子供は家庭の光源、
笑いの泉
乳のみ子のほほえみ、走り回る子供たちの歓声が、
周囲を和やかにする。
子供こそ、まさしく宝である。
どうでもいいことですが(苦笑)
子どもの表記・・・
私は子供に違和感を覚えます。(笑)
やはり・・・
子どもが一番しっくりきます。
なんで?なのか・・・
私だけなのか?と思って調べてみました。(一部抜粋して貼りますね)
えっ!「子供」って差別表現だったの!?こどもの「ども」は複数形の「共」に由来
『供』という字は『お供』の『供』、付属物の扱いみたいだから良くないと言ったのが始まりとされている。
明治二十二年に初版が発行された「言海」という国語辞典(私が所持しているのは昭和四年の縮刷十五版)で「こども」(こども)を引くと、このように書いてある。
こ-ども (名) |子供| (一)多クノ子。衆兒 (二)ワラベ。兒童
なるほど、確かに、「子供」とは「多くの子」が元々の意味らしい。つまり「男共(おとこども)」が「男」に「共」を付けて複数の男を表すのと同じで、「コ」に「ドモ」を付けて複数の子を表す「コドモ」になったのだ。
しかし、現代語で「子供」は「こ」+「ども」ではなく、「こども」という一つの語になってしまっている。それを示す二つの証拠がある。まず、「子供」と似た例に「友達」があるが、これも今では「とも」+「たち」ではない。一人の「子供」も一人の「友達」もいるし、複数形は「子供等(こどもら)」「子供達(こどもたち)」や「友達等(ともだちら)」である(逆に「男共等」とか「男共達」とは言わない)。
次に、「オトコドモ」は「男共」と書くのに、「コドモ」は「子共」とは書かず「子供」と違う漢字で書く。このように、現代語では元の意味(子の複数形)がすっかり薄れてしまっているのである。
つまり、「コドモ」の「ドモ」とは、元々は複数形を表す「ドモ」であり、後に「供」の字が宛てられたというのが、この言葉の語源である
結論・・・いずれにしても私は『子ども』で行こうと思います。(@_@)