多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

2つのマンガの「聖地」 豊島区のトキワ荘と練馬区の大泉サロン

2021年02月20日 | 博物館など

トキワ荘は、赤塚不二夫、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎ら錚々たる若手マンガ家が1955年前後に7年ほど暮らした豊島区の梁山泊のようなアパートである。西武池袋線椎名町から南西に1キロ徒歩15分くらいのところにあった。マンガ家は男性が多いが、水野英子も7か月暮らした。
方、大泉サロンは、1970年から2年竹宮惠子と萩尾望都が同居生活した練馬区の2階建て2軒長屋のひとつである。「24年組」といわれる山岸涼子、ささやななえこ、山田ミネコやその前後のマンガ家らも出入りした。椎名町から普通電車で9駅15分ほどの大泉学園南口から1.7キロ徒歩25分くらいのキャベツ畑のなかにあった。

本物のトキワ荘は1982年に解体されたが、昨年7月跡地から200mほど西の南長崎花咲公園に豊島区立トキワ荘マンガミュージアムとして復原された。コロナのため当初予定より4か月遅れの開館だった。1階はラウンジと企画展示室でわたくしが行ったときは「トキワ荘のアニキ 寺田ヒロオ」展が開催されていた、2階が当時の4畳半の部屋9室のほか、炊事場、トイレがある。しっかりした木の階段はたしかにギシギシと音がしてリアルだ。
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52年12月に棟上げされ、まず宝塚在住の手塚治虫が四谷の下宿から14号に1953年1月から54年10月まで、53年の大みそかから22号に寺田ヒロオ、手塚が雑司ヶ谷に転居することになり藤子・F・不二雄藤子不二雄Aに声をかけ2人が54年10月から14号に(その後Fは隣の15号へ)、55年8月から20号に鈴木伸一、同居のかたちで56年2月から森安なおや、56年5月石ノ森章太郎が17号に(その後、アシスタントも含め2室)、8月から石ノ森の友人・赤塚不二夫が16号に、58年3月から19号に水野英子、58年秋、鈴木と森安がかつて暮らした20号によこたとくお、最後に60年9月石ノ森のアシスタントの山内ジョージが18号に入居した。
寺田は57年6月に目白に転出(11月に結婚しさらに渋谷へ)、ほとんどのメンバーは61年に退去し、最後に山内が62年3月に退去した。もちろんマンガ家専用のアパートではなく、1階の10室は普通の人ばかり、2階にもいくつか一般の人の部屋もあった。
ここに挙げたのは10人だが、通いで長谷邦夫、つのだじろう、園山俊二などが訪れた。
年表でみると7年程度の年月だったが、トキワ荘はまさにマンガの「聖地」である。このアパートに若手マンガ家が集結したのはもちろん偶然ではない。「漫画少年」(学童社)の読者投稿欄と加藤謙一編集長(戦前は講談社の「少年倶楽部」編集長)の力が大きい。以下は藝術新潮2020年11月号絵物「トキワ荘の青春」やウィキペディアを参考にしている。
手塚は「漫画少年」に50年から「ジャングル大帝」を連載していたが、多忙になり加藤が新築のトキワ荘に手塚を呼び寄せた。手塚は「漫画少年」の読者投稿欄の講評をしていた時期があり、投稿者に寺田ヒロオ、鈴木伸一、藤子不二雄、赤塚不二夫、よこたとくお、石ノ森章太郎らがいた。もともと手塚の大ファンの藤子Aは54年1月上京し手塚を訪ねたが、手塚が超多忙で向かいの部屋の寺田を紹介し、2人は意気投合し新漫画党をつくる話まで出た。前述のように手塚の好意で入室したが、その際、手塚は敷金と机を残していった。
石ノ森は宮城県登米郡の高校生時代に東日本漫画研究会を主宰して同人誌「墨汁一滴」を発刊し、新潟在住の赤塚はその同人だった。藤子Aは手塚のアシスタントをした時期もあったが自分の仕事が忙しくなり、手塚は代わりに投稿欄で目をつけていた石ノ森を東京に呼び寄せ「鉄腕アトム」を手伝わせた。高校卒業後本格的に上京し、56年5月にトキワ荘に入居した。赤塚は石ノ森のアシスタントをしていたこともあり、3か月後に隣室に入居した。
水野は、手塚が早くから目をつけており「少女クラブ」の編集者・丸山昭に推薦した。水野は下関の中学卒業後、漁網会社で働きながらマンガを描いていた。丸山は石ノ森、赤塚の担当をしていたこともあり、3人に合作させることを思いつき水野を上京させトキワ荘に入居させた。3人合作のペンネームはU.マイヤで、合作するときは石ノ森の部屋に集まり、石ノ森は窓際の机、その後ろのちゃぶ台に赤塚と水野が向き合って描いた。水野は祖母と3か月だけという約束で上京したが、あまりにも楽しくかつ石ノ森から学ぶ点が多く7カ月滞在することになった。
赤塚の母や石ノ森の美人の姉も同居していた。映画「トキワ荘の青春(市川準 カルチュア・パブリッシャーズ 1996)では美人の姉役を青年団の安部聡子が演じていた。

