水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

徳川家康と水戸頼房

2023-08-07 19:41:04 | 日記

「徳川家康シリーズ」の第2回講演会を令和5年7月30日(日)、那珂市ふれあいセンターごだいで開催しました。
講師は、当会事務局長の仲田昭一です。

徳川家康は、水戸を重要な地点として重視し、実子5男信吉、10男頼宣、11頼房をと次々に送り込み、天領的位置づけをしました。その家臣には有力な側近を付けました。戦国の雄の一人佐竹氏の支配地であったことを強く意識したのです。御三家の一つとされた水戸藩の実質的初代は頼房と捉えます。
今回は、家康の頼房への期待と愛嬢に触れながら、頼房の水戸城下整備や家臣団の結成、後継者光圀への遺訓などを紹介しながら頼房の人間像に迫ってみます。

1 家康と頼房

徳川家康は、「百世子孫」と唱えて徳川家が百代も続くような施策を練っていきます。その基本は子だくさん策です。中でも、晩年の頼房には眼をかけ、期待もしています。頼房は、慶長8年(1603)8月10日伏見城で誕生し、寛文元年(1661)7月29日に59歳の生涯を閉じました。生母は家康の側女上総大多喜城主正木頼忠の娘「萬」で、養母は太田道灌の子孫である「勝」(英勝院)です。補導役(傅)は、武蔵八王子衆17人の一人中山信吉です。信吉は、「国家を創業し世子を立る、その功尤も大なりとす」と『水戸紀年』に称えられた人物です。

頼房の家臣には、家康付き伏見衆の岡崎平兵衛綱住(大番頭)・三木仁兵衛之次(大老)、伊藤玄蕃友玄(大老)、武田信吉の家臣芦沢信重、市川三左衛門、今川氏の旧臣朝比奈康雄らに加え、備前堀新造で知られる関東郡代伊奈備前守忠次が書記の水戸藩政を担いました。これらの顔ぶれから、家康の水戸藩造りへの気概が非常に高くかつ偉大であったことを知ることができます。

家康が、頼房の非凡なることを感じ取った次のようなエピソードが有ります。
① 頼房10歳頃、家康、諸公子に「汝ら何か欲しきや」、頼房「家臣を多く欲す、天下を知らすため」聴く者皆愕然タリ 
② 家康天守上段へ登り、諸公子に「誰か飛び降りる者は?」、頼房「我こそ」、家康「身、微塵になるぞ」、頼房「身微塵になるとも一旦天下を得の名は長く萬世に伝うべし」。家康、は大いに    奇となしましたが、「天下は長子が継ぐものである、汝には常に好める唐の頭(勇者を示す馬標)を与えよう」と称えています。

2 水戸城の整備
藩政の中期ごろ家臣の高倉胤明がまとめた『水府地理温故録』によって見ていきます。
大掾氏、江戸氏在城までは、本城曲輪のみで、大手門は南・東の柵町方面の浄光寺郭口から入るように建っていました。はじめは、家康も家光も水戸城に石垣を築く予定があったようですが実現しませんでした。頼房が水戸へ入ったのは元和5年(1619)です。頼房17歳の年です。
水戸城の整備が始まります。大手橋をかけ替え、本丸から屋形を二の丸に移しました。そこには、昔は三階物見といい、今は三階やぐらいう小規模な城郭が建てられました。この建立には、藩から大工が姫路城に派遣されてそのノウハウを学ばせていました。規模は播州姫路の殿守の四分の一の積りだったそうです。二の丸より本城へ移る処に橋が有り、その向こう本城側に付けた門を橋詰御門といいいました。
慶安4年(1651)に千波湖畔に柳堤を築造しましたが、それには梅香の土ら武熊古城の土が使われました。

3 尊 王
水戸藩の尊王は二代藩主光圀からとされるのが一般的ですが、頼房は元和9年(1623)と寛永3年(1626)に将軍秀忠・家光とともに、寛永11年(1634)には将軍家光に随従して上洛しています。寛永3年(24歳)の上洛の際には、後水尾天皇に陪宴して「幾千代をかさねても猶呉竹の かはらぬ風を誰かたのまむ」と自らが皇室の永遠を担うとの気構えを詠み、それは第一等に賞されました。寛永5年からは城下北側を流れる那珂川の初鮭を朝廷に献上しました。それは、以降水戸家の家例となります。尊王心は頼房の時から持たれていたのです。

