Doll of Deserting

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衆生の終焉。

2006-06-30 17:05:07 | 過去作品(BLEACH)
 安寧とした風がある。混沌のような緑がある。その先は言うなれば虚構だ。現世という、虚構だ。長いこと不規則にばらけていてぼんやりとした人間の魂などを扱っていると、果たして彼らの妄想から勝手に生み出されたのが自分達なのか、それともこちらの妄想から飛び出したのが彼らなのか、掴みにくくなってくる。既にどちらも現実のものであるというような仮説は己の中には存在しない。
 自分がそのような妄執の中の一つであった時の話は少しも覚えていないが、別段哀しいとも思わなかったし、疑問を抱いたこともなかった。こと日番谷という男は、一つの場所にしか留まれぬというように頑なな面差しをしておきながら、臨機応変に物事を渡っていくような人間なのである。





 霊子による壁が、これ程冷ややかに見えたこともなかった。思えば数年前まではぴったりとこの壁に張り付くようにしか歩くことが出来なかったのだから、仕方のないことかもしれない。それ以前は常に低い目線から壁を感じていた。どちらにしろ、今よりは暖かく見えていたのであろう。
 独り歩きに興じるのは、非常に久々である。昔は身軽でもあったせいかちょろちょろと散策して回るくせがあり、一部では放浪癖と頭を抱えられていたようであったが、今となってはそれも懐かしい。妻もよく自分を置き去りにして逃げ回ることがあり、こちらも大分手を煩わされたものであったが、傍観している側から見れば似たもの同士にしか思えなかったらしい。
(意外と、寂しいところだったんだな……)
 妄執を抜けたかと思えば、再び妄執である。人間である自分を放棄すれば救われると思っていたのか知れないが、結局また自分は、奪う側に回ってしまった。死神という、傍目に見ればやはり人間でしかない生命として、再び出でてしまったのである。
 日番谷は、じっと食い入るように白壁を見つめてから、隊舎へと戻る道筋を一歩一歩確かめながら進み出した。
「おや、日番谷隊長。とうとうご復帰なさるんですね」
「ああ……お前は?」
「己も顧みず不躾なお声をおかけ致しまして申し訳ございません。……三番隊の三席としてお勤めし、もう百年近くになります。名を存じて頂くような者ではございませんが」
「済まねえ。他隊の人間にはどうも馴染みが薄くてな」
「いいえ」
 三席と名乗る男は、目立たぬ眼光を更に下に向けて薄く笑った。そのまま押し黙る男に何と声をかけてやれば良いのか分からず少しばかり戸惑ったが、躊躇いがちに重い唇を上げる。
「……明日、だったな」
「ええ、吉良副隊長が隊長に就任されたのが昨日のことのようにも思えるのですが……明日、新任の隊長がお見えになります」
「そうか。俺はまだ、市丸が隊長として勤務していた頃が一番色濃く残ってるな」
「でしょうね、あの方は顔を合わせればあなたと弱味をつつき合っておられた」
「違いねえ」
 針金のような光沢ある睫毛が翳り、懐かしむように眦が下げられる。三席は、あれだけ手酷い目に遭うてもなお美貌を失わぬ男を、ひどく感慨深く思った。同時に、彼と共に歩けば四季もなお香り立つと謳われた彼の妻は、もしかするとこういった表情を最も好んでいたのではないかと感じる。
 彼は、愛刀と同じく冬の期を思わせる。陰鬱なわけではないが、纏う色、表情の一つ一つが重々しく、まるで冬の朝に下がる氷柱のようであった。市丸が雪と称され、彼が氷と称されたのは、決して斬魂刀の性情を詠まれたのではない。実にその通りなのである。市丸は月光を孕んで白く輝いたかと思うと、すうと溶けて姿を消してゆく。対して日番谷の消え方はといえば、粒子となるまで砕かれ、己の生きた姿を、まざまざと見せ付けてから溶けてゆく。市丸のように何事もなかったかのようには済まさぬ、鋭い激しさが垣間見られた。
 そうして、譬うならば彼の妻は夏のようであった。朗らかで、纏う色も表情も、全てが軽快で鮮やかに見えた。だからこそ二人並べばいかにも似合いであったのだ。彼女は、言うなれば極寒を揺るがす陽のような笑い顔をしていた。
「市丸と吉良が消えて、もう幾年になる?」
「二十年に、なりますね」
「随分と長いこと、新任が現れなかったもんだ」
「卍解を会得される方はそうおりません。それに何しろ、吉良隊長が姿を消されてから暫くは私がお断りしておりましたもので。吉良副隊長が隊長に就任されるまでは隊長の席が、吉良隊長が就任されてからは副隊長の席が、元よりそれまで空いておりましたし」
「……吉良が隊長に就任した折、どうしてお前が副隊長にならなかった?」
「まあ、実質は私が副隊長のようなものでしたが。どうしても副隊長という名を就任する覚悟が、私にはなかったんです。副隊長といえば、隊長のために存在し、隊長のために命を捨てる覚悟を持たねばなりません。当然その覚悟はありましたが……副隊長という名を、私が冠してはならぬ気がしたのです。あの方のためにそうまでする人間は、私では務まらぬ気が、したのです」
「そうだな……俺には何とも言えねえが、事実吉良はあの男と消えてる」
「ひどい、戦乱でしたね。どちらが正しくあるのか、どちらが現実のものなのか、どちらがより、神としての器を有しているのか……今思えば誰もが皆私情のために剣を振るっていた。敵も味方も、他者は誰も必要とせぬような顔をして」
「私情のために、か。それにしちゃあ、失ったもんが多すぎるな」
 日番谷は、吐き気をもよおすような表情で憎憎しげに嘲った。誰一人として護れなかった。あの頃隊長、副隊長として任に就いていた人間は、もう一握りしか残っていない。忌々しかった人間も死んだ。けれどもそれには、長い間半身のように大事にしていた兄弟のような女も、共に連れ立っていった。
 そして、人として死に至った時ですら感じなかった喪失を、幾度も味わった。
「日番谷隊長……皮肉にしか聞こえないかもしれませんが……よく、生き延びられましたね」
「労わりとして捉えといてやるよ」
 日番谷が三席の脇をすり抜けると、三席は深くかぶりを下げた。日番谷はそれに全く頓着しなかったが、それはいつまでも、彼が去りきった後まで続けられていた。





