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多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

あらためて美の多様性を感じた国展2025

2025年05月17日 | 美術展など

毎年連休の時期に、六本木の国立新美術館で開催される国画会国展をみるようになって、もう15年ほどになる。公募展なので展示作品の数が多い。部門も絵画、彫刻、工芸、版画、写真と5部門もある。はじめのころは物量に圧倒され、観るにも疲れたが、だんだん周るための自分のペースがわかってきた。企画展のように、1点1点じっくり見たり、展示の流れをつかもうとするという見方はできない。
自分が好きな作品を素早く発見し、それを中心に点と線のような巡り方をしている。また何年も通っていると、なじみの作風の作家もできてくる。その方の作品をみると、なつかしい気がする。いまはトークイン見学も含め、2回に分けて合計6時間くらいで回っているが、そのうち、また見方も変わるかもしれない。
絵画
この1年、ウクライナやガザの戦闘がまだ続き、とくにガザはイスラエルによる一方的な民間人殺戮でジェノサイド状態だ。絵画部は時代の影響がもっとも出やすい部門なのでそうしたテーマの作品がないか探したが、直接的な表現の作品は見当たらなかった。しかしよくみると気づく作品がいくつかあった。

増田直人「人が言う地獄の先に赤ずきんちゃんは春を見る」
たとえば増田直人「人が言う地獄の先に赤ずきんちゃんは春を見る」は一見アニメ調の3人の少女と多数のクマのぬいぐるみなので、よくある絵に見えた。
しかしよく見ると、木にぶら下がるクマはたいてい首と胴が切断されていて血が流れている。手前の地面にころがるクマは頭に棒が突き刺さっていて額に血が流れている。少女の服や腕、足にも血が流れている。池の周りの花の色は炎のようだ。戦火かもしれない。なぜか池の後ろには富士が見え空には赤い龍がとぐろを巻いている。地獄なのかもしれない。あるいは日本とのつながりを示唆しているのかもしれない。本当に少女たちには「春」が見えているのだろうか?
半田強「逃れ行く者に幸あれ」は、5人の男女、子どもと牛、鳥、フクロウ、ウサギ、蛙がサイの背に乗り、犬とサルとともに逃げている。祈る人もいればうつろな表情の人もおり、ピエロは涙を流している。

肥沼守「メタモルフォシスの午後」
クマのぬいぐるみやサイ、牛などが出てきたが、今年は「異形のもの」たとえば龍、魚、鳥、妖怪、魔物などが登場する作品を多くみかけた。なぜかはわからない。結果として、寓話や童話のイメージがする。
肥沼守「メタモルフォシスの午後」は、龍、タコ、蛇、大阪関西万博のミャクミャクのような不気味な生物が自然のなかで動き回る。しかも絵画に限らず、彫刻や版画でも・・・。
菅恵子「喰う」は、妖怪のようにみえる老人が魚に食らいつく光景だ。宮本偉敏「種の存続を問う」は、ネクタイとスーツ姿のカマキリ紳士の絵で細胞や二重らせんのDNAがみえる。
稲垣考二「痛っ」は、巨大な女性の首、右のこめかみに赤い光線または棒が突き刺さっており、鼻下と目の下には涙か鼻水か分泌物がついている。首そのものも下のほうはロープでしっかり結わいつけられ、炎で熱せられた熱気球のようにみえる。「痛っ」という瞬間を捉えたものなのか。おそらく絵画部で最大のサイズ(タテ3.6m×ヨコ3mくらい)で、迫力があった。

こうやって説明のため文字で書くとそれぞれ絵の背後に「物語」があるように思える。物語があるのかないのか、それはわたしにはわからない。しかし大原壽彦「物語」はタイトルどおり「物語」を描いていた。黒のワンピースに赤いカーディガン姿の女性が絵本を開いている。そのページには3つの尖塔をもつ洋館の緑の庭に、木のように巨大な葉っぱが7-8枚直立し、餌を入れたバスケットを地面に下し、まさに鹿と遊ぼうとしているのは、読者である少女自身だ。山門みつき「お稽古中のこどもたち」(国画賞、新準会員)も各自衣装や仮面をつけた10人ほどのこどもと羊、犬、猫、ペリカンなどの動物がアニメ風に描かれた作品だが、こどもたちの間で物語りが演じられているはずだ。

恩田久雄「come come chu chu」
恩田久雄「come come chu chu」は真ん中に和服姿で扇子を手に落語家のように正座する招き猫、左奥に緑で赤目の龍がいる。龍は両手の黒いツメで2つの地球儀をつかみ、ネコはスペードのキングのトランプカードを持っている。バックには超高層のタワーオフィスが立ち並び、火炎混じりの煙のなかを4匹の白ネズミが舞っている。バズーカを持つネズミも混じる。トランプ政権の風刺なのかもしれない。

