秋ですね。ちょっと一息。
これが宍道湖。
この地点から200メートル東に行ったところが宍道湖の「夕焼けスャbト」。県立図書館もあります。「日本一知られていない県」=我が故郷の県庁所在地、島根県松江市の遠景です。写真では見えませんが、肉眼では松江城(別名「千鳥城」)も見えていました。NHKの朝の連ドラ『だんだん』で少し有名になりましたね。いい城下町です。
写真の真ん中当たりに小さい島が浮かんでいます。「嫁が島」と言います。夕焼けとセットで絵葉書にもなっています。
この島は私の家族にとっては忘れられない島です。職場でカミングアウトしたと言っていたから、「嫁が島事件」についてちょっとだけ書くことを弟も許してくれるでしょう。
事件の日は、よりによって天皇が来県するという日でした。小学校が休業になり、日の丸の小旗をふってお出迎えという丁度その時に事件は起こりました。弟は小学校で一番優秀であった友だちと連れだって、この嫁が島に向かってドラム缶でつくった筏をくり出したのでした。嫁が島と陸地・有料道路の間はとても流れが強いそうで、丁度真ん中あたりの深かくて竿が湖底に届かないところであっけなく沈没したのです。たまたま近くに白バイの駐屯所があり、発見・通報によって漁師に助けられて事なきを得たのですが、問題はそのあとのことです。
校長先生に呼び出されてお袋さんがこっぴどく叱られたそうです。我が弟はその時は小学校の特殊学級に入級していました。事件を起こした相棒はとても有名な会社の御曹司で成績も優秀なお友だちでした。その友だちの親も呼ばれていましたが、校長先生はずっとお袋の方を向いて責め続け、お袋さんは小さく小さくなって膝に頭がつくほど屈んで謝ったそうです。
弟はその体験を「いかだ漂流記」という作文にしました。その作文が某新聞社の作文コンクールでみごと入選し表彰されました。
当時、私は大阪で大学生をしていました。大阪のアパートに送られてきた封筒の中には漁船から助け出されて毛布にくるまって震えている弟たちの写真と事件を報じた新聞記事と、その作文が表彰された時の新聞記事が2枚入っていました。弟はそれがきっかけで自信につながり、中学で猛烈に勉強をし出して、筏で一緒に漂流した友だちと一緒に一浪(友だちは筑波大を受かったそうだが辞退したとか)し、彼は名大へ、弟は北大へ進んだという話です。
今とは違って当時の特殊学級というのはほとんどが知的障害のみです。私は当時、大学では障害児教育を学んでいましたので、特殊学級在級者の中には家庭の文化的な環境の悪さによって学力の遅れや生活意欲の低下が起きる=「仮性精薄」と言われる子どもたちがいると授業で聞かされ、これは我が家と弟のケースだと確信したわけです。
つまり、職場の人間関係によるトラブルで仕事が続かず転々と職を変えるアルコール依存症&ギャンブル症候群…の父親が引き起こした家庭の貧困と「暴力(的)」環境によるものと思っておりました。
今回、連休で入院中のお袋を見舞ったときに、当時のことで知らなかった新たなことを母親から聞かされました。
弟が特殊学級に入級していたのはわずか4ヶ月程度だったという話です。その間、弟はランドセルの中に石を入れられてバカバカと呼ばれていじめられていたようです。その弟の様子が同じ学校に通う妹にはつらくて、妹は学校へ行くのがイヤだと訴えていたそうです。
その時、お袋は看護師でたまたまある総合病院の精神科に勤めており、精神科のお医者さんに父親の相談と一緒に特殊学級に通う弟の相談もしたそうです。それで、当時の医者としては珍しいですが、弟の発達検査をしてくださったそうです。特殊学級に入級させるために心理士が行った検査ではIQが60だったそうです。この医者が行う検査の時には弟は全く落ち着きがなかったそうですが、それでもIQ=100という値が出たそうです。医者が便せんにびっしり書いた長文の意見書を学校長に出し、その中で特殊学級の対象ではないので家庭環境などに配慮して普通学級で指導すべきだと述べてくれたようです。それで、あわてて元に戻したという経緯があったという話です。
