いつも寝不足 (blog版)

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わいせつなものはわいせつでない

2005年08月12日 | 読書
ラリー・フリント/田畑智通=訳『ラリー・フリント』(徳間文庫、1997年)の中に、わいせつに関する面白い記述がある。

もし雑誌や映画で描かれていることが淫らだとすれば、平均人は嫌悪するのであってそそられることはない。同時に、もしその描写を見て淫らな行為(過激なサド・マゾ行為や獣姦など)に駆られるのなら、その人は平均的ではない (p. 164)

これは、1977年にシンシナティで争われた『ハスラー』のわいせつ性に関する裁判において検察側の証人として出廷したウォーデル・ポメロイ(『キンゼイ・リポート』の共同執筆者)の証言の一部。

法で取り締まらなければならないような過激なものに一般的な人は欲情しないのでわいせつではなく、一般的な人が欲情するようなものは法で取り締まらなければならないほど過激ではないのでわいせつではない、というややレトリカルな話。

『ハスラー』のわいせつ性を立証しなければならない検察側の証人がこんなことを言い出しちゃうんだから、検察は参っちゃうよね。さらに、ポメロイ医師は「強姦魔や幼児虐待者のような異常者は、ポルノグラフィーとは無縁の社会で生きていると思われます」とも言っている。

まぁ、それはさておき、なぜこの本を読む気になったかと言うと、私が『ハスラー』の定期購読者(※)だったことも多少関係しているが、より具体的には野村秋介『さらば群青』(二十一世紀書院、1993年)で、言論には言論で、言論でないものには相応の手段でという主旨のことが何回か書かれていたから。
※2年間だけだが。何回か横浜税関で放棄させられた。引っ掛かると下のような通知が届く。
  外国郵便物輸入禁制品該当通知書


言論でないものとは、一例としていわゆる「不敬イラスト」事件なんかを挙げることができて、野村秋介は、あれは言論ではない、と切って捨てている。この事件には鈴木邦男も関わっていて、言論の絶対的な自由を主張している同氏も以前の著作(『がんばれ!!新左翼』三部作など)を読む限り、言論ではないという立場を取っている。

野村氏も言論を尊重し、暴力を厳に戒める立場を取っているが、肉体言語としての暴力を否定しないなどなかなか複雑な思想の持ち主でもあるし、天皇は裁判権を持たないなどの理由もあって、言論ではない、という結論に至っているのだとは思うが、何が言論であり何が言論ではないのかという点が今一つ不明確な気がしてスッキリしなかった。

さらに、最近の九条改正を隠れ蓑として言論統制も憲法化しようとする動きが活発になっているのを見て嫌ぁな感じが日に日に募っているし、鈴木邦男の最近の著作やWebサイトでも言論の自由に関する限り、いわゆるイエロージャーナリズム的なものに関しては必ずしも射程に入っていない感じで不十分な感が拭えない(※)
※鈴木氏の言論に関する覚悟のほどは、全ての著作に自宅住所や電話番号を載せ、いつでも反論を受け付けるようにしているなど疑念を挟む余地はないが。

イエロージャーナリズムの問題を持ち出すと、やや唐突な感を抱く人がいるかもしれないが、アメリカの憲法修正第一条、信教や言論の自由を保障している条項だが、これを最も強固に擁護したのが他ならぬラリー・フリントなので、言論の自由を考える際、決してイエロージャーナリズムやわいせつ問題を避けて通ることはできない。

と言うわけで、ようやく『ラリー・フリント』に戻ってきたわけだが、この本を原作に映画化もされている。映画版は見たことがないが、カスタマー・レビューを見る限りなかなかの仕上がりになっているようなので、機会があったら見てみたい。
ラリー・フリント

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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※この項もう少し書く(予定)※

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