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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「チャイコフスキー ロココの主題の非対称性」

2012年02月02日 18時25分00秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー
米国の女子プロサッカーリーグが2012年のスィーズンを開催しない、
との決定が一昨日に下されたらしい。所属選手たちは、
"sad day."
"Can't believe how awesome the atmosphere was last night!"
などと悲しみ、嘆きつぶやいてる。つい3年前には
8ティームあったものが、現在はたったの5ティームである。しかも、
そのひとつが身売りされて、それが
リーグの方針と異なる運営をしそうなので取りやめたようである。
今年はロンドン五輪の女子サッカーでは王者米国の
打倒日本が必至であったはずである。
アビー選手など、主力選手の身の振りかたが
気になるところだが、どこで禄を食ムにせよ、
[ワンバックでもいい。たくましく育ってほしい]ものである。
なでしこリーグも経営が大変だそうであるが、
米国でも難しいのである。家計が苦しいといえば、
稼ぎと頭髪が薄い私はまた、日曜までに焼き上げなければならない
煎餅焼きが大量に溜まってしまってる。が、
手をつける気力がわかず、きれいなおねえさんのブログを
ブラウズしてる状態である。が、それも気休めにしかならず、
ココロここにあらず、というか、
ロココここにあらず、なのかどうかも判らない。
明日は節分である。拙文を連ねてる場合でもないが、
やる気が起こらないものはしかたない。

ときに、
2月2日というのは、現在MBL機構に属するナショナル・リーグが
1876年に創立された日である。現在のところ、
ナショナル・リークは16ティーム、アメリカン・リーグは14ティーム、
といういびつな球団数である。これは、
「対戦相手」が要る以上、奇数の球団数では
あぶれてしまう球団が出てしまう、
という論理でこうなってる。が、2013年スィーズン以降に、
等しく15球団ずつにする(プレイオフには各リーグ5球団ずつが進出)、
という案が練られてる模様である。ともあれ、
アメリカン・リーグができたのが1901年で、
ナショナル・リーグからメイジャー・リーグと認められたのが1903年であるから、
四半世紀も歴史が古い、といえる。そのように"伝統的"だからか、
ナショナル・リーグは現在でもDH制を採らない。ちなみに、
つい数年前にルールが改正されるまでは、
同点で決着がつかないときは、
アメリカン・リーグは午前0時59分でサスペンディドにされたが、
ナショナル・リーグは照明がなかったシカゴのリグリー・フィールドを例外として
決着がつくまで試合は続行された。そこで、
MLB史上もっとも「長い」試合といえば、
1920年のブルックリン・ドヂャーズ対ボストン・ブレイヴズの
延長26回、1対1の引き分けである。これは
照明設備がなかったためにそこで引き分けになったが、
MJB史上最長イニングの試合である。そして、ア・リーグで
上記の午前1時を過ぎて新しいイニングに入らない規定が
適用された例として最長時間試合となったのは、
1984年のシカゴ・ホワイトソックス対ミルウォーキー・ブルーアーズ戦である。
19時30分に開始されたゲイムは翌0時59分時点で、
延長17回終了、3対3の同点でサスペンディドとなり、
翌日というか同日の午後に続きが行われ、
延長21回の表と裏にそれぞれが3点ずつ入れ、
ついに延長25回裏にシカゴのハロルド・ベインズの
ソロ・ホームランで決着した。延長25回、7対6、計8時間6分だった。
シカゴにはカールトン・フィスク捕手が、
ミルウォ-キーにはロビン・ヤント遊撃手、ベン・オグリヴィー外野手、
テッド・スィモンズ一塁手(元来は捕手)、そして、
先発したドン・サットン投手など、
往年の名選手らがいた。そして、
シカゴは最後に、同日の本来の試合に先発予定だった
トム・スィーヴァー大投手が1イニングだけ登板し無安打無失点に抑えた。が、
そのためにこの大延長戦の勝利投手となった。がしかし、
それだけではなく、スィーヴァー投手はこのあとの夜の
本来の試合に先発して8回1/3を投げて4失点ながら、
5対4でこれも勝利投手となったのである。当然、
ユニフォームの右膝あたりはマウンドの土で汚れてた。ともあれ、
ナショナル・リーグの延長26回引き分けゲイムも、
アメリカン・リーグの(延長25回)8時間6分の試合も、
ともに「5月」に行われたものだった。
5月は野球にとってなにか試合をなかなか決着させないような
気候なのかもしれない、maybe。ちなみに、
1984年の時点では、MLBは
ナショナル・リーグとアメリカン・リーグが現在のように
それぞれ東中西の3つずつではなく、
それぞれ東西の2つずつに分かれてて、
計4つのディヴィジョンで構成されてた。

