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御宿小学校  その3

2024-01-09 12:28:37 | Weblog

              私が通学していたころの正門の門柱。現在は最明寺の参道入口に建っております。

 明治四十年(1907) 校舎が倒壊して五年。
 伊藤鬼一郎校長と村田啓次郎村長は国・県・郡に頼ることを諦め自力再建への道を選択いたしました。

 「小学校再建のために村内全戸で五厘の寄付を募ろう」と提案した。
  現存している隣組制度が全戸五厘貯金のシステムでした。

 初めての試みは、何ごとも不平不満がつきものでありました。
 五厘とは言えど毎日となるとその負担は・・・?。
 ※1円=100銭、1銭=10厘 
  明治30年頃、小学校の教員や警察官の初任給は8~9円ぐらいだったようです。
  一円は現在の二万円くらいと思えば宜しいような気がいたします。
  五厘x365日=1,825厘=182.5銭=1.825円 年40,000円前後くらいでしょうか。
  房総の寒村にとってはけっして楽な額では無かったことと想います。

  学校の建築は本来、県や国の仕事である
  「どうして俺たちが金を出さなくてはならないのだ」
  「忙しいのに各戸をまわって集金をするのは・・・」と、消極的な部落長や村民も少なくはなかった。

  「村の発展は教育です。子供たちへの教育は必須です。それには校舎再建が急務です」
  「国や県を頼っていたのでは再建の目処は立たない。全村民が金を出し合い学校を再建しましょう」
  伊藤校長は村の部落長や組長、村民に説いてまわりました。
  不平不満を口にしていた者たちも真剣に話す村長と伊藤のことばに心をうたれました。 

    ※部落と言う言葉について。当町では1970年代までは特に差別用語でも何でもありませんでした。
   当町では区は使用されてませんでした。部落と言う言葉に非差別部落の意味はありませんでした。
   私が小学校の頃は部落児童会が存在し、運動会では部落対抗リレーなどもありました。
   初めて岡林信康の『 手紙 』を聴いた時に 歌詞の一節が理解できませんでした。   


  建築資金のめどが立った、明治四十三年、伊藤校長は郡役所を通して県に御宿小学校新築申請書を提出した。
  そして九月十五日建築を認める「許可書」が届いた。
  伊藤はうれしさと同時に資金が予定通り集まるだろうか心配でもあった。
  学校再建にはまだまだ足りない金額であった。「一日でも早く子どもたちに正常な教育を受けさせたい」
  校舎壊滅から十年近くが経ち、村人の生活も安定してきた。
  村人の中からは「五厘ではなく、一銭に」と言う声も上がった。
  「出来るだけ早く再建しよう」という気運が高まってきた。

  さらに村民の熱意が町の実力者や資産家の心を動かした。
  積み立て以外の寄付金が寄せられるようになった。
  この特別寄付が8,369円71銭5厘。また町費から約5,150円が加えられた。
  これらの金を合計すると28,500円余となった。 ※現在の貨幣価値に換算すると6億円に近い額ですね。


  明治四十五年(1912)四月。校舎の工事が始まりました。
  大正三年(1914)七月 念願の校舎が完成。

  つ づ く


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