麻生平安名の変な喫茶店 その時俺様が動いた

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裸の王様ならぬ裸の首相

2010年04月24日 | 報道/政治・経済

◆【政論】首相のすり替えに違和感 「愚か」と「愚直」(産経新聞) - goo ニュース

詐欺師ならば当然言葉のすり替えなど平気でやるものだ。黒鳩山がそれを用いるは別に驚きもしないが、この男が息をするだけで、確実にこの国益が損なわれるのだから国民としては堪ったものではない。

(引用)
鳩山由紀夫首相と自民党の谷垣禎一総裁の21日の党首討論を聞いていて、強い違和感を覚えた。首相が米ワシントン・ポスト紙に酷評された「愚か」(loopy)とする見方を認めたことにではない。「愚か」という表現を、巧みに「愚直」という別の言葉にすり替えたことに対してだ。

「ワシントン・ポストの言うように、私は愚かな首相かもしれません」

討論冒頭、首相はあっさりとこう述べた。平野博文官房長官は「謙虚さの表れ」と持ち上げたが果たしてそうだろうか。首相は次の瞬間には同紙にはない表現を織り交ぜたのだ。

「愚かだったから愚直だったから。あるいはそうかもしれません」

そして、次の段階では「愚か」を省き、「愚直」だけを使った。まるで言葉の手品を見るようだった。

「少しでもそれ(沖縄の負担)を和らげることができたら。愚直にそう思ったのは間違いでしょうか」

首相は21日夜、記者団に「愚かな首相」と述べた真意を問われた際にも「(沖縄県民のために)愚直さを生かさなきゃならないときだ」と強調するなど、「愚直」を7回も繰り返した。

だが、「愚か」と「愚直」を混同するのはおかしい。複数の辞書を総合すると、前者は文字通り「考えが足りないさま」「ばかげているさま」で英語の「loopy」に通じる。一方、後者は「正直いちずなこと。ばか正直」などとあり、不器用なまでの真っ正直さを表す言葉なのだ。

「愚か」と「愚直」を都合のいいようにすり替えるとは、正直な態度とはいえない。とても愚直を自任する資格はないはずだ。

「首相のあまりにも軽い言葉が、国民の政治に対する信頼を失わせることを憂慮している。一国の首相が政策もよく分からないで、国民を狼狽(ろうばい)させるような発言をしてしまう。こんな朝令暮改を繰り返す状況なら、国民はたまったものではない」

首相が民主党幹事長時代の平成20年11月の記者会見で、当時の麻生太郎首相を批判した言葉だ。省みて、自らを恥じる気持ちはわいてこないだろうか。
(引用終わり)

黒鳩山が自らを恥じる気持ちなどわくわけがなかろう。そんなものがあったらとっくに議員辞職している。

言葉のすり替えと言う意味でならば、黒鳩山が掲げる「友愛」についても同様です。コレは本来「兄弟との間や友人との間に対する情愛」という意味なのだが、 鳩山友愛塾を見るに、黒鳩山の辞典翻訳すれば「これからの世界は、人種、宗教、民族、国家、言語の壁を超越し、ともすれば乖離し、対立しがちな人間と人間、自然と人間との真の共生」「個の確立をはかり、世界の平和と人類の幸せを実現する為、有意の人材を育成する」との意味に繋がります。
「友愛」にして上記のように黒鳩山や祖父は捉えている。弟も母親も、坂本竜馬や公職選挙法等の解釈において、常識的な次元を超えて"自己都合解釈している節"がある。
明らかにおかしいことについて、自分がおかしいとの認識がなく、また仮に犯罪を犯したとしても、自分が犯罪を犯した認識などまるで持たない。ここまでくると「何らかの病気」に感染しているとしか思えない。

そもそも「愚か」にしても「愚直」にしても、一国民の意見としては、首相が"どちらであってもいけない"のです。そんな奴は"害"にしかならない。それをわからないで記者会見で述べるのだから、まさしく「真正馬鹿」といえます。
黒鳩山は自分を「愚かかもしれない首相」と評してはいますが、実際のところ、自分を馬鹿とは思っていないように思える。しかし「裸の王様」を例とするならば、政治に関心ある国民も。そして日本に関心ある世界の人々も知っている。

"黒鳩山は裸で道を闊歩していること"を。服を着ていると思っているのは(黒鳩山)本人だけだろう。