ナショナル・リーグができた1876年の暮れから翌年始めにかけて、
チャイコフスキーは独奏チェロと管弦楽の
「ロココふうの主題による変奏曲」を作曲した。
チャイコフスキーが敬愛したモーツァルトの時代ふうな曲想だという。が、
その主題はチャイコフスキー自身のオリジナルである。そして、
A、B、C、D四つの部分から構成されてる。

A=
♪ソ>ミ│<ファーッ>ミーッ・<レーッ<ミーッ│>ドーーー・ーー、
ドー│<ラー、ラーッ、・>ソー<シ>ラ│>ソーー>ファ・>ミー♪

B=
♪ソー│<ラー、ラーッ、・<シーッ、<ド>ラ、│>ソーー>ファ・>ミー、
<ソ<ラ、│<シーッ、シーッ、・<ミ>レ>ド>シ、│>ラーーー・>ソー♪

C(木管群)=
♪ソ<ラ│<シー、>ラ<シ・<ドー、<レー│>ソー、<ドー・>ソー、
ソ<ラ│<シ<ド<♯ド<レ、・>シ<Nド>ラ<♭シ、│
>ソ<♭ラ>♯ファ、♯ファ・<ソー、>♯ファー│<ソー、>♯ファー・<ソー♪

D=
♪(弦楽)♯ソー│ーッ、>Nソ>ファ・>ミー、(独奏チェロ)>♯レ<ミ、│
<ミーーー、・>レ>ド、>シ、>ラ、│>ソ(<ラ<シ>)<ラ、>ソー・ーー♪

この主題群には、翌年に作曲される
「オネーギン」の中の動機などがすでに含有されてる。ともあれ、
この主題群は、A、B、C、D四つの部分が
均等もしくは対称的または整然とは連ねられてない。
[A*2=8小節→B*1=4小節→A*1=4小節→C*1=5小節→D*1=3小節]
という、ロココ調に曲がりくねった「いびつな」形になってるのである。

チャイコフスキーはこの「変奏曲」を完成させた年の翌年にとりかかった
「ヴァイオリン協奏曲」でも、
第1楽章、展開部の後方に置いたカデンツァ終い、
独奏ヴァイオリンのトリルに導かせてフルート1管で主題を再現させ、
独奏ヴァイオリンがそれに絡んで主題をバトンタッチする、
という絶妙な場面を膳立てした。
この「ロココの主題による変奏曲」でも、
第5変奏の終いに独奏チェロにイ長調の属音をトリルさせて、
それに導かれる形でフルート1管に主題を再現させて第6変奏に移り、
独奏チェロにはトリルで上昇、という箇所を作った。そして、
その第6変奏の途中のカデンツァからまたチェロにイ長調の属音をトリルさせて、
それに導かせてフルート1管に主題を再現させ、独奏チェロはトリルで上昇、
というように曲を進ませるてのである。

この曲の序奏の、
♪ソ>ド、│<ラーーー・ーー、ラ>レ、│<シーーー・・ーー、シ>ミ、│<ドーー>シ・>ラー♪
の、クロマティカルに上昇するバスとのバランスに醸し出される
チャイコフスキーの品のある側面の雰囲気が、
「ロココ」という芸風にもぴったりと当てはまってる。
この曲を聴いたり思い浮かべたりすると、私はなぜか、
プチ・トリアノンでもサン・スーシでもなく、
小学生の頃によく叔父に連れてかれた中山競馬場とその周辺の、
細く入りくんで曲がりくねった道路を想起してしまう。
記憶(関連づけ)とはじつに興味深いものである。
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「チャイコフスキー オペラ『オルレアンの少女』 ジャンヌのアリア/ジャンヌ・ダルク生誕600年」

2012年01月15日 22時40分25秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー

チャイコフスキー オルレアンの少女 ショパン 軍隊ポロネーズ


日本時間の今日15日、第2スィードの49ersが地元SFに
第3スィードのセインツを向かえて行われた
NFLチャンピオンシップのディヴィジョナル・プレイオフは、
もの凄いゲイムだった。最終クォーターでは、
残り2分でQBのアレックス・スミス自らが27ヤードも走ってTDを決め、
29対24。が、その直後に、セインツにTBパスを許し、かつ、
ポイント・アフター・タッチダウンでは、2ポイント・コンヴァージョンを決められ、
逆に29対32と3点差をつけられてしまう。それでも、
残り1分14秒。このオフェンスでアレックス・スミスは
「使命をきっちり果たす」かのように、
沈着冷静にダウンを進める。
フィールド・ゴウルで同点をめざすのではなく、
タッチダウンを確実に決めるという気概が感じられた。そして、
残りたったの9秒。弾丸のようなTBパスを通し、再逆転。
PATのフィールド・ゴウルも決まり、36対32。
実に見応えがある試合だった。ちなみに、
敗者セインツのフランチャイズはその名が示すとおり、
New Orleansである。フランス王ルイ15世の摂政だった
オルレアン公フィリップの名を冠した米国の都市である。