 夕闇が執務室の窓から溢れ、凄惨な色で染め上げている。数年来にお目にかかった机上は数年前と少しも変わっていない。彼の妻が愛用していた長椅子も、未だそのままの形で残されている。けれども温もりまでは残さぬその長椅子は、横たわる人間がいなければぽっかりと不自然に見えた。心なしか色の方も少しばかり黄ばんだように感じられる。
 時刻を窺い、これはいよいよ明日からしか復帰出来ぬと思いながらも、静かに椅子に身を沈める。昔に比べれば、随分と椅子の上背を低くして座ることが出来るようになった。
 日番谷は、先程の会話を思い出し、同時に希薄となった記憶の中から最も陰惨な場面を探り出す。この目でその姿を窺ったわけではないのに、含んだように笑う市丸の姿や、手を差し伸べる吉良の姿まで垣間見えるような気がした。生きているのか死んでいるのか、それすら未だ知れてはいない。
 そうして、己にとって最も残酷な場面まで辿り着いたところで、躊躇するように視線を背ける。もう二度と、あのように無様な己の姿を映したくはない。あのように無惨な、無惨な、姿も。
 記憶の中ばかりには、彼女の美しい姿のみを留めておきたかった。原型が残るような姿か否かではなく、あのような場面での彼女を胸にしまっておくのは、非常に申し訳ないことのような気がしたのだ。
 日番谷は、ゆっくりと椅子から身を立たせ、隊舎裏へと向かった。





 朱墨で荒らしたような色の樹木が軒を連ねる中、羞恥に濡れたような花を横切ってすうと身を留める。石に翳った陽光の陰影がゆらゆらと不安定に揺れ、まるで彼の思いを汲み取っているようであった。
 生前の姿とは裏腹に、ひっそりと慎ましい趣で佇むそれは、母のような表情でじっとこちらを見据えているように見えた。だからこそ日番谷は、死んでなおこの場所に彼女を縛り付けてしまった自分を、もどかしく思うのだ。幾度すまないと言ったところで、それは無機質に全てを受け入れるばかりで、罵ることも膨れ面をすることもない。許されているのとも違うような気がして、ただもどかしいのである。
「……松本」
 その名で彼女を最後に呼んだのは、何十年前になるだろうか。他人行儀な呼称を使うのは彼女を妻に迎える前の晩以来である。
『乱菊って、呼んで下さらないんですか?』
 妻に迎えた日の晩を、克明に思い出す。懐かしいという思いはない。虚しいだけだ。戦乱というもの、神と呼ばれてなお、死する運命にあるという事実。
 友を失った。姉のように慕った女を失った。妻を、失った。人としての生涯を終えるためにこの場所へ赴いたというのに、このひどい裏切りは何なのであろう。友を奪われた。姉のように慕った女を奪われた。妻を、奪われた。
 生の先に死があり、死の先にまた生がある。何ということはない。輪廻する度失うものが増えるだけだ。奪われるものが、増えるだけだ。
 いっそ己が、衆生によって虚像された妄執の代物であればまだ良かった。





 けれども、この世界の全てを憎らしく思うわけにはいかなかった。友を与えたのも、雛森桃という存在を与えたのも、松本乱菊という存在を与えたのも、この冥界とも言える場所に違いなかった。少なくとも乱菊ならばそう考えるであろう。そういう女であった。





 霞がかった空の割れ間から、幾多の声が覗いているような気がした。





別離ひとつ
邂逅ひとつ
鉛の飛沫が舞い踊る
別離ひとつ
邂逅ひとつ
約した秘事が舞い上がる
 



*あとがき*
 おそらく本編は短い期間にがーっと終幕を迎えると思うのですが、えらく長い間今の対立が続いたとするならば、と仮定して。
 日乱はその数十年の間で夫婦になったのだと思ってやって下さい…orz
 今回の作品は「VENUS GARDEN」としての最後の小説ということで、主人公を誰にして進めるか迷ったのですが、最も全体的に状況を観ることが叶っていそうなのが日番谷君だったので、日番谷君にしました。
 バッドエンドな雰囲気ですが、流石に誰も死なずに終わるというのも不自然な気がしたので…不快に思われた方、いらっしゃいましたら申し訳ございませんorz
 

 さて、上で申し上げたように、この「衆生の終焉」を、このサイトでの最後の作品にしようと思います。詳しくは日記の最新記事をご覧下さい。
 これまでのご愛顧、本当に救われる思いでございました。皆様、お声をかけて頂き本当にありがとうございました!
 それでは、また宜しければ新たな場所でお会い致しましょう。

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