川端裕人を知ったのは、あさりよしとお『なつのロケット』がきっかけ。『なつのロケット』は小学生4人組が衛星軌道上にロケットを打ち上げてしまう話だが、元々は川端裕人の『夏のロケット』にインスパイアされた話である。
『なつのロケット』が非常に良かったので、『夏のロケット』と川端裕人は気になっていたのだが、どういうわけか読む機会に恵まれなかった。それが昨年の10月末『クジラを捕って、考えた』を偶然本屋で見かけた。本当に偶然で、新潮文庫や講談社文庫が並ぶ中にどういうわけか1冊だけ徳間文庫のこの本がぽつんと置かれていた。
『夏のロケット』をはじめとする小説を書いていることは知っていたが、こういうノンフィクション系と言うか、ネイチャーライティングと言うか、を書いているのは全く知らなかったので、ちょっと驚いて早速買って読んだ。
これが、まぁ、びっくりするくらい良い本で一発で参ってしまった。当時の書いたものを以下に再掲する。
『クジラを捕って、考えた』が実は処女作で、『夏のロケット』は『フロリダマナティの優雅なくらし』と『イルカとぼくらの微妙な関係』の後に出た本だということを当時は知らなかったのだが、次に『イルカ…』を図書館で借りて読んでみた。
これまた良い本で、クジラ以上に厄介さ(クジラ以上に身近でアイドル化されていたり、ニューエイジ系では高度知性体との媒介者になっていたり、などなど)を持つイルカの問題を書きながら間然とするところがない。
これは、著者がイルカ好きでありながら、単純にイルカ=善みたいなドグマにとらわれていないことが理由だと思う。基本的にイルカよりの立場でありながら、可能な限り中立的な立場、自己を客観化・相対化しようとする意志が感じ取られる。
例えば、壱岐島でイルカの囲い網を切ったデクスター・ケイトの話(※)も、結論だけ取り出せば、デクスター・ケイトの主張(=漁獲量の減少はイルカのせいではなく乱獲のせいであり、イルカは漁場を荒らしていない)が正しく、漁師たちはタコが自分の足を食べるように、自分たちの将来を食べてしまった(イルカと関係なく、壱岐の漁獲高は激減した)わけだ。
※漁場を荒らす害獣であるイルカを駆除するために捕らえ、網の中に囲っていたものをデクスター・ケイトが夜中に網を切って逃がした事件。裁判にもなった。デクスター・ケイトの弁護のためにピーター・シンガーが来日している。
しかし、川端裕人はそのような単純な見解をとらない。確かに、デクスター・ケイトは、壱岐の漁師のことも、そしてイルカのことも真剣に考え活動し、結果として網を切ってイルカを逃がした。その善意に疑いを挟む余地はない。とは言え、越えてはならない一線を越えたことも間違いない。同時に、壱岐の漁師も愚かさ故にイルカを駆除しようとしたり、乱獲による漁獲量の激減を招いたわけではない。そこには、産業としての漁業が持つ構造的な問題があることを忘れてはならない。
とにかく、単純な図式化による分かり易さを排除し、多様な視点からイルカを描写していく手法は『クジラを…』にも共通するものであり、人によっては微温的だとの印象を持つかもしれない。しかし、事実として、世界が微温的であり劇的さを求め得ないとしたら、それを微温的に書かざるを得ないはず。
この点を『リスクテイカー』の解説「誰が世界を変えるのか」で恩田陸は、ロマンチストには2種類あって、川端裕人を「見える」ロマンチストに分類し評価している。「見える」ロマンチストとは「普段から自分のロマンを率直に認め、その実現に尽力」しているロマンチストのことだ。
対する「見えない」ロマンチストとは、迷惑なタイプで「普段は有能な冷血漢を気取っている。なのに、ここ一番、という土壇場になって、心の底に隠していた自分のロマンを優先させてしまう」。しかし、「土壇場のロマンがカタルシスになるのは、二時間で終わる映画の中だけである」。
『リスクテイカー』は小説であり、『クジラを…』や『イルカと…』はノンフィクションという違いはあるが、物事をとらえる際に、劇的さを求めないという心性を川端裕人に認めている点では変わりはないだろう。
この書評の「この本を読んだ日本人の多くは、この本の焦点がぼやけていると感じ、捕鯨推進派の書いた本や、イルカと神秘的なコミュニケーションを行う人の書いた本などの方にリアリティを感じるのではないか」という指摘は正しい。その一方で「見事な新しいジャーナリズム」と題されている点も正しい。
