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新藤宗幸教授の道州制批判

2009年04月24日 | 集会報告
4月16日夜、劇団展望で開催された阿佐ヶ谷市民講座で新藤宗幸・千葉大学教授の「道州制とは何か」という講演を聞いた。

3月25日の根津さん河原井さんらの都庁前アンサンブル・パート2のときに道州制反対をアピールされている方がいた。公務員を首切り、リストラし「国家丸ごと民営化」するものだという主張だった。わたくしは道州制というと地方分権、行政の効率化くらいの知識しかなく、たしかに公務員減らしの手段という視点はありうると思った。そこでもう少し詳しい話を聞こうとこの日の講演会に参加した。
なお、わたくしは地方自治制度の基礎知識がまったくないので、わたくしの誤解や聞き違いが含まれている可能性があることをはじめにお断りしておく。

●繰り返される「道州制」構想
道州制論議は、経済社会の転換点に「お化け」のように必ず現れた。
まず戦時中、総力戦体制を効率的につくるため構想された。この時代は地方団体が法人格をもち、知事は統括する代表者とはいっても、一方では内務省の高級官僚である官選知事で、霞が関の地方機関に過ぎなかった。このとき唯一実現したのが1943年7月の東京都の誕生だ。それまで東京府のなかに東京市と三多摩があったが、実質的に市が府を吸収した。ただ東京市に35区あった区会はそのままで、廃止されなかった。
戦後47年4月地方自治法が公布され、知事は官選から直接公選になった。しかし内務省の根強い抵抗で、同時に機関委任事務制度が制定された。公選知事は市民の政治的代表なので、法論理上、国の仕事を知事に命じて執行させることはできない。国と地方政府で仕事を分担する方法もあったが、それではあらゆる権限を霞が関に集中することができない。機関委任事務制度とは、個別の仕事ごとに法律により地方公共団体を主務大臣の地方機関として位置づけ、仕事を執行させる処理制度である。たとえばこの方法で1999年までパスポートの交付を都の職員にさせていた。
1957年第4次地方制度調査会で、地方制が検討された。きっかけは「」だった。この時代は高度成長スタートの時期で、湾岸コンビナートや工業開発のための工業用水取水が、とくに中部地方や関西で問題となった。県の区域は変わらないので機関委任制度では県の間の水利権調整がうまくいかない。調査会では地方制か広域合併かを議論したが、結論を一本化することはできなかった。結局、64年に河川法が全面改正され、河川管理は建設大臣が所管することになり、ごく一部が機関委任事務として知事に渡された。財界とは異なり霞が関にとっては、集権化によりこの時期の課題を解決したわけである。
80~90年代にかけ、東京一極集中が問題になった。重厚長大から軽薄短小への経済構造の変化をともなう経済中枢の東京への集中である。地方分権しなければ地方は疲弊するという主張、さらに重厚長大の時代に生まれた公共事業予算の箇所付けなどが政治腐敗の温床になっており、改革するには連邦制や道州制が必要だという主張だった。
長野士郎・元岡山県知事や恒松制治・元島根県知事は連邦制構想を打ち出し、細川護煕や小沢一郎は「廃県置藩」を唱えた。廃県置藩とは県を廃止し300程度の力のある基礎自治体を置こうというものである。しかしどうやって市町村を300に減らすのか、受け皿をつくるのにはるかに時間がかかるし、まして連邦制はどうやってつくるのかと、92,93年ごろいったん棚上げされた。
その後1995年に地方分権推進委員会が設置され2000年4月機関委任事務制度は廃止になった。
このように道州制はお化けのように何度も現れ、そして消えていった