4 頼房と光圀父子の愛
(1)鍛錬 頼房は、後継者の光圀を鍛えます。寛永11年(1634)、小石川の屋敷内桜の馬場にて永野九十郎が手打ちとなりますが、その夜、光圀を試すために「その首取り来たるべし」と命じます。光圀はその刑場に至り、見事に首を取り来たりました。この刑場は大樹蒙鬱、況んや闇夜で四方不明です。また、力も首の重さに堪えがたく、髪を引きずって来たのです。その勇気に父頼房は喜んで褒美に短刀を授けました。光圀時に7歳でした。
寛永16年 父頼房は、光圀に浅草川で水練を試されました。光圀は往返数行に及びます。頼房は大いに感賞し、褒美に宗近の短刀を与えました。光圀時に12歳でした。

(2)頼房の遺言「殉死の禁」 寛文元年(1661)6月朔、頼房は癰を患います。藩はもちろん幕府や有力藩からも医師が駆け付けますが、治療の効果は無く、覚悟を決めた頼房は光圀に遺言します。「戦国の風である殉死を禁ぜよ」と。光圀も感じて家来に説きますが、容易に理解されず、その覚悟の家臣が多くおりました。
光圀は大いに怒り、父の思い、厳命を徹底させます。「殉死をして名を求める者は子々孫々に至るまで義絶する」と。家臣たちは、各々頭を垂れ涙を流して両公の命に従いました。この殉死の禁止は、その後まもなく幕府からも命ぜられました。

5 頼房の評価と逸話(「水戸紀年」より)
① 公、資性剛毅にして勇武人に過ぎたまう、好んで士を愛し、事に臨んで不撓、勢いを見て不屈、古良将の風あり。
②下町に宝鏡院あり、大水あり、士人城に入るに院中を過ぎ下駄をつけて仏殿に上がる、寺僧その 無礼を訴える、頼房曰く、平常の日にあらず、危難を恐れず懸命に城中へと試みる士人ら、いざ      となれば命を懸けて我に代わろうとする面々である、僧もまたこれらの志を嘉すべきものをと怒り、追放す。
③ 幼とき台徳公秀忠に陪侍す、台徳公仰せに「誰ぞの婿になしたきと。御台所(おごう)これを聴きたまい、あのいたづらもの、誰が婿になすべきやと。公頼房これを心中に含みたまい一生御室   なかりしと也(頼房に正室はおりません)」
④ 公、極めて倹なり、民を貪らず、風俗を乱さず、義理を正して威強し、幼より今に至るまで改めず、寵妾の親族に職禄を与えず。

6 戸藩家臣団の構成
家 康は頼房のために優れた家臣たちを付けています。
家康付;岡崎平兵衛綱住、武田氏の旧臣:芦沢伊賀守信重、望月五郎左衞門恒隆、市川三左衛門、武田耕雲斎の祖先、伊藤玄播、朝比奈孫左衛門(旧今川氏)、後北条氏家臣(武州八王子衆):中山備前守信吉(武州中山出身)、徳川一門の改易によりその家臣ら:額田久兵衛昭通(徳川忠輝家臣、額田城主)、その他:山野辺右衛門大夫義忠(最上義光の第4子)、宇都宮弥三郞国綱・高綱父子

徳川家康は没収した佐竹領の常陸、徳川家への反感渦巻くこの地を江戸を護る重要な後背地として、藩主が幼いうちは天領のように位置づけした。
家康は信頼の置ける伏見衆・駿府衆など譜代の家臣たちを頼房に付けた。譜代の家臣たちは水戸藩創設の自負心を持つと同時に藩運営への責任感が旺盛であった。

 

 

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令和5年 秋期講演会のお知らせ(終了しました!)

2023-08-07 19:05:22 | 日記

「文化遺産」シリーズ

  9月17日(日)「河内の駅家の謎を解く」 樫村弘明氏
10月  1日(日)「明治天皇と文豪たち」  仲田昭一氏
10月15日(日)「岡倉天心と近代日本画」 齋藤郁子氏
11月  5日(日)「旅して学ぶ琉球・壱岐・対馬の歴史」 谷口邦彦氏

会 場 那珂市ふれあいセンターごだい(茨城県那珂市)
時 間 10:00 ~ 11:30
参加費 各回300円(資料代等)
定 員 100名(申込み不要 ; 当日先着順)

問い合わせ先 📞090-8038-2087(事務局)

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