現行暦であるグレゴリオ暦2012年1月15日は、
ジャンヌ・ダルク生誕600年にあたる日である。
Jeanne d'Arc(ジャンヌ・ダルク)といえば、百年戦争である。
百年戦争とは、おおざっぱに言えば、
フランスにおける王権をイングランドとフランスが争ったものである。
10世紀から当時まで、現在のフランス国土の
西側がイングランドの領土で、フランスの領土は東側だけだった。
王家間で婚姻を重ねるから、フランスの王位をイングランドの王子が、
イングランドの王位をフランスの王子が主張する、
ということが起こる。ともあれ、
百年戦争中の15世紀フランスで、"東フランス"の版図が相当に縮小して、
イングランドの占領下にあったOrleans(オルレオン)解放にあたって
フランス軍を鼓舞し、シャルル6世の王太子シャルルがフランス王になるべきとの
神のお告げを聞いたとして、ランスでシャルル7世として戴冠させ、
形勢不利だったフランスを救った、とされる少女である。が、
形勢を挽回したフランス軍はイングランドとのネゴシエイションを望み、
駆逐するまでの戦闘を望まなかった。ために、
徹底抗戦派のジャンヌは孤立してしまう。
シャルル7世と袂を分かち戦闘を続けてたためについには、
イングランドに与してたブルゴーニュ軍に捕らえられる。そして、
イングランドに"金銭トレイド"された。そうなれば、
クジラやイルカより有色人種のほうが劣ると考えるアングロサクスンの
残虐さの餌食である。チャイコフスキーは、
1878年から1879年にかけて、ジャンヌ・ダルクを題材にしたオペラ
"Орлеанская дева(オルリヤーンスカヤ・ヂェーヴァ)
「オルレアンの少女」"を作曲した。台本は作曲家自身による。
音楽の友社から「作曲家・人と作品」スィリーズの
「チャイコフスキー」を著した伊藤恵子は、その中の
「生涯篇」でも「作品篇」においても、
<<ジャンヌの処刑はシラーの原作よりはるかに詳らかで残酷に描いてる>>
という旨の記述をしつこく繰り返してる。そして、
<<その残酷さはチャイコフスキーの人物像を語るときには必ず指摘される>>
などというような趣旨の言葉を連ねるのである。
史実はイングランドのジャンヌに対する仕打ちは相当に残酷なものである。
チャイコフスキーの台本は<歴史に忠実でありたかったのか>と、
伊藤恵子はイングランドの残虐性を知ってるし、
チャイコフスキーがタネ本としたのがシラー原作の戯曲だけでないことも
重々承知した上で、ことさら
シラーの劇より残忍に描いたチャイコフスキーの人格否定を強調する。
それはさておき、
イングランドに引き渡されたジャンヌは、
Rouen(ルオン、いわゆるルーアン)で異端審問にかけられた。
魔女は悪魔と交わってるので非処女であるという理由で
処女・非処女の"確認"を検査されたが、チャイコフスキーのオペラでは
そんな場面は出てこない。また、判決後にジャンヌは
男装をやめて改宗することで死刑を免れる命乞いを選択した。が、
その後もイングランド軍のもとに拘留されてたので、
性的なhumiliation三昧だった。が、
そんな箇所もチャイコフスキーのオペラには取りあげられてない。
だからまた男装して"女らしさを消した"ために、
減刑を取り消され、即、火炙り、という
ワナにジャンヌはハメられたのである。最期、
焚刑にされたときにも、熱と煙で窒息死したジャンヌの服が燃えて
火がいったん遠ざけられ、"19歳の魔女"の性器が群衆に晒される、
という恥辱を与えられた。が、
そんなスィーンもチャイコフスキーのオペラには出てこない。
アングロ・サクスンに楯突いたり怒らせたりしたらお終いである。
原爆も落とされるし、アジア諸国で残虐行為をしたとでっち上げられ、
クジラやイルカを殺す野蛮な獣だとされる。ともあれ、
そのあとまたジャンヌの遺体は4時間も燃やされた。そして、
セヌ川に遺灰は流され、跡形もなくされた。キリスト教徒は、
「最後の審判」を受けるために死後も遺体をそのままの形で
葬る。が、それを何がなんでも阻むために、
イングランド人はジャンヌの遺体を焼き尽くしたのである。が、
そんな情景はチャイコフスキーのオペラには出てこない。
残酷なはずのチャイコフスキーが書いた台本なのに、不思議である。
伊藤恵子の著述を読んで残酷凌辱劇を期待した聴衆はさぞや
期待はずれに怒り心頭になることだろう。
こんなふうにチャイコフスキーを冷視する人物に伝記を書かせるとは、
ずいぶんと異端な出版社・編集者である。いっぽう、
専門外の人物で共感も感じてない人物の伝記を著述することで
対価を得る仕事を受けるなど、
筋のとおった人物なら潔しとしないはずである。