そういった微温的で歯痒いところが川端裕人のネイチャーライティングの特長であり、と同時に、短所にもなり得る。しかし、黒でも白でもない曖昧さはより多くの読者に間口を開いているとも言え、海原雄山的分かり易さ(『美味しんぼ』におけるクジラ問題参照)に疑問を感じたら手に取ってみたらいいと思う。
さて、いい加減長くなったので一旦終了。続きは『ペンギン、日本人と出会う』から書くとしよう。
【■6/9追加】「川端裕人のネイチャーライティング (2)」
『なつのロケット』が非常に良かったので、『夏のロケット』と川端裕人は気になっていたのだが、どういうわけか読む機会に恵まれなかった。それが昨年の10月末『クジラを捕って、考えた』を偶然本屋で見かけた。本当に偶然で、新潮文庫や講談社文庫が並ぶ中にどういうわけか1冊だけ徳間文庫のこの本がぽつんと置かれていた。
『夏のロケット』をはじめとする小説を書いていることは知っていたが、こういうノンフィクション系と言うか、ネイチャーライティングと言うか、を書いているのは全く知らなかったので、ちょっと驚いて早速買って読んだ。
これが、まぁ、びっくりするくらい良い本で一発で参ってしまった。当時の書いたものを以下に再掲する。
本書の内容は要約すると、著者が1992年11月から半年間にわたって南氷洋の調査捕鯨に同行取材した記録。ただし、著者の目的はむしろクジラを見ることにあって、そもそもがクジラを見たいがために取材という名目(著者は当時TV局社員)を作り出したと言う方が正しい。都市生活者(※1)で、クジラ愛好家だけど、クジラ肉も食べる(※2)著者が、クジラを巡る様々な問題を可能な限り公平に扱おうとする姿勢は好感が持てる。著者自身が認めるように、その視点や意見は時々ぶれるんだけど、そもそも、コチコチの捕鯨賛成派でも反対派でもないのだから、それは当然。むしろ、ぶれがないということはバイアスがかかっている証拠とも言える。
※1 食料が調達される現場に居合わせずに、食料を食べる人。そのくせ、食料調達についてあ~のこ~のと文句を垂れることもある。
※2 ただし、嗜好品として。食べてもいいけど、食べられなくても困らない。
そんな著者が、科学調査とは言え、やっていることは漁であることには変わりのない調査捕鯨の現場に居合わせて、科学と漁、捕鯨賛成と反対、環境保護と動物愛護、そして捕鯨の過去・現在・未来について色々考えるのは書名の通り。ただし、堅苦しさはなく、調査捕鯨での様々なエピソードを適宜盛り込み、読み物として非常に良くできている。何となく漠然と捉えていたクジラを巡る問題がかなりクリアに提示されている。もちろん、クジラ自身に関する話も色々あるので飽きさせない。扱っていることはかなり厄介な問題なんだけど、著者の力量で読むのが楽しいというのが何よりも素晴らしい。お薦めの一冊。
『クジラを捕って、考えた』が実は処女作で、『夏のロケット』は『フロリダマナティの優雅なくらし』と『イルカとぼくらの微妙な関係』の後に出た本だということを当時は知らなかったのだが、次に『イルカ…』を図書館で借りて読んでみた。
これまた良い本で、クジラ以上に厄介さ(クジラ以上に身近でアイドル化されていたり、ニューエイジ系では高度知性体との媒介者になっていたり、などなど)を持つイルカの問題を書きながら間然とするところがない。
これは、著者がイルカ好きでありながら、単純にイルカ=善みたいなドグマにとらわれていないことが理由だと思う。基本的にイルカよりの立場でありながら、可能な限り中立的な立場、自己を客観化・相対化しようとする意志が感じ取られる。
例えば、壱岐島でイルカの囲い網を切ったデクスター・ケイトの話(※)も、結論だけ取り出せば、デクスター・ケイトの主張(=漁獲量の減少はイルカのせいではなく乱獲のせいであり、イルカは漁場を荒らしていない)が正しく、漁師たちはタコが自分の足を食べるように、自分たちの将来を食べてしまった(イルカと関係なく、壱岐の漁獲高は激減した)わけだ。
