水戸電気鉄道は、陸前浜街道に並行して、水戸と石岡の都市間を結ぶ鉄道が想定されていました。
〈名称〉 昭和2年3月13日「水戸石岡電気鉄道」として会社を設立しました。同年4月16日に社名変更許可を経て「水石鉄道」と改められ、更に同年8月1日「水戸電気鉄道」となりました。
〈期待〉 国有鉄道常磐線は、新治郡石岡と水戸の間で陸前浜街道とは全く違った経路を辿っていたため、水戸電気鉄道の開通は陸前浜街道沿道の住民にとって、交通の不便を解消してくれる手段として期待された存在でした。
〈ガソリン動力車〉 監督官庁の鉄道省から、柿岡にある磁気観測所に支障があるという理由から電気動力の認可が下りず、ガソリンが動力として使われました。 電気動力による列車運転は、運転速度の向上、加速原則の容易さ、日常的な運転経費の低廉などのメリットがある反面、運転開始に至るまでの間に施設・設備に多くの資金を投入しなければならないというデメリットがありました。
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沿線は、昔のままの農村風景と季節ごとに色とりどり変化を見せる山林で、とりわけ、古宿駅から蓮乗寺下駅を経て、下水戸駅までの風景は、非常に素晴らしかった。 野木神社下から中澤池に至る、木立のそろった杉林は一日の中でも、行きと帰りとでは、その色彩が異なって美しく見え、今で言えば、さながら詩情的日本画家東山魁夷画伯の絵を見る感があった。特に雪の降る冬景色は、京都嵐山の一部を移したような眺めを呈していたことが今でも目に浮かぶ。 古宿駅も、蓮乗寺駅も、土盛りして、木枠を付けた原始的なプラットフォームであったと記憶している。 「古宿村風土」綿引一夫より
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〈水戸と石岡を結ぶ〉 常磐線は水戸-石岡35.3kmに比べ、陸前浜街道を通る予定線路は28.2kmとかなり短く、さらに運転速度の速い電車を利用すれば、蒸気列車を使用する常磐線と比べて、大幅な所要時間の削減を見込むことが出来ました。 しかし、陸前浜街道の水戸-石岡には、これといった集落もなく、途中区間での乗客は見込めませんでした。
〈不便な連絡〉 起点となる下水戸は、下市の市街から離れていて、国有鉄道水戸停車場との連絡に徒歩で20分以上要し、水浜電車の本3丁目停留場から電車利用で水戸駅に達する方法もありましたが、それでも約500メートルは歩かなければならなかったため、下水戸-柵町間1.0キロの線路延長をしました。 常陸長岡では、街村状集落の発端にかろうじて取り付けただけであり、長岡村役場とは1キロ近く離れた場所にありました。
〈ライバルの出現〉同時期に乗合自動車が運行するようになりました。 対抗策として、手軽に乗れるようにと駅の増設をしました。
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朝の電車内は、奥ノ谷、小鶴、吉沢方面からの通勤通学の常連で、ほぼ座席は埋まり、つり革を手にした人々が立っていた。
・・・昼間は、乗る人も少なく、2~3人どころか空席状態の運航も見受けられた。昼間でもお客の乗車が良好な日は、春の水戸東照宮の祭礼、秋の吉田神社例大祭、毎月旧暦23日の水戸市谷中、桂岸寺の二十三夜尊縁日、夏の海水浴(水浜電車乗換え)ぐらいのものであった。
「古宿村風土記」綿引一夫より
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〈かさむ経費〉 昭和5年度には旅客のみでなく貨物の輸送も始め、11,586円の営業収益を上げています。そのうち、7,630円が客車収入でした。これに対して、営業費は23,430円でしたから、11,844円の赤字となりました。 赤字の大きな理由は、汽車費が10,958円にもなってしまたことでした。これとは別に、408,120円の建設費が計上されましたが、政府の補助金もなく、前途の見通しは暗いものでした。 乗合自動車対策としての駅の増設、さらに、この鉄道の計画には低湿地が多くあるため、土工費用に多額の費用がかかることになります。 それでも、昭和9年まで線路延長工事は続けられましたが、資金も底をつき、昭和11年2月末ころ運輸営業の休止を届けあと、昭和12年7月6日付で常陽運輸と名称が改まりましたが、再起のめどは立たなく、昭和13年11月29日営業廃止許可が下り、翌月2日付で官報に公告されました。
経営が苦しくなった最後のころは、とにかく石岡まで伸ばす、いや水戸駅までの乗り入れが先だと、いずれにするかでもめていたが、結局実現することはありませんでした。
沿道の資産家や有力者で株主になった人は多く、この鉄道と共倒れになった人も相当いたと言われています。
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株主へは、レールの枕木が配布され、わが家では、薪として、しばらくの間燃え続けたのであった。
「古宿村風土記」綿引一夫より
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↑[写真は、蓮常寺下駅⇔古宿駅 線路跡のコンクリート塊]
資料:「古宿村風土記 上」綿引一夫著 平成22年11月6日発行、「茨城の民営鉄道史 下」中川浩一著 古里文庫1981年3月15日発行、常陽芸文1986年6月通巻37号
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