ジャンヌ・ダルクは、東フランスの現在のロレヌ地方のドンレミの農家で、
ユリウス暦1412年1月6日に生まれたとされる。この日は、
当時は当然ながら現行暦のグレゴリオ暦はなかったが、
遡ってあてはめれば1412年1月15日となる。ともあれ、
この「1月6日」という日は、キリスト教においては、
"Epiphany(イピファニ=公現祭、顕現日)"といって、
特別な意味を持つ。クリスマス後「12」日めのこの日に、
東方3マギ(Magi=magusの複数形)がベツレヘムに到着して、
イエスが神の子であることを公式に祝う日なのである。
ジャンヌは1月6日に実際に生まれてそうした意味で
「神のお告げを聞く少女」となったか、あるいは、
そういう人物だからその日が誕生日とされたか、
である。また、
d'Arc(弓の)というサーネイムから、
軍を率いる役目に相応しいとされたか、
あるいは、そういう役を担ったからd'Arc家の娘とされたか、
である。それから、
フランス語でJeanne(ジャンヌ)というファースト・ネイムは、
ヨカナーン、つまり、預言者ヨハネの名に由来する。すなわち、
ジャンヌという名が預言者に相応しかったか、あるいは、
預言者だからジャンヌという名とされたか、である。

オペラは4幕6場で構成されてる。その1幕終いのほうで、
神のお告げを聞いたジャンヌが使命感で立ち上がり、
それまで育った故郷に別れを告げるアーリヤが歌われる。
「(第7曲)アリーヤ・ヨアンニ=ジャンヌのアーリヤ」
「Andante non troppo、4/4拍子、無調号(実質変イ短調)」
♪ラーーー・ーーー、>ソ・・>ファーー、>ミ・>レーー、>ド│
<ファーー、>ミ>レーー、<ミ・・>ドー、>シー・>ラー、>ソー♪
という短いイントロに導かれて、
"Да, час настал."
(ダー。チャース・ナスタール)
「(拙大意)ああ、そのときが来たのよ」
というセリフでジャンヌが歌いはじめる。
♪ド(ダー)ーーー・ーーーー、・・>ラ(チャース)ーーー・ーー、<シ(ナス)ー│
シ(タール)ーーー・ーーーー・・●●●●・●●●●♪
そして、
変ロ短調、変ニ短調、など、
神の使命で立ち上がる決意をしたものの、
17歳のジャンヌの、それでもまだ故郷と離れがたい、
これから先の不安な心境を表すように、チャイコフスキーは
転調を目まぐるしく繰り返し、また、
→[Piu mosso]→[Allegro moderato]
→[Poco riten.]→[a tempo]
と速度も変じる。が、やがて、
[Andantino、アッラ・ブレーヴェ(2/2拍子)、1♭(ニ短調)]
に落ち着かせる。
"Простите вы, холмы, поля родные;
приютно-мирный, ясный дол, прости!"
(プラスチーチェ・ヴィ、ハルミィー、パリャー・ラドヌィーエ、
プリユートナ・ミールヌィィ、ヤースヌィィ・ドール、プラスチー!)
「(拙大意)さようなら私が育った村の小高い山や野原。そして、
心地よくて穏やかな、清らかな谷も、さようなら!」
♪●●ミー・<ラー>ミー、│>♯レーーー・・ーー、♯レー│
>(N)レー、<ファー・<ラー、>レー│>♯ドーーー・♯ドー、●●│
●●>(N)ドー・<レー・<ミー、│<ファー>♭シー、・<ドー<レー、│
<ミーーー・ーー、ミー│>ラーーー・●●●●♪
チャイコフスキーは中間で3/2拍子に変じ(実質、変ニ長調)、
♪ドーー>ソ・ソーーソ・<ラ<シ<ド<レ│
>ミーーー・>ドー●●・●●>、ラー│
<ドーー>ソ・ソーーソ・<ラ<シ<ド<レ│
>ミーーー・>ドー●●・●●<、♯ドー♪
と、ショパンの「軍隊ポロネーズ」の主題を引用する。ちなみに、
終幕でジャンヌが火刑にかけられる場面でも、チャイコフスキーは
「ニ短調」を採ってる。このアリアの「ニ短調」で
ジャンヌの最期を暗示させてるのである。
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「チャイコフスキー 歌劇『チェレヴィチキ』オクサーナのアリア/オクサーナは魔女、に非ず」

2011年12月24日 21時17分30秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー
[Ария Оксаны(アーリヤ・アクサーヌィ=オクサーナのアリア)]