※漁場を荒らす害獣であるイルカを駆除するために捕らえ、網の中に囲っていたものをデクスター・ケイトが夜中に網を切って逃がした事件。裁判にもなった。デクスター・ケイトの弁護のためにピーター・シンガーが来日している。
しかし、川端裕人はそのような単純な見解をとらない。確かに、デクスター・ケイトは、壱岐の漁師のことも、そしてイルカのことも真剣に考え活動し、結果として網を切ってイルカを逃がした。その善意に疑いを挟む余地はない。とは言え、越えてはならない一線を越えたことも間違いない。同時に、壱岐の漁師も愚かさ故にイルカを駆除しようとしたり、乱獲による漁獲量の激減を招いたわけではない。そこには、産業としての漁業が持つ構造的な問題があることを忘れてはならない。
とにかく、単純な図式化による分かり易さを排除し、多様な視点からイルカを描写していく手法は『クジラを…』にも共通するものであり、人によっては微温的だとの印象を持つかもしれない。しかし、事実として、世界が微温的であり劇的さを求め得ないとしたら、それを微温的に書かざるを得ないはず。
この点を『リスクテイカー』の解説「誰が世界を変えるのか」で恩田陸は、ロマンチストには2種類あって、川端裕人を「見える」ロマンチストに分類し評価している。「見える」ロマンチストとは「普段から自分のロマンを率直に認め、その実現に尽力」しているロマンチストのことだ。
対する「見えない」ロマンチストとは、迷惑なタイプで「普段は有能な冷血漢を気取っている。なのに、ここ一番、という土壇場になって、心の底に隠していた自分のロマンを優先させてしまう」。しかし、「土壇場のロマンがカタルシスになるのは、二時間で終わる映画の中だけである」。
『リスクテイカー』は小説であり、『クジラを…』や『イルカと…』はノンフィクションという違いはあるが、物事をとらえる際に、劇的さを求めないという心性を川端裕人に認めている点では変わりはないだろう。
この書評の「この本を読んだ日本人の多くは、この本の焦点がぼやけていると感じ、捕鯨推進派の書いた本や、イルカと神秘的なコミュニケーションを行う人の書いた本などの方にリアリティを感じるのではないか」という指摘は正しい。その一方で「見事な新しいジャーナリズム」と題されている点も正しい。
そういった微温的で歯痒いところが川端裕人のネイチャーライティングの特長であり、と同時に、短所にもなり得る。しかし、黒でも白でもない曖昧さはより多くの読者に間口を開いているとも言え、海原雄山的分かり易さ(『美味しんぼ』におけるクジラ問題参照)に疑問を感じたら手に取ってみたらいいと思う。
さて、いい加減長くなったので一旦終了。続きは『ペンギン、日本人と出会う』から書くとしよう。
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【■6/9追加】「川端裕人のネイチャーライティング (2)」
なかのバラまつりへ行ってきた。TVのニュースでも言っていたが、今年は春先の雨の影響で生育が遅く、1~2分咲きという状況。見に行くなら、今度の土日かな?
それにしても、バラという花が非常にバラエティに富んでいることを初めて知った。最初の画像は、いかにもバラという感じのバラだが、それ以外にも様々な種類がある。私には、とてもバラには見えないものも多数あった。
ところで、会場の一本木公園には、こんなものも置いてあった。中野市は久石譲の出身地でもある。ちなみに、私の高校の先輩でもある。会ったことないけど。さらに言うと、中島史恵も先輩だ。これまた会ったことないけど。
最後に、桜もバラ科だ。
それにしても、バラという花が非常にバラエティに富んでいることを初めて知った。最初の画像は、いかにもバラという感じのバラだが、それ以外にも様々な種類がある。私には、とてもバラには見えないものも多数あった。
ところで、会場の一本木公園には、こんなものも置いてあった。中野市は久石譲の出身地でもある。ちなみに、私の高校の先輩でもある。会ったことないけど。さらに言うと、中島史恵も先輩だ。これまた会ったことないけど。
最後に、桜もバラ科だ。
『ももいろスウィーティー (2)』購入。
昨年の日記に「『ももいろスウィーティー (1)』の「ハハ×亮」(p. 47)が「ハメ亮」に見えてしまう。」と書いたが、案の定ハメてるじゃん。
