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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

駒込武の「帝国の狭間の台湾、そして琉球」

2024年05月06日 | 集会報告

4月28日(日)午後、文京区民センターで「植民地支配責任を考える――4.28「沖縄デー」集会」が開催された(主催:沖縄・安保・天皇制を問う4.28-29連続行動実行委員会 参加:90人超)
この集会は、4.28沖縄デーと過去の4.29天皇誕生日(現在・昭和の日)の2日間連続で「沖縄・安保・天皇制を問う」連続行動の一環として開催され、今回は沖縄から射程を少し広げ台湾の問題をテーマに選んだとのこと。
台湾については、わたしは日本の他国への侵略として、日清戦争以前に明治維新直後の1874(明治7)年に台湾出兵、75年韓国への江華島事件があったことは知っていた。台湾出兵を扱った新書やブックレットを読み1930年の霧社事件のことも知っていた。また台湾有事を口実に、いま政府が南西諸島の軍事拠点化を有無をいわさず、一方的に進めていることも知っている。
しかしこの日駒込さんに教えていただいた、沖縄と台湾の両方を「帝国」(あるいは覇権国)と周辺の小国(あるいは地域)という視角からみること、被支配の歴史的体験をした現地の知的エリートの思いや望みを知ることは、わたしの想像も及ばなかったことで新鮮だった。
講演を聞いているときは、台湾と沖縄が地理的に近いことはわかるが、一体どういう関係があるのかよくわからなかった。講演後の質疑応答のなかで「帝国主義か、帝国主義に脅かされる小国・地域か、いわば覇権国家体制という点でみるべきではないか、それが世界における基本的な対立軸ではないか、というのがわたしの考えだ」とお聞きして、感覚的に少し理解できた。
駒込さんの話は「台湾は中国の一部かどうか」というチャレンジングな問いから始まった。答えは、国境の範囲も、同胞として意識する人びとの範囲も、歴史のなかで大きく変わる。とりわけ近代以前は、国境は線ではなく面、「あのあたり」に過ぎなかった。それが近代になり国境線を確定し、民族的帰属が重要な位置を占めることになる。たとえば、ペリー来航以降、日本の国境が画定されていく、というものだった。
なお講演のなかで、現在の台湾の政治状況などに関するお話や、なぜ台湾固有の歴史に日本人が無関心なのかという理由の話もあったが、省略した。

台湾植民地支配責任を問い直す――帝国の狭間で翻弄されてきた人々の声に耳を傾ける

                                                駒込武さん(京都大学教員)
                                                    会場内の写真2点は、主催者から提供を受けた
沖縄も台湾も国家的帰属が近代に何回か変わっていることが重要だ。比較のポイントとして、1.1895年台湾領有を境とするできごと、2.台湾の中国への返還と呼ばれる1945年を境とするできごと、3.1972年前後の日本と中華民国との断交、沖縄の日本への復帰をめぐるできごと、この3つのターニングポイントに即してお話したい。
●日清講和条約による1895年の転換
日清戦争の日清講和条約(1895年4月17日)で台湾全島と澎湖列島が日本に割譲された。戦争中、台湾はほとんど戦場になっておらず自分たちに関係のない戦争だと思っていた。だから驚いて台湾民主国独立宣言を出した。清は「台湾の人民はすでに独立を宣言したるに付き、清国政府は該人民に対して最早管轄権を有せざる」と伊藤博文に電報を打ち、いわば台湾を見捨てた
 
