多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

放送の記憶

2011年02月01日 | 博物館など
1月としては少し暖かい土曜の午後、神谷町のNHK放送博物館を訪れた。下から見るとそれほどの高さではないが、実際登るとかなりの急坂だった。地上のビルの高さでいうと7階くらいに相当する。標高26mは23区随一の高さだそうだ。上野の山なり、音羽の丘、高台の練馬や世田谷にも標高が高い土地地はありそうなものだが、じつはこの場所なのである。

ここは、1925年に日本放送協会の放送局がはじめて設置された場所で、1938年に内幸町に移転するまで本部があった。56年に博物館がオープンした。4階建てで、1階は放送開始当時の再現スタジオ、中2階と2階は体験コーナーと放送機材の歴史、3階は災害報道・スポーツ・教育・教養・娯楽番組などジャンル別の歴史、4階は大河ドラマの特別展示、放送文化賞記念コーナー、そして番組ライブラリーがある。各フロアともスペースが広くみるものが多い。

中心はカメラ、マイク、ラジオ、テレビの展示で、実物の放送機器を使ってアナウンサーやカメラマンの体験をできるコーナーもあった。ただ残念ながらわたくしは技術的なことはあまり興味がない。
そこで、わたくしの印象の強かったいくつかのコーナーを紹介する。

芝浦の東京高等工芸のなかに設置された仮放送所の再現スタジオ
1925(大正14)年3月22日芝浦の仮放送所でラジオの試験放送が始まり、7月に愛宕山の放送局で本放送が始まった。当時の番組表をみると音楽が多い。ただ音楽といってもレコードを回すのではなく歌曲の実況生放送である。
「炭坑の中」というドラマの放送もあった。東屋三郎、山本安英、小野宮吉の3人の放送収録中の写真が展示されていた。3人とも築地小劇場の団員で、山本安英(1906-1993)は木下順二の「夕鶴」で有名な女優、小野宮吉は戦前、村山知義佐野碩らとプロレタリア演劇を担った演劇人で、妻は関鑑子である。築地の後輩である杉村春子の1996年の解説テープが流れていた。8畳くらいの部屋に声優も、機材も、効果音を出すタライも詰め込まれた。そういえば東屋の左手に大太鼓が写っている。出演1回の謝礼は10円で、それが楽しみだったそうだ。

藤山一郎作曲ルーム
藤山一郎は93年に82歳で亡くなったが、遺族から寄贈された作曲ルームが展示されていた。机の下に収まっているのは自身が出演したテレビ番組のビデオだった。藤山というと「丘を越えて」「青い山脈」などの歌手だと思っていたが、じつは「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け・・・」で始まる「ラジオ体操の歌」を作曲したのは藤山だったそうだ(作詞は藤浦洸)。戦後まもないころの曲かと思っていたが、1957年3月7日の日付の自筆楽譜が展示されていた。50年以上歌われている息の長い曲だ。友人と国歌「君が代」の代案の話をしていて、「ラジオ体操の歌」か高校野球の「栄冠は君に輝く」はどうだろうと提案してみた。一笑に付されたが、たいていの人が知っているし「君が代」よりはよほどよいと思うのだが・・・。

わたくしの放送の記憶は、「一丁目一番地(1957―64)や「お父さんはお人好し(1954―65)のラジオドラマに始まる。小学生のときにテレビが入ってからは「少年ジェット(1959―60)や「まぼろし探偵(1959―60)に夢中になったが、NHKの「チロリン村とくるみの木(1956―64)、「ひょっこりひょうたん島(1964―69)、「みんなのうた(1961―現在)もよく見ていた。
ひょうたん島の人形が展示されていた。小さいもので30センチ、ドン・ガバチョや博士など大きいものは40センチ近くあり、思いのほか大きかった。また博士の顔の色がドラヒゲと同じこげ茶色だったのは意外だった。脇に、人形を手にした声優の集合写真があった。中山千夏(博士)や青島幸男(南ドコニカシリーズのトンカチーフ)がじつに若い。きれいな女性がいてだれかと思ったら松島トモ子だった。マリーが松島トモ子だったとは知らなかった。前のほうに牧伸二がいて、いったい何の役だったのかと思ったらウクレレマン・ダンであった。井上ひさし(あるいは山元護久)らしいネーミングだ。

その後FMラジオのクラシック音楽を聴くことが増えたが、NHKの番組では「若い広場」や「中学生日記」をよくみていた。4階の「番組公開ライブラリー」でもう一度みることができた。
じつは一番見たかったのは小柳徹が主人公の「ホームラン教室(1959―63)だった。机に備え付けのNHKアーカイブスカタログにも紹介されているので当然あるものだと思ったが、すべての番組のビデオが公開されているわけではなかった。
たしか小柳徹が野球チームのキャプテンで家族はベーカリーの店主の父(牟田貞三)と母と妹、チームメイトにはネズミという歯科医の息子や、トチやガリもいたと思う。
「中学生日記」というと、湯浅実がやっていた美術教師・風間が思い浮かぶが、調べてみると風間が登場したのは1975年4月から1982年3月までの7年だけだったようだ。ビデオで見られたのは1978年2月26日の「闘争宣言」だった。中学3年の提灯屋の息子・芳正と大企業の御曹司・隆浩の対立をメインに女生徒・典子がからむストーリーだった。
バックにブラームスの弦楽七重奏の2楽章が流れていた。そういえば音楽もなかなかよかったことを思い出した。
ところで主人公の近藤芳正という名が頭にひっかかって調べてみたら、やはり「歌わせたい男たち」で不起立の社会科教師役を演じた俳優だった。
「若い広場」も一番古いもので79年11月のものしか残っていなかった。80年6月の「辺地での門出――自治医科大学第一期生」のはじめのほうだけみた。赴任3年目の若手医師のドキュメントだ。これは見た記憶があった。「マイブック」の司会は斎藤とも子で、じつに丹念に読書していたことを思い出した。
最近は放送というともっぱらNHK第一放送だ。まず聞き始めたのは「ラジオ深夜便」。いつごろ聞き始めたかわからないが阪神大震災より前だったので、数えてみると15年以上前からになる。

いまは「歌の日曜散歩」「地球ラジオ」「こうせつと仲間たち」「亀渕昭信のいくつになってもロケンロール!」などが愛聴番組だ。そして「新日曜名作座」も聞いている。西田敏行と竹下景子のコンビは、はじめは耳慣れなかったがだんだんなじんできた。以前の森繁久彌と加藤道子の日曜名作座はなかなか味があった。調べると1957年から50年も続いた長寿番組だった。

住所:東京都港区愛宕2-1-1
電話:03-5400-6900
開館日:火曜~土曜日
開館時間 9時30分~16時30分
入館料:無料


●長らく不調だった2007年総目次のデータを入れ替えて、リンクできるようになりました。
 興味のある方はこちらから。
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1 コメント

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ドラマ同好会(名前検討中 (村石太ガール&甲子園出場)
2011-08-05 20:39:49
今夜 中学生日記 闘争宣言みました。僕には子供いないけれど 中学受験 東大 学歴社会深く考えさせられました。子供が見るには えぐい話しだった。ときどき NHKドラマ そうとう えぐい社会問題 やりますね。
NHKというと 道徳的と思うというか なんというか そんなイメージ あるけれど
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