水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

「門閥派結城寅寿の最期」

2021-07-20 09:42:07 | 日記

当会では、渋沢栄一の人生の根幹は水戸にあるという立場に立っています。
そこで、渋沢栄一が影響を受けた幕末の水戸藩の動きに焦点を絞って辿ってみることにしました。
第1回目は、門閥派・改革派、あるいは天狗派・諸生派と激しい対立抗争を繰り広げた背景を、門閥派の中心人物結城寅寿に焦点を当てて、門閥派誕生の背景に迫りました。

結城家の始まり
結城家の遠祖は藤原秀郷の末葉で下総結城七郎朝光の後胤です。朝廣の二男左衛門尉祐廣の時に奥州白河へ移り白河結城氏のはじめとなります。
その中の結城宗広は、南北朝時代に後醍醐天皇に忠誠を尽くした尊王家として知られています。
水戸結城氏
水戸義公光圀は、『大日本史』編纂事業で白河を調査、古来からの名家であることを確認し、天和3年(1683)5月27日、晴定を水戸家へ迎えました。
これ以来、結城家は執政や大番頭・書院番頭などの要職を務めていきます。

水戸藩譜代の重臣結城寅寿 

結城寅寿は文政元年(1818)に誕生しました。この時の主な水戸藩士に、藤田東湖(13歳)、武田耕雲斎(16歳)、戸田忠敞(16歳)がいます。
やがて、文政13年・天保元年(1830)に第9代藩主烈公斉昭が襲封します。
寅寿は大変優秀で、藩政を担う能力に長けていました。
烈公も信頼して重要視し、小姓頭・家老を務める譜代の重臣の結城寅寿と新興勢力で改革派・側用人の藤田東湖は
両輪の輪のような存在となり、藩主の天保の改革を推進して行きました。

しかし、寅寿は次第に改革の一部に反対を示し、反藩主の立場に立って同僚の一部を集団化していきました。
水戸藩の社寺改革は、寺院勢力を引き込み、幕府へも取り入るなどの行き過ぎがありました。
そのため、弘化元年(1844)には、幕府は烈公を隠居謹慎、藤田東湖や戸田忠敞らは蟄居処分を受けるという、
水戸藩にとっては大きな打撃となりました。いわゆる「弘化甲辰の国難」です。  

その後しばらくは、水戸藩内では結城派が勢力を張っていましたが、まもなく対外関係が難しくなってきて、
幕府も斉昭や東湖の力を必要として両者を復権させます。

これによって、次第に改革派が優勢となり、弘化4年(1847) には、 結城寅寿は隠居を命じられることとなりました。
その後、嘉永6年(1853)、結城寅寿や仲間の谷田部雲八・尾羽平蔵らが謀って藩主慶篤に改革派の弾圧を密告使用とした計画が発覚し、藩内では、「結城等を死罪に処すべし」との論がさかんになりましたが、寅寿を理解する藤田東湖がこれを非としたため、寅寿は水戸徳川家の姻戚に当たる松平将監へお預けとなり、将監の屋敷のある長倉に幽閉せられました。
ところが、安政2年(1855)10月2日に江戸大地震が起こり、不幸にも東湖(50歳)・戸田(53歳)が震死してしまいます。
また、翌年には結城派の医師十河祐元が藩主への毒盛り疑惑により斬死に処せられます。
そして4月25日、目付伊藤弥兵衛と久木直次郎が検死役として長倉へ赴き、結城寅寿は詮議も無いままに死罪に
処せられました。                                                    結 城 寅 寿

その後、結城党派は悉く処罰され、谷田部や十河等親族が処刑となり、一時結城派は殆ど全滅の姿となり、大変な恨みが残りました。
幕末の悲惨な惨殺事件は、このあたりに原因があったともいわれます。

この事件について『水戸史談』では、次のような評価が記されています。
 『結城寅寿は才気学問はもとより人に優れ、政治上の手腕もたしかに立ち超えている。そうした感情にモロイ性にてあるから、部下を愛することも深かったらしい。その故、結城党の人々は皆敬服していて、団結力が甚だ堅く、終始 一致の方向を執っていた。この人、もし戸田・藤田と肝胆相照らして老公を輔佐したならば、天晴れなる仕事が出来て、水戸は王政維新の功勲第一となったろう。惜しいかな、戸田・藤田を排斥しようとして、余りに腕が利き、老公迄を陥れまいらせるに到って、遂に自分も非命の死を遂げるに到った。』

コメント
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