座卓の上にチューダーの材料、三ツ矢サイダーと宝焼酎、「松葉」の丼が見える
復原されたトキワ荘には、マンガ家の仕事道具だけでなく、チューダー(サイダーの焼酎割)やラーメン店「松葉」の丼もあった。また石ノ森の部屋には月刊新潮やハヤカワSF、ポケット・ハヤカワミステリ、缶に収納された35ミリ映画フィルムがたくさんあった。
襖の絵柄は徳利の絵柄が多く、いくら宴会をたくさんやったといっても出来すぎではないかと、スタッフに聞くと水野の記憶に従って復原したものとのことだった。階段のギシギシ音、炊事場の食器だけでなく、窓のサッシが木製だったり、外壁に野球ボールがあたった汚れ跡をつけたり、屋外に古い電話ボックスを再現したり、いろんな面でよくできた博物館だった。
1955年当時の物価と藤子Aの収支内訳が掲示されていた。卵1個15円、牛乳1本14円、電話が10円、ハガキ5円、銭湯15円、池袋―東京の地下鉄20円という時代である。収入は4か月で1万3780円、支出が1万9907円(ただし6月の高岡への帰省代5000円含む)で、食費33%、交際費31%、映画10%とあった。ちなみにラーメン40円、コーヒー50円、映画150円、LPレコードは2100円もした。一般勤労世帯と比較し、交際費や映画代など教養娯楽費が多く、食費・衣服費が少ないとの解説があった。ただ家庭持ちと一人暮らしの違いもあると思われる。新漫画党の宴会は数多く、「ERRORS」というチームのユニフォームまでつくり野球をしていた。若者たちが貧しくても楽しい暮らしを送っていたことが偲ばれる。
年齢は1933―35年生まれが多く、寺田は少し年長で31年生まれ、石ノ森と水野が少し下の38-39年生まれだ。面倒見のよい寺田がアニキ役だったことも理解できる。生年を調べて意外だったのは、寺田と手塚がじつは3歳しか違わないことだ。
公園の向かいのトキワ荘通りにはトキワ荘マンガステーションやお休み処もあり、跡地には石造りの建物モニュメントもあるし、町のあちこちに水野の「星のたてごと」モニュメント、鈴木のラーメン屋台モニュメントなどが10以上ある。松葉は健在だし、エデン、目白映画、鶴の湯などの跡地にはゆかりの地・解説板が設置され、商店街でもいろんなイベントをしているようだった。
トキワ荘に、若いマンガ家が集結したのは、マンガの貸本から雑誌へ移行し、「冒険王」「ぼくら」「少年」などの月刊誌が興隆し、週刊の「少年サンデー」「少年マガジン」が59年3月(マガジンは3月26日号、サンデーは4月5日号)に創刊された時期だった。トキワ荘で売れっ子になり、退去後寺田は「スポーツマン金太郎」、藤子は「オバケのQ太郎」、赤塚は「おそ松くん」、石ノ森は「サイボーグ009」でブレイクしたのはご存じのとおりである。

