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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

没後10年 井上ひさし展とこまつ座の芝居の思い出

2020年10月21日 | 美術展など
世田谷区南烏山の世田谷文学館で「没後10年 井上ひさし展――希望へ橋渡しする人」をみた。そうか、亡くなってもう10年になるのか、というのがまず浮かんだ感慨だった。
ふるさと仙台や晩年に住んだ鎌倉でも没後10年の展覧会が開かれたようだが、世田谷も1987年に米原ゆりと再婚したあと、しばらく尾山台に住んでいたそうで縁がある土地だ。

会場に入ると「『握手』と『ナイン』」というコーナーから始まる。
「ルロイ先生、死ぬのは怖くありませんか。わたしは怖くて仕方ありませんが」「天国へ行くのですからそう怖くはありませんよ」「天国か。ほんとうに天国がありますか」「あると信じる方がたのしいでしょうが」という対話文が大きな活字で掲示されていた。
この小説は知らなかったので、後日図書館で借り出した。ルロイのモデルはジュール・ベランジェ、井上が14歳から高卒まで過ごした仙台の光ヶ丘天使園の修道士だ。亡くなる前に東京の井上を訪ね上野の西洋料理店で再会したときの会話、という設定になっていた。
握手」はわずか12pの短編だが、いま中学の国語教科書に掲載されているという。この作品は2018年に休刊した講談社の「IN★POCKET」84年5月号で発表された。「ナイン」も同誌83年12月号に発表された短編で、かつて井上が下宿していた四谷新道商店街の畳屋の長男が入っていた少年野球チームのメンバーの当時と30歳の現在を対比して、人生と友情を描いた12pの短編だ。単行本は「ナイン」のタイトルで87年に刊行された。
その前のローケースには宮沢賢治の資料が展示されていた。11歳のひさしがはじめて自分で買った本「どんぐりと山猫」(中央公論社 1942)が入っていた。そして井上自作の宮沢賢治ファイルが開かれていた。「宮沢賢治の問題提起性」(プロブレマティとルビがふられている)の見出しで詩人、科(化)学者、音楽家、教師、コレクター、社会運動家など10の側面が挙げられている。2枚目は「宮沢賢治の予言性」とあり、「暗示と黙示に満ちた「ことば」を現れさせる」とある。また井上自作の賢治年表があった。タテ軸はもちろん年代だが、ヨコ軸が所属(たとえば学校、勤務先など)、病歴・気分(躁鬱など)、作品(童話、詩などジャンル別)、宗教などに欄を分けている。なるほど「イーハトーボの劇列車(1986)はこういう発想からでき上がったのかと理解した。「インタビュー 賢治に聞く」の生原稿、「イーハトーボの劇列車」の生原稿、公演パンフなどもあった。
またディケンズの「ディビッド・コパフィールド」(新潮社)が展示されていた。仙台一高在学中、この本を読み作家を志すきっかけになったとの説明があった。
わたくしも読んだが、それはバルザックやスタンダールを何冊か読んだあとの20代半ばのことだった。それでも同じような本を読んでいることがわかりうれしかった。またわたくしが村山知義を多面的な人物とみているのと同じように、井上が賢治を観察しているのも共通のようでうれしかった。
変わったものではイプセン100年記念「近代劇全集 別冊舞台写真集」(1931)というものがあり、井上が紙芝居にして遊んだと説明があった。どんなふうに遊んでいたのかはわからないが、幼少のころから演劇に関心があったのだろう。