現在の日本でクリスマス・イヴを「恋愛相手」と過ごせないと、
みじめな境遇ということになる。
まったくそのとおりである。
私がまさにそれだからである。
鍛冶屋のヴァクーラのように実はアクサーナにも想われてる
というような相手もあるはずもなく、
家政婦のサンタさんを雇う稼ぎもなく、
コンビニでなけなしの銭をはたいて買ってきた
苺ショートにかぶりつくのが関の山である。当然、
"ダーリン"なんて呼んでくれる相手がいるはずもない。

チャイコフスキー 歌劇「チェレヴィーチキ」第1幕第3曲、オクサーナのアリア
[Andante、4/4拍子(一部6/4拍子)、4♯(ホ長調/嬰ハ短調)]
♪ソ│<レー・ーー・・>ド>シ・<ド>ラ│
<シー・>ソー・・●●・>ミ<ソ(6/4)│
<ラー・ラ<ド・>シー・・>ミー・●●・●●│
>レー・ー<ミ・<ファ<ド・・>シ>ラ・>ミー・ミー│
>レー・ー<ミ・<ファ<ド・・>シ>ラ・>ミー・ミー│
●●・●●・<ラ>ソ・・<ラ>ミ・>レー・ーー│
<ミー・ーー・●●・・●●・●●・●●(4/4)♪

故エリザベス・モンゴメリー女史とニコウル・キッドマン女史の
鼻先の区別がつかない拙脳なる私には、これが
ウクライナの民謡に基づいたものなのかどうかも知らないが、
終いのほうに序曲冒頭の♪ラ>ソ<ラ♪動機を織り込んでる。

"Цвела яблонька в садочке,
Цвела, да повяла."
Неня дочку баловала,
Баловала, снаряжала,
Да и запропала.
(ツヴィラー・ヤーブラニカ・フ・サドーチキェ、
ツヴィラー、ダー・パヴィャーラ。
ネーニャ・ドーチク・バラヴァーラ、
バラヴァーラ、スナリャジャーラ。
ダー・イ・ザプラパラー。)
「(拙大意)お庭のリンゴちゃんのお花が咲いたのよ。
咲いたの、でも、しぼんじゃった。
お母さんは娘を目に入れても痛くないほど可愛がったの。
可愛がったの。何でも与えてくれたわ。
でも、もう、この世にはいないの。」

しおれた、といえば、
わずか数作のみ以外はしおれた花ほどの価値もない
愚作を連ねたリームスキー=コールサコフは、
チャイコフスキーの才能と成功を妬むと同時に、
負けん気が異様に強かった人物である。同人は
チャイコフスキーが題材にしたオストロフスキーの「雪娘」と、この
ゴーゴリ原作の「ヂカーニカ近郷夜話」のクリスマス・イヴの話を
対抗意識剥きだしにして二番を煎じた。とくに後者は、
チャイコフスキーの生前はその成功の陰で、同人の
稚拙でムラダらけのオペラが不評で皇帝からは
鼻も引っかけられなかったのに、
チャイコフスキーのスキャンダラスな死によって
帝室オペラの仕事が自分のもとに舞い込んだ
直後に手がけたものである。が、
才能の有無は負けん気や抜け目なさでは補償できない。

リームスキー=コールサコフ"作曲"、
"Ночь перед рождеством
(ノーチ・ピェーレト・ラジヂェースタム=クリスマス・イヴ)"第1幕「オクサーナのアリア」、
[Adagio molto、3/4拍子、1♯(ホ短調)]
♪ラーーーーー>ソ>ファ・>ミーーーーー<ファ<ソ・>ファーーーーー>ミ>レ│
>ドー<ミー>シー<レー・>ラーーーー<シ<ド<レ・<ミーーー●●●●│
<ソーーーーー>ファ>ミ・<ラーーー>ソーーー・>ファーーー>ミーーー│
>レー>ドー<ソー>ミー・>レーーーーーーー・●●●●●●●●♪

まるで中身がスカースカなおとぎ話のような愚作ぶりである。
こういう身の程知らずな輩はどこにでもいる。
クリスマス・イヴを女性と過ごせないみじめな、
天にまします主にもキリステられ見放された私に相応しいのは、
身の程をわきまえて家でフィギュアスケイティング浅田真央選手の、
作曲の才能がなかったにもかかわらず負けん気だけで
一世一代の傑作である「シェヘラザード」を作った
リームスキー=コールサコフの曲を使ったショートプログラムの演技を
TVでみてることである。
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「チャイコフスキーがメトロノーム速度を初めて譜面に採りいれたのは『イタリア奇想曲』」