すまん、下品で。
【6/1差し替え】
昨年の日記に「『ももいろスウィーティー (1)』の「ハハ×亮」(p. 47)が「ハメ亮」に見えてしまう。」と書いたが、案の定ハメてるじゃん。
すまん、下品で。
【6/1差し替え】
ももいろスウィーティー 2 (2)白泉社このアイテムの詳細を見る |
動画は、葛西臨海水族園のクラゲ。正確な名前は失念。
ここ1週間でサンシャイン国際水族館、上越市立水族博物館、葛西臨海水族園と都合3カ所の水族館へ行ったが、それぞれに良いところも悪いところもある。
サンシャインは、何よりも料金が高い。民間だし、場所が場所なので仕方ないとは思うが、やっぱり高い。上越と葛西は自治体がやっているので、安くもないが高くもない。また、郊外型施設なので広いのも良い。
上越の最大の問題点は、施設の老朽化と飼育している種類が多過ぎることだろう。フンボルトペンギンとゴマフアザラシが一緒にいるのをはじめ、アフリカとアジアの魚が同じ水槽にいるなど、首を傾げざるを得ない面がある。施設は、金がなきゃ仕方がないかとも思うが、ソ連のアフガン侵攻前に作ったと思しきスライド映画を今でも上映しているのはどうかと思う。内容は面白いのだが、いかんせん古過ぎる。
葛西臨海水族園は大きな欠点はないのだが、マグロがスペース取り過ぎ。外洋を泳ぎ回る魚だから仕方ないとは思うが、妙にマグロばかりが印象に残ってしまう。
さて、悪い点ばかり書いても仕方がないので良い点も書こう。
サンシャインは、魚を単に展示するのではなく、魚の住んでいる環境を再現しようという傾向が強くポイントが高い。単純に四角い水槽に魚を入れておくのではなく、どういった環境に生息しているのか分かるのはなかなか興味深い。
上越はある種の節操のなさが、いい味出していると言えないこともない。もちろん、本来一緒に棲んでいるはずのない魚同士を同じ水槽に入れてしまうのは問題だが、それが却って、「あ、魚Aは魚Bを食べないんだ」とか、「こいつらって、全然違う場所に棲んでいるのに同じ環境で生きていけるんだ」なんて発見がある。
葛西は、日本の頂点を占める水族館の一つだけあって、設備も良いし、魚に関する情報の多さ(職員による説明が分かり易い)ってのが流石と思わせる。
ここ1週間でサンシャイン国際水族館、上越市立水族博物館、葛西臨海水族園と都合3カ所の水族館へ行ったが、それぞれに良いところも悪いところもある。
サンシャインは、何よりも料金が高い。民間だし、場所が場所なので仕方ないとは思うが、やっぱり高い。上越と葛西は自治体がやっているので、安くもないが高くもない。また、郊外型施設なので広いのも良い。
上越の最大の問題点は、施設の老朽化と飼育している種類が多過ぎることだろう。フンボルトペンギンとゴマフアザラシが一緒にいるのをはじめ、アフリカとアジアの魚が同じ水槽にいるなど、首を傾げざるを得ない面がある。施設は、金がなきゃ仕方がないかとも思うが、ソ連のアフガン侵攻前に作ったと思しきスライド映画を今でも上映しているのはどうかと思う。内容は面白いのだが、いかんせん古過ぎる。
葛西臨海水族園は大きな欠点はないのだが、マグロがスペース取り過ぎ。外洋を泳ぎ回る魚だから仕方ないとは思うが、妙にマグロばかりが印象に残ってしまう。
さて、悪い点ばかり書いても仕方がないので良い点も書こう。
サンシャインは、魚を単に展示するのではなく、魚の住んでいる環境を再現しようという傾向が強くポイントが高い。単純に四角い水槽に魚を入れておくのではなく、どういった環境に生息しているのか分かるのはなかなか興味深い。
上越はある種の節操のなさが、いい味出していると言えないこともない。もちろん、本来一緒に棲んでいるはずのない魚同士を同じ水槽に入れてしまうのは問題だが、それが却って、「あ、魚Aは魚Bを食べないんだ」とか、「こいつらって、全然違う場所に棲んでいるのに同じ環境で生きていけるんだ」なんて発見がある。
葛西は、日本の頂点を占める水族館の一つだけあって、設備も良いし、魚に関する情報の多さ(職員による説明が分かり易い)ってのが流石と思わせる。
27(金)に葛西臨海水族園へ行ってきた。相変わらずメインターゲットはペンギン。