今回この話を聞いて、医者に感心したと同時に「ふ~ん」と思ったわけです。弟には家庭環境の他にもきっとしんどい面があって、それらが重なり合っていたんだろうなぁ…。一度じっくりと弟の話を聞いてみたいもんだと思ってのです。今は大学の職員で管理職をしている弟は「カミングアウトして楽になった」と話したのはわずか1年前のことですが、私は妙に納得してしまい何をどうカミングアウトしたのか聞かないままきているのです。
好々爺となった親父は当時のことはもう忘れているのだろうか?親父は自分が引き起こした事件についてはいっさい語らない人でしたので、この事件についてもそうでした。ただ、新聞記事を同封した手紙を送ってくれたのは、この事件を自慢話にしてしまった父親だったように思う。
この写真の「足長おじさん」は私です。この地点が私の「夕焼けスャbト」です。ここに古ぼけた船がいつも置いてありました。遠くからアルコール依存症の父親の大声(セリフと歌は決まっていた)が聞こえてくると、高校生の私は毛布一枚を持って「家出」してこの船の中で流れ星を観ながら一夜を過ごしたものです。ピンク色(しかなかった)のカーテンで仕切った1畳の空間とこの船が私の居場所でした。
お袋さんの入院が1ヶ月延びました。親父のロングショートも更に延ばしていただくことができました。来月も仕事の合間をぬって日帰りし、少しでも親父さんを連れだしてやらねばなりません。私が田舎に一番近い位置に住んでいるのです。
さて、話を元に戻して秋ですね…。
運動会たけなわ。運動会は子どもたちの飛躍の時、成長の節目とばかり思ってきた。ぽぽろの相談をするようになって、運動会が終わってから増える相談の内容から、運動会は子どもによっては殉難の行事であるということを知りました。恥ずかしい話です。
写真は日曜日に能勢のある法人の理事会行った時の風景です。
田圃のあぜ道には曼珠沙華(ヒガンバナ)とコスモスが咲き乱れ、ススキがゆれ、心を和ませてくれました。私の好きな季節です。
今年の米の収穫はどうでしょう?心配されるところです。稲刈りは丁度半分程度終わっておりました…。
今年の秋こそは山に登り自然に親しみ、温泉にでも一泊…といきたいものです。
これが宍道湖。
この地点から200メートル東に行ったところが宍道湖の「夕焼けスャbト」。県立図書館もあります。「日本一知られていない県」=我が故郷の県庁所在地、島根県松江市の遠景です。写真では見えませんが、肉眼では松江城(別名「千鳥城」)も見えていました。NHKの朝の連ドラ『だんだん』で少し有名になりましたね。いい城下町です。
写真の真ん中当たりに小さい島が浮かんでいます。「嫁が島」と言います。夕焼けとセットで絵葉書にもなっています。
この島は私の家族にとっては忘れられない島です。職場でカミングアウトしたと言っていたから、「嫁が島事件」についてちょっとだけ書くことを弟も許してくれるでしょう。
事件の日は、よりによって天皇が来県するという日でした。小学校が休業になり、日の丸の小旗をふってお出迎えという丁度その時に事件は起こりました。弟は小学校で一番優秀であった友だちと連れだって、この嫁が島に向かってドラム缶でつくった筏をくり出したのでした。嫁が島と陸地・有料道路の間はとても流れが強いそうで、丁度真ん中あたりの深かくて竿が湖底に届かないところであっけなく沈没したのです。たまたま近くに白バイの駐屯所があり、発見・通報によって漁師に助けられて事なきを得たのですが、問題はそのあとのことです。
校長先生に呼び出されてお袋さんがこっぴどく叱られたそうです。我が弟はその時は小学校の特殊学級に入級していました。事件を起こした相棒はとても有名な会社の御曹司で成績も優秀なお友だちでした。その友だちの親も呼ばれていましたが、校長先生はずっとお袋の方を向いて責め続け、お袋さんは小さく小さくなって膝に頭がつくほど屈んで謝ったそうです。
弟はその体験を「いかだ漂流記」という作文にしました。その作文が某新聞社の作文コンクールでみごと入選し表彰されました。
