12月19日(日)の講座では、水戸藩の歴代藩主が「愛民専一」「君は民の父母なり」「民は国の元なり」の心で領民に対していたことが明らかにされました。
その心が、特に農民への感謝の思いが、烈公斉昭によって「農人形」として形に表されたことは画期的でありました。世界に類のない発想です。烈公の柔軟な発想力に驚きます。
烈公は、食事をする前には必ず農人形にご飯を供えてから食する習慣を、烈公自らはもちろん子女たちにも実行させたのでした。その農人形を烈公の子女たちの嫁ぎ先へ、あるいは養子先へとそれぞれ持たせて、この美風を他藩へも伝えていたのです。その代表的な例は、松姫明子が嫁いだ南部藩です。しかもその家臣から伝え聞いた新渡戸稲造が、自ら模型品を造り、国連事務次長となっては諸会議の土産物として世界に弘めていた事実には驚嘆しました。
明治時代に、水戸高等女学校では「農人形祭」も行われていたのですね。
私たちは、改めて食事のできることへの感謝の念を一段と高め、日本の農業の将来にも思いを馳せるなど貴重な講座となりました。
水戸烈公と農人形
主な内容を挙げておきます。
烈公斉昭のこころ
○ 領民に対して
ちちに思ふひとつ報も有らぬ哉三十年民に恵まれし身の
朝な夕な飯食ごとにわすれじな めぐまぬたみにめぐまるる身は
○ 恐ろしい飢饉への戒め
自ら筆して領内に配布した。「専ら稼穡(かしょく)(農耕)に力め、飢饉を忘るる勿れ」
○ 烈公の第十八子鑾山(らんざん)昭武の母万里小路睦子(ちかこ)」(秋庭夫人)は、この美風を後世に伝えねばならないと「農人形の記」を残しています。
模型農人形の主なものを記します。
- 昭武公(鑾山)の陶製のもの
- 『田園都市』(内務省地方局有志編纂、第十三章「烈公の農人形」明治四十二年十二月発行)に紹介されたいわゆる素焼きのもの
- 常陸太田の代々鋳物業者小泉源三郎が、明治四十一年(一九〇八)十一月二十日に昭武から許可を得て、原型に則り青銅にて鋳造したもの
- 大正初め水戸公園梅細工元祖佐久間丑太郎の梅細工
- 昭和八年四月二十三日除幕式の県庁前の農人形
- 南部藩新渡戸稲造が制作したもの
- 弘道館内の富岡桂山作の大型農人形
- そのほか、現在も「水戸彫」とも俗称されている湖舟堂氏ら四人、また宇野広一氏の後継者も続けて制作にあたっています。
水戸の土産物として「水戸の梅」・「吉原殿中」・「水戸の納豆」など食料品が名高く、工夫改良もされているが、「農人形」なども「報恩の念」の薄れた今日の土産品としては大いに価値のあるものと思えます。
水戸郊外に「農人形最中」が販売されていることもうれしいことです。