井上についての発見ということでは、「創作の作法」というコーナーがあった。作法というより井上ひさし流の「知的生産の技術」のようなもので、興味深かった。年表づくりと並び「地図をつくる」という手法があった。「欠かせない執筆前の儀式になってしまってる」とあった。ひょうたん島もそうだったが、吉里吉里国や吉良邸周辺図(1980)が展示されていた。
「本の読み方十箇条」で「オッと思ったら赤鉛筆」は、吉野作造(「兄おとうと」の主人公)の解説本に赤マーカーが好きなだけ塗られていた。「本はゆっくり読むと、速く読める」は、どんな本も最初の10pくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかりおさえながら飛んでいく。そうすると自然に速くなる」、「目次を睨むべし」は、専門書を読むとき、目次をじっくり読み込むと全体の構成、論旨の進め方の見当がついてくる。「戯曲は配役をして読む」は好きな俳優をキャスティングして読むとさらに面白くなるというものだ。
いかにも井上らしい技法で「紙人形で動きを再現」というものがあった。栄養剤の空箱に俳優の顔写真を貼り、役名と俳優名を書いたものだ。たとえば「円生と志ん生」では角野卓造の顔写真を貼り、「五代目古今亭志ん生こと美濃部孝蔵、角野卓造」と手書きで書いてある。全員の人形をつくり机の上に並べ、ああでもないこうでもないと動かし「そのうちに紙人形に生命のようなものが宿り出して勝手に動きはじめます」と説明がある。井上ならではの「天才的」な技法だと思う。「ロマンス」「組曲虐殺」などいろんな芝居の紙人形の実物が展示されていた。
野田秀樹もこんなことをしたのだろうか。つかこうへいなら人形なんか使わず、本物の人間をつかって舞台の上でああでもないこうでもないと動かしていたのではないかと思う。北村オリザなら、おそらく動きはほとんどないのでムダになるかもしれない。
花石物語(1980)の生原稿には「遅筆堂用箋」と印刷されており、すでに専用用紙を発注していたことがわかった。
「組曲虐殺」の展示スペースがかなり広かったが、父・井上修吉(1904-1939)と多喜二(1903-1933)の境遇が似ていたことを知った。井上は農地解放運動にかかわり3度検挙され拷問を受けたたこと、多喜二と同じく「戦旗」などに寄稿していたことなどである。「組曲虐殺」は井上の最後の戯曲で、初演を観たがそんな深い背景と作者の父への思いがあるとは知らなかった。

いろいろ凝った企画になっていた。展覧会のチラシの絵柄はもちろん井上の肖像写真が元になっているが、井上の作品の文章を学芸員たちがセレクトして埋めたものだ。まるで年に一度の9条を守る市民意見広告の新聞の名前の列のようだ。
手書きの生原稿、創作メモ、プロット案、など井上ひさしファンにはたまらないものが多数展示されていた。じっくりながめると多くの発見があると思う。しかしその時間的余裕はなく、全容を把握するだけでせいいっぱいだった。珍しいものでは安野光雅の「吉里吉里人」の装幀原画や、1981年に「吉里吉里人」で日本SF大賞をもらったときのトロフィまで展示されていた。