当時、私は大阪で大学生をしていました。大阪のアパートに送られてきた封筒の中には漁船から助け出されて毛布にくるまって震えている弟たちの写真と事件を報じた新聞記事と、その作文が表彰された時の新聞記事が2枚入っていました。弟はそれがきっかけで自信につながり、中学で猛烈に勉強をし出して、筏で一緒に漂流した友だちと一緒に一浪(友だちは筑波大を受かったそうだが辞退したとか)し、彼は名大へ、弟は北大へ進んだという話です。
今とは違って当時の特殊学級というのはほとんどが知的障害のみです。私は当時、大学では障害児教育を学んでいましたので、特殊学級在級者の中には家庭の文化的な環境の悪さによって学力の遅れや生活意欲の低下が起きる=「仮性精薄」と言われる子どもたちがいると授業で聞かされ、これは我が家と弟のケースだと確信したわけです。
つまり、職場の人間関係によるトラブルで仕事が続かず転々と職を変えるアルコール依存症&ギャンブル症候群…の父親が引き起こした家庭の貧困と「暴力(的)」環境によるものと思っておりました。
今回、連休で入院中のお袋を見舞ったときに、当時のことで知らなかった新たなことを母親から聞かされました。
弟が特殊学級に入級していたのはわずか4ヶ月程度だったという話です。その間、弟はランドセルの中に石を入れられてバカバカと呼ばれていじめられていたようです。その弟の様子が同じ学校に通う妹にはつらくて、妹は学校へ行くのがイヤだと訴えていたそうです。
その時、お袋は看護師でたまたまある総合病院の精神科に勤めており、精神科のお医者さんに父親の相談と一緒に特殊学級に通う弟の相談もしたそうです。それで、当時の医者としては珍しいですが、弟の発達検査をしてくださったそうです。特殊学級に入級させるために心理士が行った検査ではIQが60だったそうです。この医者が行う検査の時には弟は全く落ち着きがなかったそうですが、それでもIQ=100という値が出たそうです。医者が便せんにびっしり書いた長文の意見書を学校長に出し、その中で特殊学級の対象ではないので家庭環境などに配慮して普通学級で指導すべきだと述べてくれたようです。それで、あわてて元に戻したという経緯があったという話です。
今回この話を聞いて、医者に感心したと同時に「ふ~ん」と思ったわけです。弟には家庭環境の他にもきっとしんどい面があって、それらが重なり合っていたんだろうなぁ…。一度じっくりと弟の話を聞いてみたいもんだと思ってのです。今は大学の職員で管理職をしている弟は「カミングアウトして楽になった」と話したのはわずか1年前のことですが、私は妙に納得してしまい何をどうカミングアウトしたのか聞かないままきているのです。
好々爺となった親父は当時のことはもう忘れているのだろうか?親父は自分が引き起こした事件についてはいっさい語らない人でしたので、この事件についてもそうでした。ただ、新聞記事を同封した手紙を送ってくれたのは、この事件を自慢話にしてしまった父親だったように思う。
この写真の「足長おじさん」は私です。この地点が私の「夕焼けスャbト」です。ここに古ぼけた船がいつも置いてありました。遠くからアルコール依存症の父親の大声(セリフと歌は決まっていた)が聞こえてくると、高校生の私は毛布一枚を持って「家出」してこの船の中で流れ星を観ながら一夜を過ごしたものです。ピンク色(しかなかった)のカーテンで仕切った1畳の空間とこの船が私の居場所でした。
お袋さんの入院が1ヶ月延びました。親父のロングショートも更に延ばしていただくことができました。来月も仕事の合間をぬって日帰りし、少しでも親父さんを連れだしてやらねばなりません。私が田舎に一番近い位置に住んでいるのです。
さて、話を元に戻して秋ですね…。
運動会たけなわ。運動会は子どもたちの飛躍の時、成長の節目とばかり思ってきた。ぽぽろの相談をするようになって、運動会が終わってから増える相談の内容から、運動会は子どもによっては殉難の行事であるということを知りました。恥ずかしい話です。
写真は日曜日に能勢のある法人の理事会行った時の風景です。
田圃のあぜ道には曼珠沙華(ヒガンバナ)とコスモスが咲き乱れ、ススキがゆれ、心を和ませてくれました。私の好きな季節です。
今年の米の収穫はどうでしょう?心配されるところです。稲刈りは丁度半分程度終わっておりました…。
今年の秋こそは山に登り自然に親しみ、温泉にでも一泊…といきたいものです。