高橋英夫「ばあちゃんがいた居酒屋
なおわたしが最も好きな作品は、高橋英夫「ばあちゃんがいた居酒屋」だった。客は男女ほぼ同数の7人ずつくらい。店内はコの字型のカウンターのみ。つまみは短冊に貼りだされている。流しのギター弾きがちょうど暖簾を開けて入ろうとしているようだ。スタッフはばあちゃんを入れて3人、たぶんこの店はいい店のように思える。実在するなら訪れたい候補店のひとつだ。
その他、鳥井公子「析出」、薄青い気体のなかにヌードの男性3人、女性2人が正面を向き直立している。前田昌彦「いざない 25-検」も静謐さがちょっと似ている。CTスキャン装置に人間が入っていく光景で、ふつうこの検査はヌードではなくガウンをまとっているはずだが。気分としては、人体を断層撮影するのだからヌードの気分といってもおかしくない。
なお椎名久夫「刻の歩み」、上條喜美子「記憶の森」、坂谷和夫「絵馬’25(馬-1)は例年と同じ画風で、なぜかほっと安心して観ることができる。ただ椎名の今年の絵は、クラスの集合写真ではなく、ある一家の結婚から始まり、子どもの誕生と成長、孫の誕生と家族の集合記念写真を、時間の推移とともに表現したものだった。これはこれで面白い着眼だ。

彫刻
絵画でもみられたが、異形のものの流行、たとえば林宏「ものがたりについて」は、ウサギ、ワニ、オウムのような鳥が丸テーブルを囲んで座り、それぞれ手遊びをしている。河原圭佑「白象」は鼻をカーブさせた白象の頭部のみの作品だ。藤田秀樹「記憶と残像――潜むもの」は真ん中に一頭のピーターラビットのようなウサギが背の高い草原に堂々と座っていて、孤独とか孤軍という言葉が自然に思い浮かんだ。

永井守「あなたは」
面白いと思ったのは、永井守「あなたは」。缶ビール・缶チューハイの缶をつぶし2m以上ある大きな体をつくり、缶を細く切って髪の毛にし、台座はc.c.レモンの黄色い缶をつぶして敷き詰めてある。サントリー生ビール、サッポロ黒ラベル、アサヒ・スーパードライ、キリン・のどごし生、サントリー・タコハイなどよく知った文字(商品名)がみえている、会場のなかでもひときわ髙い。そして商品名なので目立つデザイン文字がアクセントになっている。もうひとつ入口近くに背の高い作品があった。タイトルからして永林香穂避雷針」である。1.5mくらいの台の上にシルバーの少女が立っている。一見金属かと思ったが、素材は発泡スチロールとあったので、発泡に着色したもののようだ。見上げる高さなので、「希望」が湧いてくる。
その近くにあった船山菊野「春風のFa」も少女が春風に向かい手を広げ吸い込んでいるようで希望のある人生を感じた。猪瀬昌延「立つ(夏)」も太陽を仰ぎ見て、バレーボールのパスのように両手を掲げる裸婦だった。
神山豊さんは、やはり動かせるからくり魚で、ことしはsailfish(カジキ)で背びれが順々に伸びるしくみになっていた。

工芸

運天裕子 首里花織帯地「はるのかだんで」
工芸では毎年子どもの浴衣や着物を出品されていた熊谷もえぎさん(染)が昨年亡くなられ、遺作2点が展示されていた(享年80)昨年の柚木沙弥郎さんといい、人が亡くなるのはさびしいことである。
好きな作品を列挙する。
織では、運天裕子 首里花織帯地「はるのかだんで」。わたしは亡くなられた宮平初子さんの作品を2010年の国展でみて以来、首里花織の作品に自然に引き寄せられる。
小島秀子「Anicca」には、色も模様も繊細かつとてもていねいに織り込まれている。
染では、岡本隆志「飾り布2025」の深緑と濃緑の踊るような角形白柳まどか「コンポジション」の朱と緑の角パターンのコントラストが鮮やかだった。また白地に濃グレーの長方形縞の高安朱磨子(織)「縞の幾何模」もパターンに涼しさを感じられた。
例年通りの自分の趣味ということでは2つとも織の着物だが、浅倉広美 着物「木霊」、笠原博司「藍染経絣熨斗目」の品の高さが好きだ。
陶芸では、早川嘉「茜織色彩花器」の茜色の赤は感動ものだった。布川穣「布目蓮文壺」は昨年の作品同様になぜか心惹かれた。
谷進一郎「栃楕円厨子」は、木製ラグビーボールの形状だが、横に置かれた写真によれば蓋が左右に開く不思議な作品だ。ガラスでは太田潤「栓付切通し文鶴首瓶」の形と紺の模様が印象に残った。
原清「欅石目朱線文重箱」は木目が非常にきれいだった。
夕川泰之松永慎一郎椅子は、見るからに座り心地がよさそうに感じた。
木村哲也「絶景かな、絶景かな」
版画でも、愉快な作品をみつけた。木村哲也絶景かな、絶景かな」だ。画面中央には大きな龍が海の上を悠然と飛び、龍の背に猫が琵琶を弾きながら座り観光している。海にはめでたいことに宝船がみえる。手前には城と松の木があり、日の丸の扇子を広げるが背中向きだが「絶景かな、絶景かな」と声を上げているようだ。龍の向こうには、なぜか富士がみえる。
柴田吉郎「冬の旅(新野)」は、山のなかの村の祭りの一コマを描く。いつものような作風で、懐かしさを感じた。
写真は、今年もやはり作品は撮れないが、相澤實高波壮太郎氏 洋画家」は画家の個性が出ていてよかった。
女流作家展「いろ いろいろ」は女性写真家20人の作品を集めた特集展だが、写真においては男女の性差は感じなかった。しいていえば今回、一般の作品ではモノクロ、とくに黒い作品が多かったのに対し、特集展は「色」のあるものが目立った(作家がタイトルに沿って作品を制作しただけかもしれない)。品川礼子のアジサイの赤紫と青紫の色の対比櫻井百合子赤いチューリップ福井三恵子赤い花などである。