ここから先は、井上ひさしやこまつ座に関する個人的な思い出話である。
井上ひさしとの出会いは、同年代の方々とおなじくNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島(1964.4-69.4)だった。その後はいくつか小説やテアトル・エコーの芝居をみたかもしれないが間が空く。はじめてこまつ座の芝居を見たのは、80年代後半NHKテレビの「きらめく星座」だった。舞台は浅草のレコード店だが、徴兵忌避で日本中を逃げ回る長男、それを追うまむしの憲兵伍長、傷痍軍人と結婚した長女と奇想天外なストーリーの展開、レコード店なので流行歌はたくさん出てくる。「愛國の花(古関裕而作曲、渡辺はま子歌)に合わせて夏木マリと斉藤とも子が踊るバケツ体操には腹を抱えて笑った。そして戦争の悲惨と矛盾というテーマもしっかり付いている。シナリオ、歌、笑いが兼ね備わった井上の芝居にすっかり魅せられた。
キャストも父・犬塚弘、母・夏木マリ、長男・橋本功、長女・斉藤とも子、その夫・名古屋章、下宿人の広告文案家・すまけい、兄を追う憲兵伍長・藤木孝とバッチリの役柄だった。演出は木村光一かと思ったら井上自身だった。
その後、地方から東京に戻り実際に観劇できたのは91年7月池袋のサンシャイン劇場で上演された「頭痛肩こり樋口一葉」だった。この作品は84年4月のこまつ座旗揚げの演目で、84年、85年、86年、88年に次ぐ5演目だった。キャストは母・佐々木すみ江、主役の夏子・原田美枝子、妹邦子・あめくみちこ、旗本稲葉家の鑛・三田和代、中野八重・風間舞子、幽霊の花蛍・新橋耐子、みな達者だったがとくに新橋の幽霊がよかった。演出は木村光一。観て損はなかった。
以降、92年2月「きらめく星座」、11月「日本人のへそ」、93年4月「イーハトーボの劇列車」、7月「マンザナ、わが町」と年に2本くらい、この機会に調べると全部で30本、「きらめく星座」「イーハトーボの劇列車」「太鼓たたいて笛吹いて」は2、3回観たので井上の芝居を34回観たことになる。「マンザナ、わが町」は初演で、97年の「紙屋町さくらホテル」以降の新作18本のうち9本を観ている。井上の新作観劇はかなりリスキーで「私はだれでしょう」(2007)が台本遅れで初日が8日延びたことなど遅筆堂の名にふさわしいものだった。たとえ幕が開いても稽古不足が明らかなものもあり、はじめの5日くらいのチケットは極力買わないようにしていた。しかしシナリオそのものはいつも緻密でレベルは高かった。
たくさん見ているようで、抽選にはずれたのだったと思うが観たかったのに観られなかった作品が2つある。ひとつは「箱根強羅ホテル」(05)、もうひとつは「ムサシ」(09)だ。シナリオは読んだが、機会があれば観てみたい。
劇団は、たいていはこまつ座だったが、「紙屋町さくらホテル」と東京裁判・夢シリーズ3作は新国立劇場、「しみじみ日本・乃木大将」は井上の死後2012年秋に蜷川幸雄演出の彩の国さいたま芸術劇場で観た。そういえば92年に観た「表裏源内蛙合戦」はテアトル・エコー新劇場オープニング記念で、熊倉一雄演出のエコーだった。
劇場もほとんど紀伊国屋か紀伊国屋サザンシアター(97年以降)だったが、新国立と埼玉以外にも、麻矢さんが座長になりホリプロと提携した「組曲虐殺」(09)は天王洲・銀河劇場で、「ロマンス」(09)はシス・カンパニーとの共同制作だったからか三軒茶屋の世田谷パブリックシアターだった。チェーホフの劇作を描いた作品のこのときのキャストは、大竹しのぶ、松たか子、段田安則、生瀬勝久、井上芳雄、木場勝己と豪華だった。
車が高速で走る脇を、この道でよいのか不安を感じながら歩いた夜の天王洲や、与野本町から夏の暑い道を歩いたことなど、ホームグラウンドではない劇場の場合、付随した思い出がよみがえる。
井上が亡くなったのは2010年4月9日だが、1か月前の3月6日には「シャンハイムーン」、死後1週間の4月17日には東京裁判三部作の「夢の裂け目」、半年後の11月には群読劇「水の手紙」「少年口伝隊1945」を観ている。それどころではなく生前から上演が予告されていた「木の上の軍隊」を3年後の13年4月シアターコクーンで観た。井上のメモをもとにした蓬莱竜太のシナリオだったので緻密さは薄かったが、藤原竜也、山西惇、片平なぎさの3人の個性が強く印象に残っている。3人だけの少人数の芝居だったからかもしれない。
劇場で売っていた季刊「the座」が手元に23冊ある。2010年2月の65号シャンハイムーンまでは小田豊二編集長だったが、主要キャストと演出者へのインタビュー、スタッフの一言または紹介、作者の言葉、テーマの背景紹介にとどまらず、テーマを二、三方向から切り込んだ記事あり、連載あり、こまつ座の近況ニュースありと、一般的な演劇パンフとはレベルが数段階違う充実した誌面だった。
その他、木村光一、栗山民也、鵜山仁ら演出家のこと、宇野誠一郎、宮本貞子らスタッフのことにも触れたいが、今回はやめておく。座長が都さんだった時代は、いつも入口で腰を低くして観客にあいさつされていたことだけ書いておく。