2011年11月06日 22時39分09秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー

チャイコフスキー イタリア奇想曲


稼ぎが薄いうえに仕事量は多いので出かけれない。
といって、せっせと労働に励む勤勉さも持ち合わせてない。
11時に起きてTVを観ながら煎餅を焼く……はずが、
TVだけにしか気が向いてない。正午、
今日の「ウチくる」はつまらなそうなのでチャンネルをザッピングしてると、
5月に放送したものの再放送らしいが見のがしてた「BS歴史館」の
「ハリウッド100年/ローマの休日/赤狩りの嵐の中で」をやってた。
この映画はTVで観たの初めだったが、
オードリー・ヘップバーンが嫌いな私は、映画館では、二十歳過ぎてから、
船橋のララポートで観たことがあるだけである。それはともあれ、
語り合うのは、物書き中村うさぎ女史、
東大大学院教授の藤原帰一、女優斎藤由貴女史、そして、
「レッドバージ・ハリウッド」という著作がある映画評論家の上島春彦、
という布陣だった。要点は、共産主義者の
脚本家Dalton Trumbo(ドールトン・トランボウ、1905-1976)、
いわゆるダルトン・トランボと、非共産主義者ながら
リベラルな思想の監督William Wyler(ウィリアム・ワイラー、1902-1981)との、
友情のお話を、とくにモーモン教徒の斎藤女史が穿った意見を出し、
みながそれに対話してく、という番組である。この中で、
「トランボウはしばしばバスタブの中で脚本を執筆してた」、
ということについて中村女史が懐疑的な発言をした。すると、
東大大学院教授は「湯につかるといいアイディアが出るんじゃないですか」
と応じた。まだ、中村女史の
「ポウズじゃないかと思う」という感受性のほうがましである。
いずれにせよ、なぜ、トランボウがバスタブで執筆してるポウズをとったのか、
この4人は知らないようだった。とくに、東大大学院教授ともなれば、
[活動不能、バスタブ、執筆]
といったらすぐさま、
「ジャン・ポール・マラー」
を想起しないようでは情けない。
急進的革命派(ジャコバン派=共産主義の原点)だったマラーは
"持病の皮膚病"のために革命活動ができなくなって、
自宅で一日じゅう入浴してたのである。そして、
手紙を書いてる最中にジャコバン派と敵対してた
ジロンド派支持者のシャルロット・コルデー女史の訪問を受け入れ、
刺殺されたのである。刺殺はともかく、無学歴の
トランボウがマラーの故事を模したことも、
高学歴の先生には解らないらしい。

それに加えて、
"Roman holiday"という「原題」についても、
「"Holidays in Rome"ではなかったんですね」などと、
東大大学院教授は触れながら、その意味を解してなかった。
トランボウは低学歴でもコミュニストのインテリである。これは、
Sixth Baron, George Gordon Byron
(第6代バイロン男爵、ジョージ・ゴードン・バイロン、1788-1824)
の長編詩である
"Childe Harold's Pilgrimage(チャイルド・ハロルドの巡礼)"
の中の一篇に出てくる有名な言葉なのである。
"He heard it, but he heeded not - his eyes
Were with his heart, and that was far away;
He reck'd not of the life he lost nor prize,
But where his rude hut by the Danube lay,
There where his young barbarians all at play,
There was their Dacian mother - he, their sire,
Butcher'd to make a Roman holiday -
All this rush'd with his blood - Shall he expire
And unavenged? Arise! ye Goths, and glut your ire!"
(カタカナ読みは省略)
「(拙大意)
彼の耳にはそれが聞こえた。が、心には響いてなかった。彼の目は
心とともにあり、遠く離れたところにあった。
彼はかまわなかった。自分の命がなくなろうと勝負に勝とうと。
が、ドナウ川近くの彼の粗末なほったて小屋が建つところに、
遊び回る彼の素朴な子供たちと、
そのルーマニア人の母親がいることしか頭になかった。その父である彼が、
されて、ローマ人流の休日の娯楽のためにならねばならないのだ。
そうしたことすべてが一瞬にしてこみあげてきた、血が噴き出すとともに。
彼は死ななければならないのか? 復讐の機会も与えられないままに。
立ち上がれ! 汝らガリア人。汝らの怒りをぶつけろ!」

つまり、古代ローマではコロッセオで猛獣相手に、あるいは、
菅原道真が894(ハクシ)に戻そうよと建議してくれるわけもなく、
同じく剣闘士どうしで殺っせお合うことを余儀なくされた
グラディエイター(グラディアトール)らの犠牲、死が
ローマ市民の娯楽だったのである。おなじ人間なのに、
彼らの命は虫けらのように扱われ、見せ物とされてた。そして、
それは現在でもローマ観光などという
脳天気な遊山の種のひとつとなってる、
ということへの憤りをトランボウもしくはワイラーは皮肉を込めて
タイトルにしたのである。一般市民から搾取して巨万の富を築き、
贅沢三昧してる特権階級に対するルサンチマンでもある。だから、
コミュニストは自分が権力を手にすると、思想とは裏腹に、
豪奢な生活をし、私腹を肥やすのである。ともあれ、
バイロンが生まれつきのclubfootだったことと、
いま話題のお荷物国家ギリシャがトルコからの支配を脱するために
私財をなげうって支援したことも、彼らコミュニストの
シンパシーを得たのかもしれない。私は
シンバシの安飲み屋からも信用されないツケがきかない低所得者だが。

