PLANET LULU GALAXY!

ルルの日記

無題・2

2006-01-27 01:22:55 | 
ハンニバル・カニバルの嗚咽
肉を喰らう物音
10年かけて
考えた
愛情の儀式
僕は
何も変わってなかった
時が経ったと
思ったのは気のせい
いくか?
もうすぐだ
否!!
OK!!
しかばね
とらずに
何を知る?
屍体を
見たか?
それを
確認したか?
終わったか?
それを
認識したか?

フェリーニと
オルゴール
ずっと
まわり続けていた・・・。
世界は変わったか?
大部分はね。
もう感傷に浸ることも
なくなった。
犠牲(サクリファイス)になったものは
何もの?
状況かな?
それは
あいまいな・・・。

祭りは
10年かけて
めぐってくる
ここで
いくか?
食らわれる?
食らう?
大差ないよ
魂は
おいていけ!!
それとも屍体だけ・・・。
難しくはないよ
それは
僕が成長したことを
あらわす
その分
つまらなくは
なったかな・・・?
イヤ
いつでも
いらない知識は
ふりはらえる
そうなると
僕はまた
新しく
生まれるんだ
僕の意識しだいだね・・・。
それでも
時をゆく
カーニバル

形状は
おいていく
まざりたいよ
僕ら僕ら僕ら
いくいくいく
僕も
また
新しき
君と・・・。




                   〈27歳〉
コメント (4)
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Tomorrow Belongs To Me

2006-01-24 21:21:40 | 小説
ー序章ー
経営不振でほうりだされたブロイラーの廃墟の中で暮らす野良犬。
その犬の告白文としての物語。
第二次世界大戦を目前にしたベルリンでの話。

なぜ僕がここに居るか。

ユダヤ人資産家の飼い犬だった、〈僕〉はナチスによるユダヤ人狩りの厳しくなる中、アメリカに亡命した資産家の青年に捨てられ、野良犬となった。
犬同士は、遠吠えにより、コンタクトを取り合っており、当然、ナチズムとしての犬、資産家としての犬など、いろいろな思想を持つ犬がいる。
野良犬となった〈僕〉は、ナチスの犬に追われるが、恐慌の中、いらだった人間たちに、ユダヤ犬、ナチ犬かかわらず、“犬のように”殺されていく。

ー本編ー
僕は、その犬を知っていた。ナチ犬たちの「明日は我がもの」の大合唱の中、小さくだが、僕の耳に届いた遠吠えがあった。(団体に属さない、個人としての遠吠えと言うのもある。)
いかにも潔癖そうな、キンと張りつめた声で、歌っていた。
「私は誰の子供も生みたくないの。異犬でも同犬でも同じく。かならず悪魔が生まれるから。私は私として死んでゆきたい。」
口火をきったのがこの犬だった。最初はかすかで、澄んだ歌声だった。
最後には大合唱になっていた。

《メス犬の昔話》
「私はアルコール中毒犬で、詩犬だったわ。それ以外の存在ではなかったし、なりたくもなかった。」

僕たちは何も生み出さないだろう、生み出す可能性があるにもかかわらず、自分たちの意志で。

アルコール中毒犬がかすかな声で「明日は我がもの」を歌っていた。

「最初は、その歌も、君のような純粋で、潔癖な個人が歌い始めたんだろうね。」

《CAST》
ユダヤ犬・・・男色犬。夢想を描く、哲学犬。

アルコール中毒犬・・・メス犬。詩犬。目の周りが真黒にふちどられて
    いる。      
    まるで、えぞいたちのマフラーを首に巻いてるようないでたち。
    そうとうの美犬。

「こんなに立派にみえる毛皮だって、水をかければぺちゃんこになっちゃうでしょ。この妙な着ぐるみの中で、本当の私は痩せ細っちゃってるのよ。」 
「私の飼い主は、アメリカ人だったわ。キャバレーのショウガールをやっていたの。」 

アメリカに旅立った主人を追う手がかりもなく、この廃墟の中で、彼との思い出を反芻しつつ生きていかなければならないのか?
僕はすっかりまいってしまった。
“犬らしく” 耳を後ろにぺちゃんと倒し、おなかを冷たい地面にぺったりとつけて、前足に頭をのせて、悲しげにキュウキュウと鳴いてみた。