「井上ひさしの子どもに伝える日本国憲法」絵本のパートの憲法9条
小説も短編だけでなく長編「吉里吉里人」(81)、「一週間」(2010)などもストーリーの面白さで読んだが、戯曲ほどには記憶に残っていない。ただ「小中学生にすすめたい井上ひさし作品」(井上事務所)のなかの1冊「井上ひさしの子どもに伝える日本国憲法(講談社 06.7)は、今回見直してみてやはり名作だと思う。井上が「これだけはぜひ読んでおいてほしい」と思う「前文と第九条」をやさしく書いたもので、岩崎ちひろの絵を配した絵本「憲法のこころ」とお話「憲法って、つまりこういうこと」の二部から成る。井上は言葉を選ぶとき(漢語やカタカナ英語でなく)大和言葉を選ぶという。「どの言葉を使えば一瞬で分からせることができるかは、劇作家の腕の見せ所」とのことだが、本書でもその腕が発揮されている。
「絵本」の9条のところには「私たちはどんなもめごとが起こっても これまでのように、軍隊や武器の力でかたづけてしまうやり方は選ばない」「私たちは戦(いくさ)をする力を持たないことにする」「また、国は戦うことができるという立場もみとめないことにした(p26-28)とある。
「お話」の9条のところには、「日本ができることは、武器や兵士を外国に送ることではないはず。日本は力がある国ですから、その力を世界の人たちの役に立つ方向に使えば、りっぱに生きていけます」「問題が起こっても、戦争をせず、話し合いを重ねて解決をしていく。その考え方が古くなったとは、私にはけっして思えません(p46-47)とある。
「私たちの使命」のところには「将来、核戦争などの不幸が起こらないためには、日本国憲法の考え方を大切にするしかない。そしてそのことを人類に示す使命を負ったのです。これはたいへんな使命です。(略)日本国憲法は、人類の歴史からの私たちへの贈り物であり、しかも最高傑作だと私は信じています」(p52-53)と書いている。
井上が亡くなったのは10年前なので、8年近い第二次「長期」安倍政権を見なくてすんだ。そして東日本大震災と福島原発事故も体験せずにすんだことは、ある意味では幸運だったともいえる。逆に安倍継承の菅内閣が始まった現在、子どもだけでなくわたしたちも自公支持のひとたちも70ページほどなので、読むとよい。「いまでは信じられないことですが、昭和20(1945)年の日本人男性の平均寿命は、たしか23.9歳でした」で始まる「はじめに」、「なにか大きな失敗をしでかしたあとは、ああ二度とあのような失敗をしないようにしようと思う。そこが人間のすばらしいところです」と始まる「あとがき」も味わい深い。
井上は小田実、澤地久枝らと並び、2004年6月発足の九条の会の9人の呼びかけ人の一人になった。なるべき人がなったといえる。

山と田が見えるひさしのふるさと山形県東置賜郡川西町(旧・小松町)
(写真撮影は会場内座敷のこのパネルと入口周辺のみ可能だった)
井上の足跡は、自身の小説のあちこちに断片的に出てくるし、前妻・好子さんや都さんら娘の文章もある。しかし全体像はまだわからない。関係者の多くが存命のいまのうちに、「評伝・井上ひさし」をだれかがまとめてくれることを願う。
またこの展覧会をみて、仙台文学館や山形の遅筆堂文庫をはじめ主要6館に多種の資料があるようだ。機会があれば見に行きたい。 

世田谷文学館
住所:東京都世田谷区南烏山1-10-10
電話:03-5374-9111
開館日:火曜日から日曜日(月曜祝日の時は水曜から)
開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで)
入館料:200円、高校・大学生150円、小・中学生100円
 (井上ひさし展など企画展は別途)

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
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