葛西臨海水族園には、おなじみのフンボルトペンギン以外にイワトビペンギンとコガタペンギン(フェアリーペンギン)がいる。ただし、亜南極性のイワトビペンギンは既に冷房の効いた飼育室に入っていて公開されていない。9月になったら、また出てくるそうなので、その時を楽しみにしていよう。
さて、フンボルトペンギンは見慣れているが、今回はコガタペンギンを見ることができた。コガタペンギンは名前の示す通り小さなペンギンで、現存するペンギンの中では最小のペンギンになる。他のペンギンが垂直に近い形で立つのに比べて前傾姿勢が強いのが特徴。また、模様も単純で白い腹に青黒い背中のツートンカラー。ペンギンの中でも一番鳥っぽい。
ちなみに、コガタペンギンはかなり目つきが悪い。小型種なので警戒心が強いというのが関係しているかどうかは知らないが、写真などを見ると非常に目つきが鋭いのが分かる。私見では、目つきの悪いペンギン御三家はキガシラペンギンを筆頭に、イワトビペンギンとコガタペンギンだと思っている。
動画では目の前をコガタペンギンが突進しているが、警戒心の強い種類なので、この直後、画面奥の岩陰の方へみんな移動してしまった。
この給餌の10分くらい前に職員からペンギンの紹介などが行われていたのだが、それを聞いていなかった人はコガタペンギンを赤ちゃんペンギンだと思いこんでいる様子で、あちらこちらから、「赤ちゃんペンギン」という声が聞こえた。外国人も見ていて「baby penguin」と言っていた。
葛西臨海水族園には、おなじみのフンボルトペンギン以外にイワトビペンギンとコガタペンギン(フェアリーペンギン)がいる。ただし、亜南極性のイワトビペンギンは既に冷房の効いた飼育室に入っていて公開されていない。9月になったら、また出てくるそうなので、その時を楽しみにしていよう。
さて、フンボルトペンギンは見慣れているが、今回はコガタペンギンを見ることができた。コガタペンギンは名前の示す通り小さなペンギンで、現存するペンギンの中では最小のペンギンになる。他のペンギンが垂直に近い形で立つのに比べて前傾姿勢が強いのが特徴。また、模様も単純で白い腹に青黒い背中のツートンカラー。ペンギンの中でも一番鳥っぽい。
ちなみに、コガタペンギンはかなり目つきが悪い。小型種なので警戒心が強いというのが関係しているかどうかは知らないが、写真などを見ると非常に目つきが鋭いのが分かる。私見では、目つきの悪いペンギン御三家はキガシラペンギンを筆頭に、イワトビペンギンとコガタペンギンだと思っている。
動画では目の前をコガタペンギンが突進しているが、警戒心の強い種類なので、この直後、画面奥の岩陰の方へみんな移動してしまった。
この給餌の10分くらい前に職員からペンギンの紹介などが行われていたのだが、それを聞いていなかった人はコガタペンギンを赤ちゃんペンギンだと思いこんでいる様子で、あちらこちらから、「赤ちゃんペンギン」という声が聞こえた。外国人も見ていて「baby penguin」と言っていた。
首相の発言を整合的に理解するのはなかなか難しい。ワンセンテンス・ポリティクスかと思えば、長々とポイントを外した話をしてみたり。はたまた、前言と後言が食い違うのは珍しくない。
例えば、3月頃の予算委員会か年金委員会か忘れたが、「国会の場では各党の面子が優先され、実のある議論ができない。だから、民主党とは別の場で協議をしたい」云々と国会討論中に民主党との密室取引を提案している。議事録を探せば出てくるはずだと思うが、面倒なので省略。そして、このことはほとんど誰も突っ込んでいない。日常茶飯事だからなのか、この発言の重大性が理解されていないからか。
これを聞いた私は、「なるほど、国会が単なる儀式の場に堕しているとは、このことなのだろう」と妙に感心した。だって、首相が国会では論戦ができない、すなわち、国会本来の機能を否定したんだもの。
その一方で、郵政民営化法案は是が非でも国会での審議をしなければならないらしく、渋る自民党員は恫喝して審議に参加させるし、審議拒否の野党は卑怯者呼ばわりをしている。言うまでもなく、審議は国会で行われるのだが、そこは首相がまともな議論ができないと認めている場所だ。