一方大泉サロンは椎名町から普通電車で9駅15分ほど、大泉学園南口から1.7キロ徒歩25分くらいのキャベツ畑のなかにあった。トキワ荘より15年ほど後で、かつ出入りしていたのは全員女性だ。
わたしは、少年マガジン、サンデーとともに成長し、学生のころはアクション、おとなになってからはビッグコミックやモーニングを愛読していたのでトキワ荘出身のマンガ家や男性マンガ家の作品は実感としてわかる。しかし女性マンガは残念ながらみたことがないのに等しい。24年組も萩尾望都「ポーの一族」、竹宮惠子「地球へ…」、山岸凉子「日出処天子」、大島弓子「綿の国星」などヒット作の名を知っているにすぎない。下記は、竹宮の「少年の名はジルベール(小学館 2016.2)と「萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命」」(中川右介 幻冬舎新書 2020.3)を参照している。
竹宮と萩尾は、しかしトキワ荘との接点はある。竹宮も萩尾も手塚を尊敬し、「ガロ」(青林堂 1964年創刊)に対抗し手塚が66年11月に立ち上げた「COM」(虫プロ商事)の投稿欄「ぐら・こん」(グランド・コンパニオン)に投稿した。竹宮の「ここのつの友情」が67年7月号に佳作賞、68年7月号「かぎっ子集団」が入選し掲載された。萩尾も71年1月号に「ポーチで粗油所が子犬と」が掲載された(執筆したのは上京前の70年8月)。
竹宮惠子は徳島大学教育学部美術科在学中に小学館、集英社など3誌に連載をもち、70年5月ごろ大学を中退し上京する。はじめは尊敬する石ノ森がいた桜台に住んだが、一人暮らしが寂しくて仕方なかった。
高卒後、福岡の専門学校ファッションデザイン科を卒業した萩尾望都は、69年8月講談社の「なかよし」増刊号に「ルルとミミ」が掲載されデビューした。そして東京の増山法恵からファンレターを受け取った。70年春、原稿を見せに上京したとき講談社の編集室で、編集者から竹宮を紹介され、締切りに追われる竹宮の仕事を一晩手伝うことになり親しくなった。この上京のとき泊まったのは増山の家だった。
南大泉在住(現在の住所は石神井台8丁目)の増山は、萩尾から紹介された竹宮と毎日のように電話する仲になった。「萩尾さんも呼んで、みんなでトキワ荘みたいな暮らし方をしない?」という話になり、増山の実家の斜め前の築40年にもなる古い2階建てが空いていたので、70年秋まず竹宮が転居し、数日後に萩尾も大牟田から上京し暮らしはじめた。
西武バス・小関のバス停から1分、鉄塔の下のキャベツ畑のなか、とのことだが、いまとなっては民家が建ち並び、地番表示も変わったとのことで、どこなのかはわからない
竹宮の「少年の名はジルベール」によれば、1階に四畳半、奥にキッチンと小さい風呂、2階に3畳間と6畳という間取りだった。6畳間の萩尾コーナーに座卓と本棚、レコードプレイーヤーとカセットデッキ、竹宮コーナーには仕事机と竹宮のベッドがあった。1階にはこたつとテレビ、本棚、ロッカーがあった。その見取り図が69pと71pに掲載されている。
71年二人は、毎号のように小学館の「週刊少女コミック」と別冊に作品を発表した。とくに竹宮の「空がすき!」にはマンガ通のファンがついた。その他「COM」や講談社の「なかよし」にも作品を掲載した。
ファンレターも多く届き、そのなかから増山がセレクトし日時を決めて招待するシステムができ、1階四畳半がサロンになった。増山は少女マンガに革命を起こすつもりでいた。目に星が入り花が飛び、ストーリーもシンプルでありきたり、主人公は少女、SFや時代モノはダメ、キスシーンはさりげなくという従来の制約を取り払い、構図や表現も革命的なものにする戦略を考えていた。
金沢の高校生、坂田靖子花郁悠紀子(かいゆきこ)が71年の夏休みに宿泊し、坂田の発案で「大泉サロン」という名がついた。山岸凉子も71年4月ごろサロンを訪れた。萩尾の「11月のギムナジウム」(別冊少女コミック71年11月号)をみてレターを出した佐藤史生(しお 通称・ドサト)たらさわみちがやってきた。ささやななえこは坂田の文通仲間だったが、72年1月萩尾が北海道旅行に行ったとき萩尾がささやに連絡し家に1週間ほど宿泊する。ささやは2月に上京し半年ほど大泉サロンに居候した。滞在中、ささやのペンフレンド・山田ミネコもサロンにやってきた。
竹宮の「空がすき!」にファンレターを出した伊東愛子は72年秋からサロンに顔を出し、後に竹宮の食事担当アシスタント(メシスタント)になった。
こうして1階四畳半で20歳前後の女の子たちが増山を中心に少女マンガをどうやって改革するか」といったテーマでワイワイガヤガヤ徹夜でディスカッションし、2階で萩尾と竹宮がコツコツ仕事をし、忙しくなるとみんながアシスタントとして作画を手伝うという日常になっていった。
その後、坂田は「花とゆめ」75年12月号、花郁は「ビバ・プリンセス」76年春季号、たらさわは「別冊少女コミック」75年11月号、佐藤は「別冊少女コミック」77年2月号、伊東は「週刊セブンティーン」74年4月号でデビューし「ポスト24年組」と呼ばれた。ささやや山田、山岸はサロンに現れたころすでにプロデビューしていた