ともあれ、
マラーは湯につかりながらカップッチーノは飲んでなかったかもしれないが、
ジャコバンというのは彼らが拠点としてた修道院の名である。ところで、
cappuccinoという飲み物の名は、カプチン・フランチェスコ会派の
修道服の頭巾(cappuccio=カップッチョ)に由来するらしい。この
cappuccioという語はcapo(カーポ=頭)から派生した語である。
ラテン語ではcaput(カープト)、ゲルマン系では、
ドイツ語でHaupt(ハオプト)、英語でhead(ヘッド)である。
音楽におけるcapriccio(カプリッチョ)も同様で、
capro(カプロ=山羊/複数形capriは青の洞窟で有名な島名)
+riccio(リッチョ=曲がり)、つまり、
山羊の角のように不規則に曲がってるさま、気まぐれ、を表す。
ソナータのようにお決まりの形式でなく、いくつかの主題が好き勝手に
闊歩する曲である。というわけで、
決まりきった形式でないので、どのような構成になってるか
見当がつかないこともありがちなので、よく耳を
カッポじって聴かないといけない。

さて、
現行暦換算で11月6日が命日であるチャイコフスキーは、
"1880年またぎ"でその"元旦"をユリウス暦にせよグレゴリオ暦によ、
ローマで迎えた。すなわち、
1879年12月8日(現行暦換算12月20日)から
1880年2月25日(現行暦換算3月9日)まで、
の3箇月弱のローマ滞在である。そこで、
ジェラートを食ったり髪を短くしたり
スクーターに二人乗りはしなかったかもしれないが、
父イリヤーの死の知らせを受け取る。その数日後から、
<民謡からなる>"Capriccio italiano(カプリッチョ・イタリアーノ)"
"Итальяанское каприччио
(イタリヤーンスカエ・カプリッチョ)"
「イタリア奇想曲」(op45)の作曲が始まった。
イリヤーとイタリヤー。似てないかい?
スケッチは1週間ほどで書き上げられた。管弦楽配置は、
ペテルブルクの亡き父の墓参りをしてからモスクワに戻り、さらに
妹のカーメンカに着いてから5月に仕上げられた。一般には、
(チャイコフスキーにはめずらしく)"楽しい"曲、
という一面で捉えられてる。

[Andante un poco rubato(アンダーンテ・ウン・ポーコ・ルバート)、
八分音符=132、6/8拍子、3♯(実質ホ長調→実質イ短調)]
E管のトランペット2管の完全ユニゾンのソリがファンファーレを奏する。
♪ドーーーーー・>ソーーーー<ド│<ミーーーーー・ーーーーーー│
 ミーーーーー・<ソーーーー>ミ│>ドーーーーー・<ミー>ドー<ミー│
>ソーーーーー・ーーーーー<ド│ドーーーーー・ドーーーーー│
 ドーーーーー・ーーーーーー♪
和声附けはないが、ホ長調である。このファンファーレは、
投宿先のオテル・コンスタンツィの窓辺を通して毎朝聞こえてきた
兵舎の朝礼ラッパにインスパイアされたものだとされてる。これに、
オーボエ2管+クラリネット2管+ファゴット2管+ホルン4管が
ハ長調主和音の合いの手を入れ、
それに加え、コルネット2管+トロンボーン3管が(ホルン4管は退き)
ハ長調属和音の合いの手を差し、
上記に加え、フルート2管+コルノ・イングレーゼ+
ホルン4管+トランペット2管(トロンボーン3管は退き)が
イ短調の主和音の合いの手を加え、
管楽器すべてがホ長調の主和音で締めくくる(ティンパニも加わる)。
次いで、
ファゴット2管+ホルン4管+トランペット2管+トロンボーン3管が、ホ長調の主和音を
♪●●●●タタタ・ター●●タタタ│ター♪
という「運命の律動」を吹奏する。これに導かれて、
両翼vnとそのオクターヴ下のヴィオーラ+チェロがユニゾンで、
♪ミー<♯ファー<♯ソー│<ラーーーーー・ーーーーーー│
 ーーーー>♯ソー・(<シ>)ラーー>Nソ>ファー│>ミーーーーー・ーーーーーー│
 ーーーーーー♪
という実質イ短調の主題を擦りだす。ということで、
「運命の律動」(ホ長調の主和音=)が実は
イ短調の属和音だったことがわかる。
この主題が発展したのち、冒頭のファンファーレが
A管コルネット2管+トランペット2管の完全ユニゾンで
マルカティッスィモで奏され、シンバルが打ち鳴らされる。すると、
イ短調の主題が今度は
コルノ・イングレーゼ+オクターヴ下のファゴット1管のユニゾンで再奏される。

