チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「イン・目盛・オヴ・マイ・fa"r"ther」

2009年01月31日 01時14分26秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
家の整理に専ら状態だった。
土日だけの家だったとはイエ、
各時代の品々が、
幼稚園時代、小学校時代、中学校時代、などと、
層を成して堆積されてる。それぞれの時代の
「竹の物差し」が出てきた。が、幼稚園のときの
忍者グッズ、とりわけ、おもちゃの
手裏剣が出てきたときなど、まるで、
シュリーマンのような気分だった。この頃の私は
「オレンジ」色が大好きだったことが、
丸められた「お絵描き」を開いて、
懐かしく思いだされた。未だに、女性の口紅は
オレンジ系が好きである。また、子供の頃は
イエロウも好きだった。それはどうでも、
私の作業効率はきわめて悪い。ブーデーな体に似つかわしく、
超トロイのである。ちなみに、
シュリーマンは音読して外国語の文章を丸暗記するという学習法で、
十数箇国語を話せたらしい。専らカタカナ式外国語で、
カタコトも話せない私とは大違いである。ともあれ、
pcを開く時間もなく、ひたすら、
過ぎ去った日の空気を吸い、
思い出というニオイに耽りながら、
残すものとそうでないものを取捨してく作業は、
非日常の世界だ。おかげで、
普段から拙脳な私が、さらに、
片山晋呉と出川哲朗の声としゃべりを
聞き分けれなくなってしまった。それにしても、
時間の流れというものは、潔い。
どうあがいても、変更も取消もきかない。
同経度・同緯度・同海抜に存在しても、
時間が一致しなければ、
遭遇・衝突、合体はしない。
「信濃なる、チグマの川の、サザレシも、
  君し踏みてば、玉と拾はむ」(詠み人知らず)
(拙大意:信濃国に流れる千曲川の「河原」の
     たかが『小石』であっても、
     他ならないあなたさまが踏んだのなら、
     『恋し』という、川の流れと同じく
     一方にしか流れないことは「変わら」ない、
     報われない私の気持ちへのせめてもの慰みに、
     宝石だと思って拾うことにしましょう)
この万葉歌は、人間のもっとも高等な感情を持ちあわせながら、
生物の本能によるサヴァイヴァル競争にはなじまないヒトの、
「歌」というDNAの傑作コピーである。ところで、
ヒトの「記憶」とは潔くない……昨日のことも
「遠い過去」に感じれたり、はるか昔のことも
鮮明に覚えてたりする……などと、思いこむ、のである。実際は、
昔のことは遠のいて、ついさっきのことは今しがたに、
しか知覚してないというのに。
チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」は救いのない結末である。その終曲の、
「子守歌」がいま、私の拙脳の中で鳴ってる。
♪ド>シ・>ラ>ソ│<ラー・ー<シ│<ミー・>ソー│
<ドド・>シ>ラ│<レー・ー>ラ│>ソー・ーー│
<ラ>ファ・<ラ>ファ│<ラー・ーー│ラ>ファ・<ラ>ファ│<ラー・ーー♪
父の家の私の部屋の目覚ましに使ってた音楽だったので、
ここ数日、毎日聴いて耳についてる、というだけなのだが。
この歌は、悲しさを極めた悲惨な歌なのだが、聴くとなぜか
安堵レイな気分になる。

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