                                        当日のレジュメより
6月、日本軍は基隆を占領し首都台南に迫り、台湾民衆の義勇軍による抵抗が生じた。台湾には、マレー・ポリネシア系の先住民族、17世紀に大陸から渡ってきた漢族(福ろー(人偏に労 ホーロー)系と客家(ハッカ)系)、平甫族(漢族と痛恨関係を結んだ先住民)がいたが、日本への抵抗のなか、はじめて台湾人という意識を育み「民軍」として戦った。かつて乙未(いつみ)戦役といわれていたが、近年、日本への台湾郷土防衛戦争であるという言い方がされるようになった。
このとき清国軍兵士は帰るところがあるので、さっさと上海や香港に戻った。しかし帰るところのない台湾の人々は清国に棄てられた土地に残された民だったという意識を深めた。これは今日に至るまで台湾の人々において 棄地遺民という意識が深く刻み込まれている。
沖縄は1879年の琉球処分で日本に組み込まれたが、それまで清と日本に両属していたので、日清戦争が起きたとき沖縄の人心は動揺した。琉球処分のときでなく日清戦争で台湾が植民地化されるとともに、沖縄は、沖縄の人々の意向にかかわりなく、一部の人の意向を無視して、日本に明確に帰属することになった。
●沖縄から台湾へ、台湾から沖縄へ
沖縄から台湾へ、官吏、土木人夫、漁師、女中奉公などで移民していった人は多くいる。いわゆる東京語を覚えるのに一番近いのが台湾という皮肉な事情があった。他方台湾から沖縄に、パイナップルの農業移民、炭鉱労働者として出て行くなどさまざまなつながりがあった。
わたしはもともと教育の歴史を研究してきたので、教育の問題をひとつ紹介する。沖縄学の祖・伊波普猷は1895年当時中学生だった。「中学時代の思出」に、中学の校長が「皆さんは普通語(東京語)も完全に使えないクセに英語まで学ばなければならないという気の毒な境遇にある」と、英語科を廃止する方針を示したと書いている。英語は国家エリートになるうえで必須の手段なので、英語を教えないということは「君たちは国家エリートになれないしならなくてよい」ということだ。怒った学生たちはストを起こし、伊波も含め退学処分になる。
台湾でも「未開の者ににわかに文明的な教育を施すときは、往々にして目的を誤る。沖縄から選抜されて東京に来たもの(謝花昇など)がいるが戻ってからヤマト出身の県知事と激しく対立し、琉球独立論などを唱えた。台湾人に対してもそんな教育をする必要はないと、ハイレベルな教育は実施されなかった
しかし初等教育レベルの教育はしないとまずい。その基本原則は日本語を教えること、そして統治の助手として使えるようにすること、天皇皇族のありがたさを教えることだった。台湾の教科書には、北白川宮義久親王さま(台湾征討近衛師団長として赴任。台湾で病没)は、悪者(抗日義勇軍のこと)を鎮めてくれた。亡くなったあと神として祀った、と書かれた。
台湾の人はこの教育をどう受け取ったのか。私立台湾長老教中学から東京帝大卒業後、母校に戻り教務主任(教頭)になった林茂生(リン・モセイ)という人物がいる。台湾文化協会という抗日運動団体に参加し具体的には台湾議会を設置し重要なことは台湾の住民に決めさせろと主張する運動を行い、台湾長老教中学を台湾の歴史を教え台湾の言葉を教え、台湾人の学校にしていくという宣言を発表した。この台湾人の学校に対し総督府は神社参拝を求めた。神社に祀られるのは北白川宮義久だった。
林はキリスト教徒だった。キリスト教徒として神以外のものは拝まずという点から受け入れがたい。さらに神社は征服者の国教にほかならない。日本人への服従と忠誠を誓う参拝に抵抗が続いていたところに1934年、日本人民間人による長老教中学排撃運動が起こった。新聞も「国体の尊厳を冒涜する非国民を膺懲せよ」と煽った。新しく軍人出身の日本人校長が就任し、この学校から日本の兵士に志願する学生も現れた。ジェノサイドといえる霧社事件など、とてつもなく暴力的なことが山ほどあった。
●1945年の転換
カイロ宣言(1943)には、台湾を中華民国に返還すると書かれ、それを踏襲したポツダム宣言(1945)を日本は受諾して、台湾を中華民国に返還することになった。この1945年から49年までの4年間が、台湾が中国大陸と同じ政権のもとに統治されていた期間だ。このあと蒋介石が中国大陸における内戦に敗れ、1949年中国大陸には中華人民共和国が成立する。
45年10月25日、午前に日本軍の降伏式典、午後祖国中国に戻ったことを祝う「慶祝台湾光復記念大会」が開催された。林茂生は、台湾大学教授になると同時に「民報」という新聞社社長になった。自分たちの頭越しに帰属が変更されたことに大いに戸惑いながらも、林は中華民国のなかで独自の歴史的経験に則して高度の自治をめざすという方向で考えていた。林は記念大会で台湾省代表として演説したとき、「「光復」がなされたのはかつて「失陥」があったからであり、「失陥」がなされたのは国民に団結がなく「敵人」につけいる隙を与えたからである」と、なんとも微妙なことをいっている。間接的に、あなたがたは祖国光復などといって祝うというが、台湾を捨てたのはお前だろう。祖国光復を祝うなら、それに対し詫びを入れるのが先だろう、ということだ。
1945年8月15日から約1年半のあいだの台湾の新聞をみると、日本の植民地支配に対する徹底した告発を見ることができる。たとえば民報の1946年1月14日付け社説は天皇の元旦詔書(現人神ではないという人間宣言)への批判のなかで、「侵略したのは日本の国民ではなく、日本の軍閥、財界・・・」というのはあまりに寛容な論」であり「きわめて少数の例外を除いて、日本の人民自身ではないだろうか?(略)試みに日本の人民、あるいは民衆の手を検査してみるがいい。きっと多くの場合、血痕と血生臭い匂いがまだ残っているだろう」と書いている。天皇の人間宣言というが、わたしたちは天皇のご恩という名の侮辱をさんざんされてきたのだと、神社参拝問題にからむ批判も書かれている。
●統治者の転換/植民地状態の継続
日本時代には日本人が支配者階級で台湾の人々は本島人といわれた。それが台湾省行政長官公署といって南京から派遣された官僚が支配するようになり、台湾総督府と同じく立法権も併せもつ強大な専制的権力をもつ。かつて内地人と呼ばれた人が今度は台湾以外の省で暮らす人として外省人、かつて本島人と呼ばれた人が今度は本省人と呼ばれるようになる。