僕には もはや回想しか残されていない。

そもそも、僕はどこに生まれたんだ。
単にユダヤ人である主人を持っていただけじゃないか。

「みんな、私の美しい毛皮を見ては、殺すのを躊躇したわ。」 

それなら、君は、こんな廃墟の中に逃げ込む必要もなく、どこぞの飼い主にでも飼ってもらって、生き抜けたかもしれないじゃないか。

「誰の子供も生みたくない。それに私は一応主人を愛していたからね。どこにも帰化するつもりはない。」 

なんてことはない。僕たちは主人に捨てられた哀れな野良犬じゃないか。
結局僕は、主人を愛している限り、ユダヤ人の飼い犬としての原罪を背負いつつ、観客ナシの中で、一人格闘を続けることになるだろう。
僕はくやしさのあまり、アメリカ大陸に渡った自分の主人の後を追ってやろうかと思った。
だけど犬ってやつは、自分の知ってる道を通り、知ってる場所に行き着くことは簡単にできるが、新しい道をさぐり、新しい場所に行き着くことは、全く苦手ときてやがる。
僕はアメリカがどういう場所かなんか知らない。想像もつかない。
でも、僕は、あらゆる想像をつくして、その場所の実体を思い描こうと努力した。
追っ手がくるまで、この閉ざされた空間のなかでできることといったらそれくらいのもんだ。
主人と最後にかわした対話について考えた。
「◯◯わかるだろ、僕は行かなくてはならない。僕は原罪をふり捨て生きるんだ。この場所には『原罪としての僕の存在』の屍体しか残らない。そしてそれが君なんだ。やっとやっと僕は君を捨てることができるんだ。殺さないよ。この戦乱の中じゃ生きてるも死んでるもそうかわらないからな。君も自由〈フリー〉さ。鉄柵をこえてどこへでも行けばいい。」

僕は月を見上げた。
月は2つに分裂し、僕の周りをぐるぐる周りだした。
突然目の前に アルコール中毒犬が現れ、フォックス・トロットを踊りだした。
「明日は我がもの」は、カストラートの少年によって歌われ、それはやがて大音響のオーケストラにとってかわられた。
主人が現れた。微笑をたたえ、僕に向かって歩いてくるが、一歩歩くたび主人の足から砂がふき出し、僕が声を出そうとすると、破裂するように主人の体は消えた。
“アデュー” すべての映像は消え、2つの月は天空に上がった。
僕はその時 自分の姿を見た。

僕は腐っていた。カラスにとり落とされたざくろの実のように腐って、横たわる屍体だった。
僕は あのブロイラーの廃墟の中で 死んでいたのだ。

もしかしたら、僕は ものすごく血が見たかったのかもしれない。


屍体としての弟一日目が始まった。             
コメント (13)
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ルル、大江健三郎を読む

2005-12-02 14:28:39 | 
23歳の時、頭が良くなりたいと思って、大江健三郎を読み続けた。
小説を書こうと思っていたので、難しそうな小説の構造が、どうなっているのか、学びたかったのだ。
かなりの数を読んだはずなのに、「死者の奢り」の屍体のうかぶプールの情景と「我らの狂気を生き延びる道を教えよ」に出てくる、交通事故死した実在のハリウッド女優ジェーン・マンスフィールドがモデルだと思われる、肉体派女優のペネロープ・マンダリン(肉体派にぴったりのいかにもこぼれおちそうな名前デスネ)の存在しか覚えていない。読書のしかたが間違ってたのかも。しかし、新潮文庫の大江健三郎の本って、字が小さすぎて読みにくかったなぁ・・・。わざわざあんな小さな文字にする理由ってなんなんだろう?

この前ブックオフで、10代の頃から集めた文庫本を大量に売りました。しかし7000円くらいにしかならなかったのがかなしい・・・。
読書って疲れた。もうしばらくの間、本は読みたくない。もともと頭の良くない私は、論理で作品を理解するということができないので、ずっと、“共感”という方法で本を読んできました。
ドストエフスキーの「地下生活者の手記」を読んでは、地下室の住人になりきり、カフカの「変身」を読んでは、毒虫になった気になり、カミュの「異邦人」を読んでは、母親が死んでも何も感じず、太陽がまぶしかったからアラブ人を殺す主人公の気持ちをわかろうと努力する・・・。比喩とか隠喩とか、メタファーとかアイロニーとかがぜんぜんわからなかったのだ。ぜんぶ真に受けてしまった・・。そんな感じなので、読書し続けるのは死ぬる思いでした。髪の毛が真っ白になりそうだった。そんな地獄めぐりして、よく生還したと思う。
そう思えば、ある意味強靭な精神の持ち主だといえるのかな。私。

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