Doll of Deserting

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斬花:後編(偽善との共鳴余話:第三幕 日乱)

2006-02-25 02:25:17 | 偽善との共鳴(過去作品連載)
 辺りは喧騒で溢れ返っている。けれども商人達は至って穏やかに客人を出迎え、呉服屋などは新たに仕入れた絹織物を表に出していた。日番谷は深々と頭を下げる商人に軽く頷く。既製品を購入すべく訪れたのだが、流れるように立てかけられた絹織物を眺めているところで、一点に視線が集中した。
「いらっしゃいませ。そちらがお気に召しておいででしょうか?」
「いや…着物を買いに来たんだが、この織物は仕立ててくれるのか?」
「勿論でございます。では、そちらを?」
「ああ、これと…着物を二、三枚見繕ってくれ。」
「畏まりました。」
 その織物は、丹念に染め抜かれた真紅が非常に印象的なものであった。それを飾るようにして、品のある大輪の菊と雛菊が彩っている。その菊の零れんばかりに鮮やかな具合に引き込まれ、派手なものは買わぬと思っていたにも拘らず譲ることが出来なかった。
「それでは、仕立てが終了致しましたら、お届けにあがります。」
 織物から仕立てさせるような客は大抵裕福な人間であるので、店主の腰も幾らか低い。日番谷は家の様子を窺えば魂消るのではないかとふっと口の端を上げ、既に仕立てられていた着物のみを提げて家路を歩いた。
 ざりざりと小さく響く砂の音を捉えながら、手の中にある着物の包みをそっと開く。出来るだけ赤を、と思ってはいたが、はじめに見た紅の印象が非常に強くあったために気付けば淡紅、藤色、鶯と、全く関係のない色を並べてしまった。
(淡紅と藤色はともかく、若い女に鶯はどうだかな…。)
 それも淡い仕立てではなく、少しばかり色濃く造られており、若い女性に好まれる色とは思えない。けれどもおそらく女は、黙って着るのであろう。そう考えると、今にも挿げ替えてしまいたくなった。





「あら、お帰りなさいまし。」
「ああ。」
 軽く返事をすると、女がにこりと笑いとたとたと駆けてくる。見目はいかにもといった大人の女を想像させてならないが、時折仕草がほんの少しばかり可愛らしい。『大人』という世を誰より知る女のはずなのだが、時折大人であることを忘れ去ったかのように無垢な笑みを見せる。
 とどのつまり、日番谷はといえば時折女のそういうところを―いとおしい―と、そう思うのであるが、日番谷は女にとって最も大事なものを知らないままであった。知ることが出来ぬという方が正しいのかもしれないが―確かに日番谷は、女の名というものを知らなかった。
 気になりはするけれども、女のためにも聞かぬ方が良いであろうと考え、日番谷はそ知らぬ振りをして女の目前に着物を広げて見せた。女はあっと声を上げ、着物の傍らへと腰を下ろす。
「どうしたんですか?これ。」
「お前も着物一枚じゃ不味いだろ?」
「…綺麗。」
 女はうっとりと顔を綻ばせ、慈しむように裾を手に取ると、着ている着物の上から羽織った。どうかと思っていた鶯色の着物であったが、女が着ると不思議と若々しく思える。考えてみれば共に街へ出るより、何も言わず買い与えられることの方が遊女にとっては多いのではないかと今になって気付き溜息を吐いたが、女がどうとも思っていないようなので苦笑した。
「悪かったな。若草に近いならまだ良かったんだが―その、鶯。濃すぎたろ。」
「いいえ、すごく綺麗。」
 赤を買って来るつもりがないのならば、どうして好きな色など尋ねたのだと女は罵っても良いところなのだが、心底感謝するような面持ちで着物を代わる代わる合わせてみている。飾らぬ女だと思ってはいたが、これ程までとは、と日番谷は再び軽い笑みを漏らした。





