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村山知義のプロレタリア演劇論

2008年05月27日 | 読書
村山知義の「日本プロレタリア演劇論」(ゆまに書房 監修:牧野守 解説:西堂行人 1991.5)を読んだ。この本は1930(昭和5)年5月25日天人社から発刊されたオリジナルを復刻した本で、新芸術論システム(全20巻)のなかの1冊である。ただし書き下ろしというわけではなく、150pというシリーズの制約の範囲で1927年ごろから発表した10の論文をまとめたものである。

1923年1月にベルリンから帰国した村山は、24年12月築地小劇場でゲオルグ・カイザー「朝から夜中まで」の舞台装置を手がけ、演劇との関わりが始まった。25年9月河原崎長十郎らと心座を結成、26年11月前衛座の旗揚げ公演ルナチャルスキー「解放されたドン・キホーテ」で装置担当に加え、「ムルチオ伯」を演じた。だんだん左翼陣営に傾斜し、1928年左翼劇場の第1回公演で自作「進水式」の演出、装置を担当、本書は左翼演劇の第一線で活躍していた時期に発刊したものである。
村山の発刊意図は「プロレタリア演劇運動の発展が跡付けられるようなもの」をまとめることだった。プロレタリア演劇とは、漠然と社会主義的な芝居を公演するのではなく、職場に全活動の基礎を置き、労働者農民の解放のための闘争に演劇的活動に依って参加しようとするものと定義している。
村山は、日本の演劇を歌舞伎、新派、新劇の3つに分類し、歌舞伎は町人階級の意識を反映して発展したが明治以降、支配階級に媚びて資格を失い、壮士芝居として始まった新派は日露戦争後のブルジョワジーの精神的堕落と共に停滞し、インテリゲンチャが興した新劇は階級的背景を持たないがゆえに、芸術至上的な演劇に止まり新劇運動の時代は終わった、と説明する。「プロレタリアートがその血みどろな闘争の中からそれ自らの演劇を生みだす時代が始まっているのだ」と強調し、プロレタリア演劇だけが価値があると結論づける。
いささか教条的な理論である。
ただし面白くない演劇は「穴のあいた舟」であり、「労働者は決して金を出して面白くない芝居を見なければならない義務はない」と、当然のことを言っており、ちょっと救われる。
また舞台制作から演劇に入ったため、ホリゾント(角がアールになっていて影を生じず、無限大を表現できる舞台)、照明や音響効果にも言及している。
当時、大衆娯楽として急成長していた映画との比較も出てくる。映画はプリントがいくつもでき、運搬が簡便なので、演劇は経済的に映画に押されてきた。次に芸術性の点でも、映画は極めて自由で力強い表現手段をどんどん獲得し、演劇の可能性を着々と置き去りにしつつある、と述べる。小津安二郎(1903年12月12日―1963年12月12日)を例にとると1929年「大学は出たけれど」「突貫小僧」、1930年「朗かに歩め」「落第はしたけれど」を監督したころである。

現代からみて興味深いのは、実際の上演の様子である。たとえば1927年6月前衛座が、農民組合と小作争議で有名な葛塚(現在の新潟市北区)で「進水式」を上演した。開演の6時半になっても、観客は4,5人しか集まらない。そこで楽屋の古つづらの中から、大太鼓、小太鼓を探し出し、出し物の一つ、「地獄の審判」(佐々木孝丸作)の衣装をまとい、急造の旗を立てて宣伝に出かけた。「くるめくわだち、走る火花 ベルトは唸り槌は響く・・・」。夕方の農道を村山たちの歌声が響いた。「くるめくわだち」はどんなふうに村の人に受け止められたのだろう。7時半ごろには会場は満席になった。しかし苦労して上演しても途中で臨検が立ち上がり「中止!」と怒鳴り終了することになってしまった。 また、29年3月静岡前衛座の第2回「労働者の夕」のプログラムには、詩や歌とともにプロレタリア琵琶「犠牲者」、社会講談「吹雪」「嵐」というものが出てくる。神田香織の講談のようなものだったのだろうか。
1930年2月に上演し大好評だった「太陽のない街」演出者覚え書には、文芸部で上演脚本の選定、総会で大衆討議など、上演までの劇団内の細かいプロセスが紹介されている。また登場人物66名、延べ人員238人(平均1人4回出場)という陣容の大きさが記録され、巻頭には3幕1場の舞台写真と約90人の記念写真が掲載されている。この芝居のシナリオは検閲の結果、カット五十数か所、約1万字、訂正63か所に及んだ。
本書そのものにも伏せ字が多い。たとえば「明治維新はブルジョア・・・の発展に過ぎなかった」「いかなる演劇をいかに上演しなければならないだろうか(略)それは・・・のスローガンに隅から隅まで貫かれたものでなければならぬ。(略)我々は戯曲をプロレタリア・リアリズム的に上演しなければならぬ」といった具合である。治安維持法(1925年施行)下の出版事情を目の当たりにできる。28年3月には共産党の大弾圧、29年秋世界大恐慌、30年1月金輸出解禁という暗い時期に入りつつあった。
この本が出版された5月、村山は治安維持法違反で検挙され12月まで豊多摩刑務所に入ることになった。

☆天人社は新聞記者、森園豊吉(1889-1957)が経営した出版社である。牧野守の解説によると1929年設立、1933年解散という短命な会社だった。しかしわずか4年で江戸川乱歩、大佛次郎らが執筆した世界犯罪叢書(10巻)、青野季吉、林芙美子、武田麟太郎らが執筆した月刊誌「文学風景」(1930.5創刊)、北園克衛、城昌幸、郡司次郎正らが執筆した「前衛時代」(31.4創刊)を出版した。
新芸術論システム(全20巻)には、中河与一「フォルマリズム芸術論」、青野季吉「マルキシズム文学論」、岩崎昶「現代映画芸術論」、11月西脇順三郎「シュルレアリズム文学論」などが含まれている。出版されなかったが三木清「新興美学の基礎」、兼常清佐「ジャズ音楽論」も予定されていた。きらめくような著者群で、タイトルだけみても興味津々の書が並んでいる。
新芸術論システムの編集の中心人物は板垣鷹穂(1894年10月15日 - 1966年7月3日)で「新興芸術」(芸文書院1929.10~30.5)と「新興芸術研究」(刀江書院1931.2~12)の間の時期に位置するシリーズである。
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