●道州制は「究極の地方分権」なのか
21世紀に入りふたたび道州制が論じられるようになった。背景は2つある。ひとつは国と自治体の800兆円ともいわれる巨額の累積債務に対する、新自由主義的な経済財政政策である。骨太の方針にみられるよう「小さな政府」にすれば日本の再生につながるという発想だ。もうひとつは軍事力を機動的に発揮できる「普通の国」にするには、中央政府が学校給食の中身にまで口をはさむのはいかがなものかという新国家主義の発想である。
現在、政府の道州制ビジョン懇談会や自民党の道州制推進本部で道州制が盛り上がっている。しかし具体的プログラムは何も明示されなていない。たしかに都道府県を廃止することは国会でできる。しかし、州都をどの都市に置くかという問題はさておいても、手続き規定をどうするのか、道州の知事は直接選挙で選ぶのか、議会はつくるのか、その場合議員も直接選挙で選ぶのか、すべての道州で同じか、あるいはそれぞれの道州の選択に任せるのか。また税制はどうするのか、消費税は国と中央政府で半々にするのか、いまと同じ1/5なのか、法人事業税はどうするのか。地方交付税をはじめとする財政調整制度はどうするのか、なくすのかなくさないのか。基礎自治体(市町村)と道州の関係はどうするのか、など中身はまったく明らかにされない。明らかになったのは13程度の道州をつくることと県を廃止するということだけだ。
道州制論者は、フランスやイタリアが道州制を導入しているというが、じつは県を廃止したわけではない。県をカバーする広域自治体を付け加えたもので、基礎自治体を含め、いまも三層構造になっている。
また都道府県より道州制のほうが効率的だというが、なぜ効率的になるか説明していない。県をなくせば北海道のように支庁をつくることになると予想される。支庁長は道の部長クラスの官僚なので住民から要求を受けたとき「本庁にお伝えします」としか返答できない。これでは多様化した住民の要求には応えられない。東京23区の区長が選任制から70年代に準公選、公選へと推移したことをみれば明らかだ。支庁などつくれば住民から批判が出るだろう。

●「一国多制度」論と地方分権改革
一国多制度は、大田昌秀沖縄県知事の時代に自由貿易地域の拡大、国際的航空運賃の決定権などで注目された。スコットランドは国法に準ずる法を制定することができる。日本の現状は霞が関永田町だけが国法をつくり、その範囲内でしか条例をつくることを許さない体制だが、この国ももっと多様になってよいのではないか
では一国多制度と道州制はどこが違うのか。地方分権改革は道州や市町村など団体の権限を強化することが目的になっている。しかし本来の目的はそうではないだろう。主人公である市民が政治の実権を把握し、意思決定を自分の手に取り戻すことのはずだ。団体の権限強化はその手段にすぎない。ここが道州制との違いだ。一国多制度は、とくに北海道、沖縄で意味をもつ。
また地方分権のためには何段階もある多層であるほうがよいと考える。サッチャーは府県やグレーターロンドンをぶっ壊した。なんのためにやったかというと中央統制を強化するためだ。カネの問題だけではなく、中央政府の意向を浸透させるうえで中間的な地方団体がじゃまだったのだ。県がやっていた水道やバス事業は民営化した。しかしその後ブレアがグレーターロンドンを復活した。
一層制にしたほうが実際には中央支配が強まる。4段階でよいのではないだろうか。市よりさらに小さい中学校区くらいの近隣政府(neighborhood government)があってよい。そのうえに近隣政府の調整をしたりカバーする機関を置くというように、下から補完していく上昇型の政府をつくったほうがよい。これを補完性の原理という。

☆この日配布された資料のなかに日本経団連「道州制の導入に向けた第1次提言(2007年3月28日)、「第2次提言(2008年11月18日)、関西経済同友会「5年以内に『連邦的道州制』へ移行せよ(2006年4月)があった。関西経済同友会の提言には、自衛官・警察官以外の公務員360万人をいったん解雇し、定員を85万人削減したうえで新たに公務員149万人を募集するとか、教育公務員126万人を公設民営化したうえで再雇用する、参議院は直接選挙をやめ、道州知事や関係閣僚が議論する道州代表院に変えるなど、ショッキングな提案が並んでいる。
フロアからの「この提言への反論はないか」との質問に対し、新藤教授の答えは「借金がこれだけあるのに高い給料をもらい定年まで雇用が保障されている公務員を減らせという日本人のルサンチマンのような声が高まれば、公務員削減はどんどん進む。道州制はいつになればできるかわからないが、公務員削減は確実に進むだろう。
道州制導入と公務員削減とは、別の問題と考えたほうがよい」とのことだった。
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