 数日で仕立て上がると店の主人は言っていたが、待てども届けに来る様子がないので、仕事帰りに立ち寄ってみた。するとどうやら非常に丹念に造っているらしく、明日までにはと頭を下げられたので、急がぬとも良いと断りつつも、明後日辺りに引取りに来ると告げる。店の主人は客に赴かせるなど恐れ多いという風に拒んだが、是非女と共に訪れて見せたいと言えば渋々了承された。
 そのため仕事の合間を塗り、女を連れ出さねばならなかったのだ。女は訝しげに首を傾げたが、たまには付いて来いと言ったところ素直に従った。
 蓮華の花が軒を連ねる小道を抜け、穏やかに時を重ねる田園を掠めて通り過ぎると、あちら側には街が見える。女は一度どきりとしたように見えたが、ぎゅっと引き締められた手を引いてやった。
 呉服屋の前には立派な看板があるが、女の様子から見ればどうやらここは過去の住まいではないようで、僅かに安著する。それは女も同じであるので、ほっと一息付くと頬を緩めた。
「いらっしゃいませ。」
「先日仕立てを頼んだ者だが…出来てるか?」
「勿論でございます、少々お待ち下さいませ。ただ今…。」
「冬獅郎、さん…?」
 流石にここまで来れば事の次第を察知したらしく、女が見開いた眼で見上げてくる。日番谷は曖昧にそれを逸らし、主人が奥から出でるのを待った。するとすぐに主人が、淡い色の風呂敷に包まれた着物を労わるような手付きで運んでくる。
「この品で間違いはございませんか?」
「ああ―…これだ。」
「え…。」
 広げられた途端に、女が驚愕したような声を上げる。漆で塗られたように鮮明な深紅が視界を染め上げたかと思うと、すぐさま大輪の菊が襲う。滲むような具合に白く染め抜かれたそれは、克明な雛菊と対比するように交わりひどく美しかった。
「何分幅の広い模様ですので、最も映えるように仕立て上げるのが難儀でして…申し訳ございません。」
「いや、見事だと思うが。」
「お褒めに預かり幸甚の至りにございます。」
 傍らの女は未だ魅入られたようにして視線を外さない。見かねた日番谷が「合わせてみるか」と言うと、一瞬戸惑った後そろそろと着物に手をかけた。店の主人は女の風貌を見て、「さぞお似合いでしょう」と笑みを絶やさない。
「…似合いますか?」
「ああ…。」
 女から投げかけられた言葉に、思わず目を逸らす。幾ら見目の麗しい女であれども、似合うものと似合わぬものがある。とりわけこのように派手な風体の着物であれば、着物に着られる女も珍しくない。けれども元より長身なこともあり、軽く羽織るだけでもすらりと美しかった。
「ありがとうございます、本当に…。」
「いや、大したことねえよ。」
「大したことあります、だってあたしは男の人からこんなに嬉しいもの貰ったの初めてなんですもの。」
 笑みを見せる女の表情から、これまで彼女に貢いできた男達と同じようには思われていないのだと確認し、ひっそりと息を吐いた。同時に、何やらこの邂逅がこれまでとは異なった兆しを見せ始めたことを感じる。女にとっても、自分にとっても。
 背後で息を潜めるように揺らぐ影の存在を、日番谷は知る由もなかった。





 なだらかな風が、隙間の開いている指を掠める。風呂敷は自分が持つと言ったのだが、自分で持たせて下さいと女が言って聞かなかった。元より重量のある代物ではないが、女の繊細な手に乗せられているとひどく重苦しいものに見える。
「なあ…お前、結局自分の名前思い出せねえのか?」
「え、…ええ…すみません。」
「責めてるわけじゃねえよ。残念だと思っただけだ。」
「残念?」
「いつまでも『お前』じゃ格好つかねえだろ?」
 女が了承するならば、妻にしたいと考えていた。女と過ごす中で長らく思っていたことである。帰る家がなければこのまま住まってくれればそれが良い、と。けれども高価な着物を買い与えた後では、断りたくとも断れぬことであろう。日番谷は僅かばかり、そのようなもので彼女を捕らえようとしている自分に気付き、大層卑怯に思った。
「お前さえ良ければ―…。」
「冬獅郎さん!」
「…っ!?」
 油断した、と、頭で理解した頃には遅かった。