                                                                     当日のレジュメより
日本時代と同じように政治参加を拒絶される。つまり官僚になれない、参政権を制限される事態が生じる。ただ日本時代と違うのは、わたしたち台湾人という意識ができていたことだ。
そうしたなかで同じように差別されることに対し、47年2月、反政府反乱が台湾全島で起きる。韓国の光州事件と同じように国軍の武器を奪い町を解放するというかたちの叛乱、2.28事件が起きる。
2.28処理委員会がアメリカ大使館に請願書を提出した。林茂生が英訳したとされる。
「台湾人の頭越しに中国への返還を定めたカイロ宣言がわたしたちを生き地獄に追いやってしまった。アメリカもカイロ宣言に加わっているので責任を取ってほしい。連合国による共同統治を経て台湾独立を求める」という内容だ。
南京のアメリカ大使館は「相手にしなくてよい、台湾は政府ではないから」という態度だった。それを受け蒋介石は台湾の反政府反乱を鎮圧するため援軍を派遣する。首謀者と見なした人物2万人を処刑した。とくに街頭での銃殺というかたちで、見せしめ的なかたちの処刑をした。1949年中華民国政府が国共内戦に敗れ台湾に撤退した。するとふたたび戒厳令を敷き、戒厳令は40年間続いた
47年に処刑される少し前、林は、東京帝大医学部に留学し精神科医になっていた息子・林宗義に対しこう語った。「台湾は一日にしてまた二等国民に戻ってしまった(略)不幸なことに戦争の終結から今に至るまで、台湾はほとんど完全に孤立無援の情況にある」
特務機関に連行される直前、「(日本人は)わたしたちが自分自身を管理し、政治に参与することを意図的に防いだ。さらに不幸なことは、台湾人がただ一種類の政治体制しか知らないことである。それは殖民政府である」という言葉を残した。この林の言葉は植民地支配とは何かを定義するものだ。
林が殺された同じ年に伊波普猷が亡くなる。伊波は26年に「自分の国でありながら、自分で支配することが出来ず」と林茂生の言葉にも通じる言葉を書いている。亡くなる47年には「地球上で帝国主義が終わりを告げるとき、沖縄人は「にが世」から解放されて、「あま世」を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る」と語った。

