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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

影の側面が抹消された昭和天皇記念館

2009年04月28日 | 博物館など
立川駅北口をペデストリアンデッキへと出ると、伊勢丹、高島屋、モディ、オリオン書房、パレスホテルなど巨大なコンクリートの塊の商業施設が並んでいる。それを抜けると、モノレールの右手には新立川航空機や立飛企業、左手には昭和記念公園や陸上自衛隊立川駐屯地の広大な敷地が広がる。
戦前は陸軍立川飛行場、戦後は米軍立川基地、1977年に返還され83年に昭和天皇在位50年記念の国営昭和記念公園が開園した。昭和天皇のひとつの側面「大元帥」にふさわしい歴史的背景をもつ場所である。総面積は180ha。
天皇の死後2005年11月27日昭和天皇記念館が開館した。記念館といっても独立した建物があるわけではない。昭和記念公園の「花みどり文化センター」の1室である。天皇の墓は高尾にあるが、平べったい「花みどり文化センター」は古墳に見えなくもない。
館内の入り口には「わか国のたちなほり来し年々に あけぼのすぎの木はのびにけり」という87年歌会始で詠んだ和歌の幟が掲げてある。遊就館にも本居宣長の和歌のこんな幟があった。

記念館に入ると、まず年譜と5台のディスプレイに映し出される「87年の生涯」というコーナーがある。
天皇は生まれて2か月あまりで川村純義伯爵に預けられ、3歳のとき川村が亡くなったため沼津の御用邸、半年後皇孫仮御殿(東宮御所に隣接)に移り、家族とともに暮らさないという特異な育てられ方をした。11歳のときに明治天皇が亡くなり皇太子となり、学校教育は13歳で切り上げ「東宮御学問所」で7年間帝王教育を受けた。ということは、公式の学歴は小学校卒ということになる。
20歳のとき大正天皇が病気で事実上引退し「摂政」に就任、東宮御所に転居する。実質的に20歳で天皇になったようなものである。そのためか22歳の若さで結婚(21歳で民間でいう結納を行ったが関東大震災で式は延期になった)、24歳で長女が生まれ父になり、25歳のときに大正天皇が亡くなり天皇に即位した(京都御所での即位の礼は27歳のとき実施された)。27歳までの「人生」は、ドラマの主人公そのものである。もっとも明治天皇は14歳で践祚したのだからそれを上回るが。
その後45年の44歳での敗戦まで、2.26事件の奉勅命令(34歳)、紀元2600年式典(39歳)以外は4人の女子、2人の男子誕生くらいしか記録された項目がない。もともと聞いていたことだが、戦前、統帥権をもっていた軍人の側面はみごとなほど抹消されていた。ただし、1943年1月の代々木での観閲式や1945年3月の東京大空襲直後に被災地を視察する写真は軍服姿である。43年1月というと、神宮外苑での東大・江橋慎四郎の答辞で有名な雨の学徒出陣より少し前の時期である。また開戦の詔書(写し 本物は国立公文書館で保存)には、「裕仁」の署名と10センチ角ほどある「天皇御璽」の巨大な印影が押されていた。
8月9日の御前会議の絵が展示されていた。この絵は終戦の詔勅のときのもので白川一郎が想像で描いたものだが、開戦のときも金屏風の前に昭和天皇が座り、左右にそれぞれ5―6人の閣僚や大臣が座る配置だったのだろう。この図像は、当時の最高責任者がまぎれもなく昭和天皇であったことを指し示している。
もちろん「現人神」としての「神」の側面については、宮中祭祀をはじめまったく言及されていなかった。
旧体制の暗い史実として、2度の暗殺未遂事件が記録されていた。ひとつは摂政時代の1923年12月27日、衆議院議員の24歳の息子に散弾銃で狙撃された虎の門事件(22歳)、もうひとつは32年1月8日32歳の朝鮮人運動家に手榴弾を投げつけられた桜田門事件(30歳)である。犯人は2人とも天皇と同年代の青年で、判決確定後10日以内に死刑が執行された。

一転して戦後は、46年2月の川崎―横浜の地方巡幸をはじめとする「平和の象徴、国民統合の象徴」としての、行事への参加が満載されていた
47年10月石川国体開会式にはじまる国体臨席、48年1月以降毎年の新年一般参賀、50年4月の甲府の国土緑化大会にはじまる全国植樹祭参加、63年8月以降毎年恒例になった全国戦没者追悼式典参加など、象徴天皇制に沿った展示がなされている。その他東京オリンピックの開会宣言、日本万国博覧会参加、冬季オリンピック札幌大会で名誉総裁として開会宣言と続く。82年の春の園遊会・柔道の山下泰裕選手との歓談は、71年の訪欧(70歳)、75年の訪米(74歳)と並ぶビデオのハイライトになっていた。
       
公務用の机が展示されていた。机のうえには三菱の消しゴム付き鉛筆や赤青鉛筆、硯箱、天眼鏡、メガネなどが置いてあった。書類は金の紋章のついた箱に入れて内閣から届けられ、その日のうちに毛筆で署名したり、捺印をしたとの説明があった。
憲法第7条で、天皇の10の国事行為が定められている。よくニュースでみる内閣や最高裁長官の認証も含むが、いまも「憲法改正、法律、政令及び条約の公布」、「批准書及び法律の定めるその他の外交文書の認証」などは天皇の「公務」である。しかも定年はない。
また、1932年から67年まで使われたベンツ770K、俗称赤ベンツが展示されていた。防弾装甲のボディに特殊タイヤを装備した特殊車両だ。32年というと桜田門事件の年である。この車は戦後の全国巡行で活躍し、47年に秋田、長岡、金沢の町を走る写真があった。
1980年前後、夜9時ごろ牛込柳町の交差点を速度をまったく落とさず右折する白バイと高級車をみかけたことがある。車内に現皇后が座っていた。きっとそのときのような光景が全国で見られたのだろう。なおベンツ以降の御料車は国産車である。
       
出口のところに法人500万円、個人100万円以上の寄付者銘板が掲示されていた。各県の商工会議所、日本鉄鋼連盟、電気事業連合会、日本自動車工業会、など業界団体、その他自民党本部、日本特定郵便局長会、日本財団、立正佼成会、倫理研究所、モラロジー研究所などが名を連ねる。こうした団体が戦後の天皇制をカネの面から支えてきたことがわかる。また一般企業では東京都が28法人と群を抜いて多い。いま話題の西松建設、清水建設、大林組、間組など建設業、三菱化学、ピーエス三菱、キリンビール、旭硝子などの三菱グループ各社、その他東京電力、大庄も参加している。地方では群馬県の11法人が目立つ。群馬銀行、カネコ種苗、サンデン、正田醤油、平和、ミツバなどである。福田や中曽根、小渕を輩出したからだろうか?

住所:東京都立川市緑町3173番地 国営昭和記念公園花みどり文化センター内
電話:042-540-0429
開館日:火曜日~日曜日(月曜は休館日)
開館時間:9:30~17:00 (11~2月は16:30閉館 入場は閉館30分前まで)
入館料:一般 500円、大学生・高校生300円、中学生・小学生100円

☆館内には「天皇は1901年生まれ、皇后の没年は2000年なのでちょうど20世紀1世紀になる」「まず9分間の映画をみてください」などと話しかけてくる、スーツにネクタイの上品そうなおじさんが何人か立っている。昭和天皇の個人ファンかと思ったら、昭和聖徳記念財団の職員だったようだ。

 5月12日2か所修正
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