まともな議論ができないと認識している場所で審議を強行しようとする首相の考えていることが、ほんによく分からない。単に、野党に向けて「卑怯者」呼ばわりするのと党内反対を「守旧派・抵抗勢力」としてレッテルはりするのが目的だろう。
例えば、3月頃の予算委員会か年金委員会か忘れたが、「国会の場では各党の面子が優先され、実のある議論ができない。だから、民主党とは別の場で協議をしたい」云々と国会討論中に民主党との密室取引を提案している。議事録を探せば出てくるはずだと思うが、面倒なので省略。そして、このことはほとんど誰も突っ込んでいない。日常茶飯事だからなのか、この発言の重大性が理解されていないからか。
これを聞いた私は、「なるほど、国会が単なる儀式の場に堕しているとは、このことなのだろう」と妙に感心した。だって、首相が国会では論戦ができない、すなわち、国会本来の機能を否定したんだもの。
その一方で、郵政民営化法案は是が非でも国会での審議をしなければならないらしく、渋る自民党員は恫喝して審議に参加させるし、審議拒否の野党は卑怯者呼ばわりをしている。言うまでもなく、審議は国会で行われるのだが、そこは首相がまともな議論ができないと認めている場所だ。
まともな議論ができないと認識している場所で審議を強行しようとする首相の考えていることが、ほんによく分からない。単に、野党に向けて「卑怯者」呼ばわりするのと党内反対を「守旧派・抵抗勢力」としてレッテルはりするのが目的だろう。
ご覧の通り、既定のCSSに一部手を加えて、文字の大きさ、リンクの表示色、表示領域の大きさを変更しました。
不都合の発生した方はコメントなどでお知らせください。
上京するため、30日(月)くらいまで更新はお休みです。
不都合の発生した方はコメントなどでお知らせください。
上京するため、30日(月)くらいまで更新はお休みです。
本日は、上越市立水族博物館(http://www.city.joetsu.niigata.jp/inform/sisetu/aquarium/menu/menu.html)へ行った。マカロニペンギンとイワトビペンギンがいると聞いていたのだが、実際目にできたのはマゼランペンギンのみ。ただし、数が半端ではなく100羽以上いる。国内最大の飼育数とのこと。
マゼランペンギンは、アルゼンチンなど、南アメリカの大西洋側に生息していて、フンボルトペンギン属に分類される。やはり、涼しくないペンギンの一種だ。
換羽の時期なのか寄生虫がいるのか知らないが、ここにも痒いらしいペンギンがいた。水槽内の水道管らしきものにしきりに体をこすりつけていた。
ところで、サンシャイン国際水族館では抽選でペンギンに給餌できるそうだが、今の時期の上越市立水族博物館ならほぼ100%の確率で給餌できると思う。実際、私も給餌してきた。残念ながら塀越しだがアジを10匹くらい投げてきた。上手いもんだね、ちゃんとキャッチするよ。問題は、手が魚くさくなることかな。
ペンギンの話に、いきなりゴマフアザラシが登場して何だが、同じ水槽にゴマフアザラシも飼育されているのだ。北半球に生息しているゴマフアザラシと南半球のマゼランペンギンが一緒に飼育されているのは、ちょっと変だ。まぁ、場所がないから仕方ないだとは思うが。
マゼランペンギンは、アルゼンチンなど、南アメリカの大西洋側に生息していて、フンボルトペンギン属に分類される。やはり、涼しくないペンギンの一種だ。
換羽の時期なのか寄生虫がいるのか知らないが、ここにも痒いらしいペンギンがいた。水槽内の水道管らしきものにしきりに体をこすりつけていた。
ところで、サンシャイン国際水族館では抽選でペンギンに給餌できるそうだが、今の時期の上越市立水族博物館ならほぼ100%の確率で給餌できると思う。実際、私も給餌してきた。残念ながら塀越しだがアジを10匹くらい投げてきた。上手いもんだね、ちゃんとキャッチするよ。問題は、手が魚くさくなることかな。
ペンギンの話に、いきなりゴマフアザラシが登場して何だが、同じ水槽にゴマフアザラシも飼育されているのだ。北半球に生息しているゴマフアザラシと南半球のマゼランペンギンが一緒に飼育されているのは、ちょっと変だ。まぁ、場所がないから仕方ないだとは思うが。
gooリサーチのモニタなので、住所の変更をしようとしたところ、入力フィールドが(1)都道府県、(2)市と区まで、(3)それ以降、の3つに分かれていた。