 短刀を深く腹に宿したままで向かって来た者の腕を掴んだが、刺された後ではやはり少しばかり遅い。けれども足は地に縫い止めたまま、必死に佇んだ状態を保っていた。女は歯を食い縛る日番谷を支えるようにして肩に触れている。
「冬獅郎さん…冬獅郎さん…!」
 呼びかけられるが答えることが出来ず、肩で息をしながら腹から刀を抜く。瞬間どくどくと激しい血の巡りに襲われ、口の端からも僅かに血液が零れたが、構っている暇はなかった。目前の女には見覚えがある。先日殺めた男の―…妻だ。
「…仇のつもりか。」
「何の話だい?」
「旦那を殺した男、の、仇だろ…?」
「あたしはあんたなんて知らない。用があるのはそこの女さ。」
「女、だと…?」
 朦朧とした瞳で女を見つめると、女は青白い顔付きで目前の女を凝視している。男の妻と名乗る女は、狂わしい顔をして口を開いた。
「元は商才も人望もある人だったのに、あんた目当てに遊郭に通うようになってからあの人は変わったんだ。終いには店の金にまで手を出して…あんたが何を貰っても喜ばないんで、もっと高いものを、もっと高いものをってね…。あんたに身請けするのを拒まれた後には頭も狂って…どこかのお偉いさんを殺し損ねておっ死んじまったけど、あたしはあんたの顔を忘れやしなかった。生前あの人が見せてくれたあんたの顔をね…。信じられるかい?妻に向かって遊女を迎えに付き合えだなんてさ。」
「よく覚えております。何の前触れもなしに車を用意して来られて…でもあたしはどうしてもお受け出来ませんでした。身内との約束がありましたから…。」
 涙を堪え切れそうにないという風な顔をし、女がぽつりぽつりと呟く。男の妻ははっと鼻で笑い、未だ意識を保とうと必死になっている日番谷を一瞥すると、女に向かって吐き捨てるように言った。
「そうだねえ、結局あんたはその後易々と親戚の家に貰われたんだもんねえ?…でもさっき呉服屋の前でその男に向けてる顔を見たら許せなかったんだよ。何であんたばっかりのうのうと生きてるのかってね。」
「…こいつが今までどうやって生きてきたか、あんたは知らねえだろうが…。」
 搾り出すような声を出すと、女は再び嘲笑する。
「だからその女は殺さない。お前も一度くらいは大事な男を失くす思いを味わったっていいだろう?」
 ははは、と気味の悪い笑いを響かせる女が煩わしく、これ以上話を聞く必要はないと言わんばかりに腰に挿していた刀を抜き、女の胸に突き刺した。左胸を一度に狙ったのはせめてもの情けである。女は、突如として笑い声を途切れさせ、そのまま事切れる。死に顔だけは何とも整っていた。
 日番谷は再び口から血を吐き出すと、その場にくず折れた。女は慌ててそれを抱きかかえ、幾度も名を呼ぶ。このような時でさえも女の名を呼べぬ自分が、ひどく切なかった。
「冬獅郎さん、冬獅郎さ…。」
 日番谷は、傍らに無造作に置かれている風呂敷を一瞥し、それに手を伸ばした。着物は変わらず美しいまま端正な容貌を保っている。日番谷はそれを広げると、視界を埋めるように緋にかざした。艶かしい深紅は、緋色を浴びて一層際立って見える。
「冬獅郎、さん…?」
 着物の端に、女の表情が重なった。はらはらと、緋色の空間から雨が流れる。日番谷は着物の模様を無心に眺めながら、狂うように咲き誇る菊の花を視界に留め、女の表情と照らし合わせてぽつりと呟いた。
「…乱菊…。」
「え…?」
「名がなければお前にやろう。乱菊、それが…お前の名だ…。」
「乱菊…。」
 慈しむように、女―乱菊は呟く。一文字一文字、なぞるように、乱菊は己の名を繰り返した。日番谷は乱菊の姿にか声にか、もしくは目前に広がる鮮やかな深紅にか―振り絞るようにして、最期に一言消え入るような声で残した。

「ああ―…綺麗だ。」

 日番谷の表情は、何かをやり遂げたかのように美しかった。乱菊は名を呼んだのと同じように、繰り返し繰り返し日番谷の死に顔を撫でている。周囲の風は、凄惨な殺戮を無きものにするかのように緩慢であった。





沈む愚かは 狂気のあぎと
浮く愚かさは 叶わぬ慕情




斬花:余編へ。

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