版画の奥秋広美さん「果てしなき世界」。右手にもつのは下書き。
今年も、作者が語るトークインに参加することができた。そして作者本人から、つくる喜び、つくる大変さを直接聞くことができた。お話をお聞きしたのは、下記5人の方だった。
・版画 奥秋広美
・工芸 陶器 萩原芳典
・絵画 麻田征弥
・彫刻 渡辺治美
・写真 長谷川 清
たとえば、版画はほぼ修正がきかない。木版で、カーブした線を彫るのはむずかしい。たしかにそうだろうと思うが、北海道の奥秋さんは鳥の羽のふわっとした感じを出すのに必要だった。それでかなり練習したそうだ。下絵を何十枚も描くので半年くらいかかることもあった。苦労して完成した下書きは、やはり下書きなので、本番で少し変更することもある。この作品では、首の角度を少し変えたそうだ。変更の下絵をその部分だけ新たにつくり、上から貼ったそうだ。
彫ることは好きだが、木版プレスの力のかけ具合が難しく、とくに奥秋さんの場合、細い線が多いこともあり原版がつぶれて、版画とはいうものの2-3枚、場合によっては1枚しか刷れないこともあるそうだ。
萩原さんは益子焼の窯元の5代目。家元のような方かとおもったが、本人は窯焼き職人になりたかったとのこと 灯油、ガス、電気窯など小さいものは冷蔵庫サイズから大きい登り窯まで、いろんな窯が12基もあるそうだ。ひとつの作品をいくつもの窯で焼きを加え、いろんな釉薬を使い、焼いてみる。だめならもう一度焼き直すこともできるそうだ。つねに「未完」のようで楽しめるようだった。

絵画の麻田征弥さん

麻田さんは、人物画中心だが、なぜ人物を描くのか、人物を通して何を表現したいのかという本質的な話をされた。答えは「人は不思議なもの」が結論のようだった。人の内面を描く、色彩に感情を込めて制作するといった話をされた。なお左の絵のモデルはお嬢さんだそうだ。
写真の長谷川さんは、最近フィルムからデジタルカメラに切り替えたそうだが、どういう点が違うかとの質問に、フィルムは慎重に撮るが、デジタルは何百枚も撮り偶然性の要素が大きいとの答えだった。撮った写真を比較するのに時間がかかり、いいものをいくつか選び、一部を重ね合わせて作品にするとのことだった。
一番興味を引いたのは、彫刻の渡辺さんだった。大理石を素材にする彫刻は音も出るし、ほこりも出るので郊外でないとつくりにくいということで、所沢に転居したそうだ。木、茶畑、鳥、動物など自然を感じる環境に住み、まず大根など野菜作りを始めたそうだ。
そして植物が育つエネルギーを感じ、そこから今回の作品「Root」を発想した。
まず石を割り、中心を決めて彫る、エネルギーがあふれ出る生き物にしたいと考え制作したそうだ。
見る側はふだんは完成作を「見」て、印象を受けたり想像を膨らませるだけだが、作者の「思い」や制作プロセスをお聞きして、はじめて制作の苦労と楽しみ、追求する思いと情熱がわかった。
ただ、ツアーグループが同時刻にいくつも動いているせいもあり、どうしても時間に追われ、「移動」自体に力点が置かれるのが少し残念だった。引率するのは会員の作家の方々で、そんな行動には慣れておられないので、本当に一苦労だということがわかる
たとえば、5部門全部は回らず、希望する2部門を説明開始時刻を決め、あらかじめ抽選でもして人数を絞り、じっくりお話を聞き、質疑応答するようなことも併用できると、さらによいと思った。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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