郡部の人間はどうしたらいいじゃ? 取り敢えず、市と郡は同格のはずなので「(2)市と区まで」に郡名を書き込んだ。何で、郡の存在が無視されているのだろう。
また、Yahoo!リサーチのモニタでもあるので、同じく住所変更を試みた。こちらは、番地入力の部分が英数字で4カ所に分かれて入力できる形に合っている。
住所の整理がキチンとされているところでは、○丁目□番△号なんてなっているが、うちあたりは、昔ながらのめちゃくちゃな番地順で、2000番台の隣に800番台があったりと、何でこんな事にあっているか、住んでいる人間もよく分からん状態。
橋梁メーカの談合問題が大々的に報じられているが、ここは是非、奥田会長をはじめとする日本経団連の見解が聞きたい。
昨日、国交省の役人が入札制度の改革だけでは談合を防ぐことはできない、と言っていた。つまり、罰則強化による抑止が必要ということだが、4月20日成立した改正法(参考: 独占禁止法改正法の主要なポイント)でも、やり得という感じがある。
昨日、国交省の役人が入札制度の改革だけでは談合を防ぐことはできない、と言っていた。つまり、罰則強化による抑止が必要ということだが、4月20日成立した改正法(参考: 独占禁止法改正法の主要なポイント)でも、やり得という感じがある。
この問題については、マスコミで報じられていることの大枠くらいしか知らないし、外交的な問題は複雑なので深入りしない。
ただ、靖国神社を詣でることだけが戦没者を慰霊することみたいな言辞が少なくないことには非常に違和感を感じる。A級戦犯云々の問題ではなく、靖国神社へ行く前にやるべき事があるでしょと思わざるを得ない。
「あなたの地元に神社仏閣はないのですか? そこに戦没者は祀られていませんか?」といつも思う。身の回りにある慰霊碑などを疎かにして草の中で朽ちさせてしまう一方で靖国神社へ行っても仕様がないでしょ。
靖国神社が戦没者慰霊の中心的存在であることを否定するつもりはないけれど、そこばかりに目が向けられる状況は大事な何かが欠落している気がしてならない。靖国神社だけが美々しく飾り立てられる一方で足元にあるものを蔑ろにするのであれば、あまりにも空疎じゃないかな。
ただ、靖国神社を詣でることだけが戦没者を慰霊することみたいな言辞が少なくないことには非常に違和感を感じる。A級戦犯云々の問題ではなく、靖国神社へ行く前にやるべき事があるでしょと思わざるを得ない。
「あなたの地元に神社仏閣はないのですか? そこに戦没者は祀られていませんか?」といつも思う。身の回りにある慰霊碑などを疎かにして草の中で朽ちさせてしまう一方で靖国神社へ行っても仕様がないでしょ。
靖国神社が戦没者慰霊の中心的存在であることを否定するつもりはないけれど、そこばかりに目が向けられる状況は大事な何かが欠落している気がしてならない。靖国神社だけが美々しく飾り立てられる一方で足元にあるものを蔑ろにするのであれば、あまりにも空疎じゃないかな。
星の島のるるちゃん1早川書房このアイテムの詳細を見る |
既に2ヶ月以上前だが、ふくやまけいこ『星の島のるるちゃん』が文庫化された。元々は『なかよし』に連載されていた作品で、講談社コミックスなかよしで2巻まで出ていたが、掲載誌が替わってからの1話分は収録されていなかった。この1話は大都社から再刊された際に収録されたが、『星の島のるるちゃん』自体は未完の尻切れトンボになっていた。この辺りの事情は大都社版に描かれていたと思うが手元にないので不明。
今回の文庫化に当たって、最終話が描き下ろされて、連載から12年の歳月を経て完結することになったのは喜ばしい(とも言えないが)。
掲載誌や話の内容からして分かる通り、子供向けの作品ではあるが、『SFマガジン』で1995年だったか96年だったかに国内のベストSFに推した人もいる通り決して単純な作品ではない。もちろん、素直に楽しんで読むのが正しいと思うが、それだけでない読み方も可能だということだろう。
ところで、ふくやまけいこなどを半分少女漫画家と評するのはなかなか言い得て妙で納得するのだが、同時に商業ベースでの成功が難しいって事でもあるんだよね。需要は常にあるのだが層が薄いんだと思う。