●1972年の転換
72年9月の日中共同声明で「台湾は中国の一部」と日本政府が認めた。ただし外交文書特有のあいまいさで「十分理解し尊重し」という言い方をしている。中華人民共和国が台湾を一部というのは十分理解する、だが台湾の人々が自分たちの運命を自分たちで決めたいといっていることも十分理解し尊重することもできる、そのような表現ではないかと、わたしは思う。
川満信一という思想家は1970年の時点で数少ない反復帰論者だった。なぜそんなことを勝手に決めるのだというのと同時に、日中国交正常化というのは何だという文章を書いている。「台湾民衆の屈折した感情や、その苦悩は、自らの意思や選択で自らの歴史を定めていくことを許されず、大国対大国の恣意的な取り決めに従属させられる島弧の少数民の立場として、この沖縄では痛いほどわかるのである」という書き方をしている。このあと「いまの中華人民共和国政府は、たんに領土として台湾をみていないか。台湾の人々を、固有の歴史的経験を、あまりにも軽視していないか」、そういう問いを書いている。
林茂生の息子・林宗義がカナダに亡命し、70年代に台湾人民自決運動を始める。いっしょに始めた黄彰輝は、北京政府へのメッセージで「私たちの自決権は、すべての被抑圧者の解放という、あなた方が公言する政策とも一致している。私たちは、あなた方の脅威からも解放されることを望んでいる。台湾人があなた方に統治されることを望むか否かを決するために、台湾における自由な住民投票の結果を受け容れることを求める」と書いている。
呉叡人というわたしと同世代の台湾の政治学者がいる。いまの彼はウクライナ戦争以来、追い込まれているが、2016年時点では「台湾は永世中立を究極の目標として、日米同盟への参入を求めず、毅然として宣言すべきである。そして沖縄の人と連帯したい」という意見を表明していた。
川満は2017年の座談会で「アメリカや中国はご都合主義、(略)大陸と大国主義にはさまれた島々の連帯をいかに固めるか。そして済州島、台湾、海南島をつなぎ大国にむかって、ここを非武装地帯だと主張できる合意の体制をつくれないか」といっている。
私自身は、台湾と沖縄の連帯が成立するためには、むしろ日本本土と呼ばれる国が大きく変わっていくこと、非武装地帯をつくれる方向に動いていくこと、難しいとしてもそうした方向を目指すしかないのではないかと思う。

このあと1時間近く質疑応答があった。9人の方から、多民族集団から成る台湾の言語、台湾と中国本土の経済関係、台湾とアメリカの関係、地域外交を推進する沖縄が中国と台湾を仲介する可能性、などの質問があり、駒込さんはていねいなコメントを述べた。興味深い質疑が多く、充実した討論集会になった。

☆この日の講師・駒込武さんは「自主講座 認識台湾」(XのURL https://twitter.com/RenshiTaiwan)でイベントの開催、ユーチューブでの配信を行い、クラウド・ファンディングを使った資金集めもされている。講演の日、あと11日で十数万円集めないと不成立になるとの話があり、会場でも緊急の寄付が募られた。その後サイトをみると無事達成できたようだ。
駒込さんは、かつて国旗国歌法反対運動(1999)、琉球人遺骨返還運動(2017)、天皇代替わりにともなう京都・主基田抜穂の儀への住民訴訟(2020)などにかかわり、また最近の新聞報道では、国立大学法人法改正反対、「国際卓越研究大学」制度の是非を考えるなどの呼びかけ人になるなど、積極的に社会への行動を行う研究者のようだ。今後にも、ぜひ期待したい。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
☆図版点差換え、文章を一部追記しました(2024.5.7)


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