竹宮らは72年9月末、45日間の大ヨーロッパ旅行に出た。メンバーは、竹宮、萩尾、増山に「ホテルは2人1室が基本」ということで山岸涼子が加わった。船で横浜からナホトカへ、モスクワでボリショイ・バレーを観てストックホルム、さらにブリュッセル、アーヘン、パリと回りパリに10日以上滞在した。その後、ストラスブール、マインツ、ハイデルベルク、スイスのローザンヌを経てローマへ、そして夜行列車でウィーンへ、オペラ「フィデリオ」を観て、アエロフロートで帰国した。
これが大泉サロンの卒業旅行になった。ちょうどアパートの契約更改時期だったので、これを機会に同居を解消することになった。ただし行き先は2人とも下井草だった。11月末か12月だった。
73年9月萩尾は語学留学でイギリスに渡り5カ月滞在し、帰国後「トーマの心臓」を連載、コミックスとして発刊された「ポーの一族」全5巻が各巻20万部の大ヒットとなった。74年飯能に転居する。竹宮は集英社系の白泉社の新雑誌「花とゆめ」に「つばめ物語」と「ヴィレンツ物語」を描いたがこのころから増山がマネジャーを務めた。「空がすき!」がコミックスとなり、週刊少女コミックで「ファラオの墓」が始まり、二人とも大作家の道を歩んだ。
石神井公園ふるさと文化館分室「練馬区ゆかりの漫画家」 右のほうに「風と木の詩」が1冊展示されていた。(許可を得て撮影させていただいた)
トキワ荘ミュージアムは豊島区、旧・大泉サロンは練馬区にある。豊島区はトキワ荘や周辺エリアごと積極的に売り出すが、練馬区はそうではない。
東映アニメのなかにミュージアムがあるが、当然自社製作した作品の展示が大半である。区としては石神井公園ふるさ文化館分室で2年前に「大泉サロン」紹介コーナーを設置したというので行ってみたが、いまは「練馬区ゆかりの漫画家」というコーナーに13人の作家それぞれの1970年前後の雑誌やコミックと、全部で5、6点の色紙が展示されているだけだった。ちなみに竹宮惠子は「風と木の詩」が1冊展示されていただけだった。
HPでみても、そのほかは練馬アニメーションサイトを立ち上げているのと石神井公園ふるさと文化館(本館)に古く大きな撮影台がある「練馬とアニメーション」コーナーがある程度だ。
練馬には、大泉に東映動画(現・東映アニメーション)、富士見台に虫プロがあったし、マンガ家も、桜台に石ノ森章太郎、富士見台にちばてつや、石神井公園に弘兼憲史・柴門ふみ夫妻、向山に白土三平、大泉に牧美也子・松本零士夫妻、南大泉に山上たつひこなど著名作家が多く住んでいた。
それなのにこの状態だ。もちろん個人情報の問題や現在の居住者の問題もあるだろうが、力の入れ方があまりにも違い過ぎる。元は石原都知事を支える知事本局長で、いまは道路建設に血道をあげる前川燿男練馬区長と元・古本屋経営の高野之夫豊島区長との姿勢の違いに要因があるようにも思える。

☆石神井公園ふるさと文化館分室で、木島始という詩人を知った。都立高校教員から法政大学教員になった英米文学者・翻訳家だが、童話作家、作詞家の顔ももつ。エズラ・ジャック・キーツの絵本の翻訳をしたり、ハーレム詩人ラングストン・ヒューズの詩集の翻訳を行い、日本で有名にした。児童文学「考えろ丹太!」、童話「からすのかんざぶろう」などを書いた。作詞といってもNHK全国学校音楽コンクール1987年度高校課題曲「巨木のうた」や林光作曲「木のうた、鳥のうた」まである。美術家、装幀家、戯曲家、演出家、舞踊家などさまざまな顔をもつ村山知義のことを思い出した。今後、少し作品などみてみようと思った

豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
住所:東京都豊島区南長崎3-9-22
電話:03-6912-7706
開館日:火曜から日曜(月曜祝日の場合は開館し火曜が休館)、年末年始・展示替え期間は休館
開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで)
入館料:無料(企画展の料金は別途)

石神井公園ふるさと文化館分室のURLはこちら

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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