あの時、彼は塩すら撒かなかった。
――それでも何かが、確かに去っていった。
私は彼を「名もなき陰陽師」と呼んでいる──心の中でだけ。
本人に云えば、苦笑しながら除草剤を撒いて去っていくに違いない。
20年以上も前のこと。
東京都下の安アパートに、私は娘とふたりで住んでいた。
いや、正確には、
私と娘と、あと何か、と。
精神的な崖っぷち。
すでに私は壊れていた。
灰色の視界。感情のモザイク。
包丁の先を見つめる日々。
でも、私は思っていた。
「この世界がモノクロなのも、あの場所を探してしまうのも、みんな自分が壊れてるせいだ」
ただ、娘の笑顔だけが、一線を越えさせなかった。
そんなある日。彼が突然やってきた。
「様子を見に来たよ」と、笑って。
そして云う。「掃除しよう」
……掃除!? そんなに汚いの!?
でもその日、私たちは部屋を片づけ、窓を開け放ち、空気を入れ替えた。

そして次に放たれたのが。
「長野に来い」
「温泉行こう」
「親父の家に泊まれ」
謎すぎる誘い。
でも私と娘は、笑ってはしゃいで、それに乗った。
パーキングでソフトクリームを食べ、温泉に浸かって、蕎麦を啜った。
湯けむりの中、久しぶりに人間に戻った気がした。
帰り道、彼は車のハンドルを握ったまま、ぽつりとこう云った。
「いつの間にか、いなくなったな」
……何が?
「おまえの肩にいたんだよ。
ニヤニヤ笑ってる顔が。……けっこうヤバいやつだった。
連れて行こうとしてたよね」
……怖い!!
「喰われるって思った」
「でも、落ちてった」
「良かったよ」
除霊アイテムは、掃除と温泉と蕎麦だった。

彼は霊能者ではない。神職でも祓い屋でもない。ただの普通の人。
でも、「見えてしまう」人。そして、その怖さを知っている人。
波長が合えば見えてしまい、祓い方はわからない。勘で動く。だから、掃除する。
「笑っていたらいいと思うよ」
「ちゃんと風呂に入ってね」
そうしていれば、たぶん、変なモノは憑かない。
そして。
「もう頑張らなくていい。親父に甘えてみろ」
その一言は、雷鳴のようだった。
だって、これまで誰もそんなこと云ってくれなかったから。
「娘のためにしっかりしなさい」
「立ちなさい」
「甘えるな」
そればかり。
私、日本語もまともに喋れなかったんだよ?
その日、やっとやっと、少しだけ赦された気がした。
そして数日後、本当に父が来た。
「おまえ、この子にこんなもん食わせてるのか」
娘の手には、フードバンクでもらったカップラーメン。
それを見た父は、黙って私たちを引き取ってくれた。
そこから引っ越し、暮らし直し、今に至る。
娘は無事に成人し、自立。
父は大病を患い、介護状態。
私は、ゆるゆると復活中。
夜中にホラーチャンネルを観て、「わあ……怖いねぇ」と笑えるようになった。
そして、時折──
彼が庭に来る。
無言で、除草剤を撒きに。
私は霊のことは聞かない。
何故なら、彼がそれを「怖れている」ことを知っているから。
見えているから強いわけじゃない。
見えているからこそ、たぶん、誰より怖いのだ。
だから私は心の中で、そっと呼ぶ。
名もなき陰陽師。塩も祓詞も使わない、ただの人。
でも、彼は命の恩人。
信じるか信じないかは、あなたしだいです。

――それでも何かが、確かに去っていった。
私は彼を「名もなき陰陽師」と呼んでいる──心の中でだけ。
本人に云えば、苦笑しながら除草剤を撒いて去っていくに違いない。
20年以上も前のこと。
東京都下の安アパートに、私は娘とふたりで住んでいた。
いや、正確には、
私と娘と、あと何か、と。
精神的な崖っぷち。
すでに私は壊れていた。
灰色の視界。感情のモザイク。
包丁の先を見つめる日々。
でも、私は思っていた。
「この世界がモノクロなのも、あの場所を探してしまうのも、みんな自分が壊れてるせいだ」
ただ、娘の笑顔だけが、一線を越えさせなかった。
そんなある日。彼が突然やってきた。
「様子を見に来たよ」と、笑って。
そして云う。「掃除しよう」
……掃除!? そんなに汚いの!?
でもその日、私たちは部屋を片づけ、窓を開け放ち、空気を入れ替えた。

そして次に放たれたのが。
「長野に来い」
「温泉行こう」
「親父の家に泊まれ」
謎すぎる誘い。
でも私と娘は、笑ってはしゃいで、それに乗った。
パーキングでソフトクリームを食べ、温泉に浸かって、蕎麦を啜った。
湯けむりの中、久しぶりに人間に戻った気がした。
帰り道、彼は車のハンドルを握ったまま、ぽつりとこう云った。
「いつの間にか、いなくなったな」
……何が?
「おまえの肩にいたんだよ。
ニヤニヤ笑ってる顔が。……けっこうヤバいやつだった。
連れて行こうとしてたよね」
……怖い!!
「喰われるって思った」
「でも、落ちてった」
「良かったよ」
除霊アイテムは、掃除と温泉と蕎麦だった。

彼は霊能者ではない。神職でも祓い屋でもない。ただの普通の人。
でも、「見えてしまう」人。そして、その怖さを知っている人。
波長が合えば見えてしまい、祓い方はわからない。勘で動く。だから、掃除する。
「笑っていたらいいと思うよ」
「ちゃんと風呂に入ってね」
そうしていれば、たぶん、変なモノは憑かない。
そして。
「もう頑張らなくていい。親父に甘えてみろ」
その一言は、雷鳴のようだった。
だって、これまで誰もそんなこと云ってくれなかったから。
「娘のためにしっかりしなさい」
「立ちなさい」
「甘えるな」
そればかり。
私、日本語もまともに喋れなかったんだよ?
その日、やっとやっと、少しだけ赦された気がした。
そして数日後、本当に父が来た。
「おまえ、この子にこんなもん食わせてるのか」
娘の手には、フードバンクでもらったカップラーメン。
それを見た父は、黙って私たちを引き取ってくれた。
そこから引っ越し、暮らし直し、今に至る。
娘は無事に成人し、自立。
父は大病を患い、介護状態。
私は、ゆるゆると復活中。
夜中にホラーチャンネルを観て、「わあ……怖いねぇ」と笑えるようになった。
そして、時折──
彼が庭に来る。
無言で、除草剤を撒きに。
私は霊のことは聞かない。
何故なら、彼がそれを「怖れている」ことを知っているから。
見えているから強いわけじゃない。
見えているからこそ、たぶん、誰より怖いのだ。
だから私は心の中で、そっと呼ぶ。
名もなき陰陽師。塩も祓詞も使わない、ただの人。
でも、彼は命の恩人。
信じるか信じないかは、あなたしだいです。
