茫庵

万書きつらね

2012年01月04日 - 詩と技巧 5

2012年01月04日 11時41分23秒 | 詩学、詩論

詩と技巧 5

 前回は漢詩で使う「詩語」というものについて考察しました。 借り物の詩語では自分の詩を賦すとはいえないのではないか。 それでも詩語を使うのはなぜか。 なぜ自分の言葉より詩語が優れているのかについて論じました。 詩語はたった一人の個人の独断ではなく、過去の名詩名句から厳選された珠玉の表現のエッセンスを集めた物であり、そこに自らの詩情を見出して綴っていく事は、即ち自ら詩を賦すと言って良い、という結論でした。


道具としての言葉

 第一回に少し戻るような内容になりますが、芸術としての詩を考えた場合、他の芸術のように作品を作る為に素材と道具が必要なはずです。 詩の場合、素材は詩の内容、主題となるものです。 道具は即ち言葉、言語です。 言葉を使って何をどう表現するかは各言語によって適不適があり、それをどう使いこなすかは詩人の技量と才能とセンスに依るところが甚だ大です。

 人を感動させ得る表現方法、というのがあるとして、ではそういう表現を見たら、人は必ず感動するのか、といいますと、そこは人情の機微といいますか、必ずしもそうではないですね。 やたら技巧が鼻について敬遠される詩もあります。 また、いかにもお涙頂戴的な安易な表現という事で却って不快感を与えたりもします。 そこには詩人の人間性や品格まで合わせてトータルな判断があります。 従って、誰でもこれこれの表現を真似さえすれば感動的な詩が書ける、と結論づける事は出来ません。 そこから自分なりの何かを感じ取って、自分の言葉であらわす工夫を重ねた先に、真にその言葉を自分の血肉と化した表現が待っているのです。

  ところで、前回ちょっと触れたように、言葉は詩の書き手だけのものではありません。詩語も定型も、読み手の側にも共通した基盤があるとき、詩の味わいは一層深くなります。俳句の季語のように、一語で様々な詩情を表現し得るような場合もあります。 こうなると、くどくど表現する必要はなく、一語を据えるだけで詩全体が引き締まり、強烈な印象を放つようになります。 読む側も共通の素養を持てばこそ成り立つ世界です。

 この世界は非常に骨太で深淵ですが、反面、詩人が書く時も書いた物を読む時もすべて作法通りで創造力はその範疇でのみ発揮されます。 例えば、漢詩では「猿」は哀しみの象徴として描かれるので、遠くから猿声が響く、とあればその声は必ず哀しげに響く訳です。 伝統的な定型詩にはこの手の仕掛けが沢山あるはずですが、そういうもので詩情を固定化するのもされるのも嫌だという動きが現代詩につながっていく訳です。

 定型のしがらみを捨て去り、個人のポテンシャルを作品に最大限にぶつけるのが現代詩です。読み手と書き手の間で共有する情報が無い訳ですから分かり難いのは当然ですよね。 でも、それは逆に云うと、読み手も詩人の意向を無視して勝手に解釈すれば良い訳で、そこに徹した時にお互いに自由な表現(作者が思い通りに表現する自由、作者の意向に縛られず表現を味わう自由)世界を満喫出来る、という訳です。 ですから現代詩を読むとき、詩人の意図や思いを察する必要はありません。 もちろんそういうものに思いを馳せながら読むのは自由ですが。

 ところで言葉が道具であれば、絵を描く人が繰り返しデッサンをするように、詩にもそうした反復練習のようなものがあるのでしょうか。 音楽演奏や絵画では練習の成果は明白で、客観的に出来栄えから確かめる事ができますが、詩の技量はどのように確かめれば良いのでしょうか。

 色々と異論は存在するでしょうが、方法はあります。 詩の練習の手始めは素読です。 昔の人は、素読を繰り返す事で、読む、書く両方の技量が自然に備わっていったのではないかと思われます。 詩を賦すのも学問のうちですから、論語や大学だけでなく、詩経や唐詩選なんかも読まれたことでしょう。 他にも往来物や尽くし物など実用知識や雑学の書も豊富にあったはずです。 私の子どもの頃の教育では古典の素読なんて全く行いませんでした。 詩の味わいも知らずに育ち、読むのも書くのも面倒なものとして刷り込まれて×十年。 紆余曲折しましたが、結局昔の人の流儀に戻ってきた、という感じがします。

 素読百編詩自成

 なんちゃって。

 私にはもうひとつ昔の人の知恵に助けられている事があります。 それは筆写。 名文をとにかく理屈抜きで書き写す。 書きまくる。 やってると「なるほど」と思う事が多く、その表現の一部または全部をどこかで使ってみたくなります。 こうして真似っこから次第に自分の表現が定着していくのです。 



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