を受容した上で、どうするか考え行動する。これって、できそうでなかなかできないんだけどね。

少なくとも、著者のそういった性格によってキガシラペンギンにまつわる暗めの話も現状を正しく認識するための単なるステップになっている。悪い事実を知ると嫌な気分になるというのは、一見すると正しそうだが、実際は、個々人にしみこんだ思考パターンがその経過の途中にあって、悪い事実から無媒介・直接的に嫌な気分が発生するわけではない。

つまり、ダメそう→ダメだ、ではなく、ダメそう→ダメじゃないかも、という可能性があることを認識し、悲観にも楽観にも傾かない。だから悪い情報も拒否しない、それを受け入れた上でどうするかが重要だから。

まぁ、こんな小難しい話が書いてあるわけではなく、もっと気軽に、もっと楽しく、もっと真剣にペンギンを知る手がかりとなる写真集。やっぱ、写真で見ると実物が見たくなるね。野生の棲息地は難しいので、手近の動物園や水族館へ行ってみよう。

日本で今の時季に見られるペンギンと言えば、フンボルトペンギン属。『大好き!』の中にもケープペンギンの大群生の様子が納められているが、やはり脇に追いやられている感がなきにしもあらず。と言うわけで、次は1冊まるまるフンボルトペンギンの『サボテン島のペンギン会議』へと続く。



サボテン島のペンギン会議

アリス館

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「川端裕人のネイチャーライティング (4)」へ続く(予定)。

川端裕人のネイチャーライティング (2)

2005年06月09日 | 読書
川端裕人のネイチャーライティング (1)」の続き。

ペンギン、日本人と出会う

文芸春秋

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ペンギン、日本人と出会う』から始める。

この本の前に『動物園にできること ―「種の方舟」のゆくえ』や『緑のマンハッタン ―「環境」をめぐるニューヨーク生活(ライフ)』があるんだけど、前者はともかく後者は重めの話が出てくるので読む順番としては後回しにしておいた方が良い。まずは楽しく興味を持つことから始めるのは、分野を問わず重要なことで、その上で難しい問題も考えるようにしないと続かない。

『ペンギン、…』から始めると書いておいて『動物園に…』の引用をするのも何だが、大事なことだと思うから引いておく。


「エコ・フォビアという言葉を知っている?」と彼女は聞いた。

残念ながら聞いたことがない言葉だった。

「たとえば子供の頃に性的な虐待を受けた子供は大人になってもセックスが好きになれるわけではなくて、逆に性にかかわるさまざまなことに恐怖を持つようになるでしょ。もしも、動物について、あるいは生態系について、こわい話を聞かされ続けた子供はそのことを咀嚼できず、逆に目を背けてしまったり、無力感に苛まれたり、過剰にこわがってしまったりすることがあるのね。特に熱帯雨林の破壊みたいに子供たちにはどうしようもないことを教えられるとその傾向が強くなるの。それをエコ・フォビアと呼んでいるわけ」

『動物園にできること ―「種の方舟」のゆくえ』 p. 243



そういうことなのだ。

ようやく『ペンギン、日本人と出会う』。クジラやイルカはアイドルでもあると同時にある種の勢力の象徴みたいな使われ方をする場合も少なくない。人々もクジラやイルカを感じる前に、そこにまとわりついたものを感じるかもしれない。クジラやイルカそのものへ至る道は意外と遠い。

対してペンギンは、そのユーモラスさ故に世界中で人気を博しているが、ペンギンが高度知性体との仲介者であったり、運動のシンボルに祭り上げられていない。私たちは、より直接的にペンギンへと至り、また、その容易さの故に問題に巻き込まれたりもするのだが、それは後の話。

そもそも、日本人がペンギンを知ったのは江戸時代後半なのだが、オオウミガラスがペンギンとも呼ばれてもいたために、それがペンギンなのか、オオウミガラスのことなのか判然としない。まぁ、どちらにせよ、見たこともない未知の飛べない鳥がいるという知識レベルにとどまっている。

やがて、白瀬矗率いる南極探検(1911-12年)の途上で、ペンギンは本格的に日本人と出会うことになる。『ペンギン、…』に収録されている白瀬隊とペンギンの写真はなかなか衝撃的で、「私も一度くらいやってみたい」と思わないでもない。アデリーペンギン鷲掴み。15人くらいの集合写真で1人1羽くらいアデリーペンギンを抱えている。

白瀬隊がペンギンに興味を持ったのは一にも二にも実用性、すなわち、食用にしたり、油を取ったり、皮を加工したりするためなのだが、かと言ってペンギンの持つ愛らしさに気がつかないはずもなく、白瀬隊の副隊長は捕獲したアデリーペンギンに尺八を聞かせている。当時、他国の調査隊でペンギンにレコード(つうか、蓄音機)を聴かせる事が流行っていたためらしい。

この副隊長がペンギン中毒の第1号患者。日本は世界最大のペンギン大国で、飼育しているペンギンの数やペンギン関連グッズの市場でも他を圧している。上でペンギンはユーモラスで人気があると書いたが、日本人はユーモラスさよりも、より強くキュートであると感じるらしい。もちろん、滑稽ではあるが、それ以上に「可愛い」と叫ばずにはいられないらしい(叫んだのが誰なのか知りたい人は『ペンギン、…』を実際に読んで欲しい)。

日本人はペンギンを偏愛し、世界的にもペンギン好きとして認知されているにもかかわらず、日本人は案外とペンギンのことを知らない。それは何故か。その秘密は、実はクジラが関係している。一般の人々が本格的にペンギンを目にするようになるのは南氷洋捕鯨(1950年代)の頃で、おみやげとしてペンギンの剥製が持ち込まれたり、豪徳寺ではキングペンギンが散歩をしていたりと一挙に南極に棲息するペンギンの波が押し寄せてきた。その時に、ペンギン=南極の生物という想念が固定化され、以降延々と繰り返されてきた。

現存する18種のペンギンのうち、南極にのみ生息するペンギンはわずか4種類なのに、ペンギン=南極の図式は維持されてきた。当然のごとく何らかの歪みが生じないはずがなく、動物園や水族館では本来温帯に棲息するフンボルトペンギン属が氷山を模したディスプレイの中で飼われるという状態が長らく続くことになる。

なぜなら、南極や亜南極に棲息するペンギンは飼育が難しく、専用の設備が欠かせないのに対して、フンボルトペンギン属はよく日本の環境に馴染み、屋外でも特段の苦労もなく繁殖したからだ。つまり、南極性のペンギンの影武者を務めていたのだ。ところが、このフンボルトペンギンが他国では最近まで繁殖が難しいと言われていた種で、本来の棲息地であるチリやペルーでは絶滅しそう(1万羽程度)なのに、日本では千羽程度が飼育されている。

なかなかに錯綜したペンギンと日本人の関係を川端裕人特有のニュートラルな視点から、時にはユーモラスに、時にはシリアスに書いている。また、世界のペンギン事情や日本におけるペンギン研究の先駆者青柳昌宏に関する記述にもかなりの紙数を割いているのも特徴。

多分、『ペンギン、…』を読み終わった後には、ペンギン好きの人は一層好きに、そうでなかった人はペンギンの可愛さに気がつくんじゃないかな。そして、『ペンギン大好き!』へとなだれ込むのだ。

ペンギン大好き!

新潮社

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川端裕人のネイチャーライティング (3)」へ続く。