[Pochissimo piu mosso(ポキッスィモ・ピウ・モッソ)、
八分音符=144、6/8拍子、3♯(イ長調)]
オーボエ2管が3度ハモでイ長調の主題を吹奏する。
♪ミー、│<ソーーー、>ミー、・<ソー>ファー、>ミー、│
  >レーーー、<ミー・<ファーーー、<♯ファー│
  <ソーッ、>ミーーー♪
これは"Bella ragazza dalle trecce bionde"
(ベッラ・ラガッツァ・ダッレ・トレッチェ・ビヨンデ
=三つ編みの金髪のカワイイお嬢ちゃん)
という民謡をほぼ原曲に近い形で用いたものだそうである。
この主題が展開されるが、ここでも
「運命の律動」がさかんに刻まれる。

[Allegro moderato(アッレーグロ・モデラート)、
四分音符=120、4/4拍子、5♭(実質変ホ長調→変ニ長調)]
vnセコンド以下の弦4部が変ホ長調の主和音を、
「悲愴交響曲」第1楽章で回帰させた
♪ターッタッタッ・ターッターッ♪というリズムで、
サルタンド(弓を弦の上で踊らせるように弾ませる奏法)で弾き、
それに導かれて、フルート3管+vnプリーモが完全ユニゾンで、
♪ソー│<ドーーー・ーーーー・・ーーーー・ーーーー│
   ーーーー・ーーーー・・ードッドッ<ミッ・>レッ>ドッ>シッ>ラッ│
   <シ>ソソー・ーーーー・・ーーーー・ーーーー│ーーーー♪
という動機を奏する。ホルン1管がマルカティッスィモで
オッブリガート的な長音価の分散和音を吹奏する。
上記動機をコルネット1管がソロで繰り返し、
3度ハモをオクターヴで重ねる変ニ長調の魅惑的な主題を擦る。
♪●●レー・<ミー、<ファーッ、│
 <ソーーー、・ソーーー、・・ソーーー・<ラーッ、>ミーッ、│
 <ソーーー・ーーーー・・●●>レー・<ミー、<ファーッ、│
 <ソーーー、・ソーーー、・・ソーーー・<ドーッ、>ラーッ、│
 <シーーー・ーーーー♪
ハープとタンバリンが効果的に伴奏に加わるが、
タンバリンにはここでも「運命の律動」を叩く。
♪●●レー・<ミー<ファー、│
 <ソーーー、・ソーーー、・・ソーーー、・<ミー>レー│>♯ドー♪
という主題の推移がコルノ・イングレーゼ+チェロで奏されるが、
それに呼応する
♪♭シー・>ソー>ファー・・>ミー、>レー・>♯ドー、>♭シー│
 >ラー、>ソー・>ファー、>ミー・・>レー、>♯ドー・<レー<ミー│
 <ファー・ーー・・ー♪
以下の弦楽4部のハモリがじつに感動的な箇所である。
この間のハープのアルベッジョがまた効いてる。
変ニ長調の主題が木管群で繰り返され、それが
ホルン2管のハモリに受け継がれ、

[Andante(アンダーンテ)、八分音符=132、6/8拍子、5♭]
「運命の律動」に導かれてイ短調の主題がここでは
変ロ短調で戻ってくる。ひととおり奏されて、
vnプリーモとヴィオーラの♪ファ>ミ>♯レ♪のゼンクヴェンツが
オクターヴ・ユニゾンでストリンジェンド(だんだん速く)して、

[Presto(プレスト)、
付点四分音符=192、6/8拍子、無調号(イ短調)]
そのvnプリーモとヴィオーラの♪ファ>ミ>♯レ♪に被せるように、
木管群によってタランテッラ(舞曲)の主題が吹奏される。
♪ラ●<シ│
 <ド●ド・>ラ●<シ│<ド●ド・>ラ●<シ│
 <ド>シッ>ラッ・>ソッ●ファ│>ミーー・ーーー│
 ーーー・ーーー│ー●ミ・>ファ●ファ│<♯ファ●♯ファ・<♯ソ●♯ソ│
 <ラ♪
コルネットがタランテッラの律動を主音aのオクターヴ・ユニゾンで
高速吹奏する腕のみせどころも用意される。
このタランテッラ主題が舌を巻くようなお見事な、
タンバリンのような打楽器使いの名人でもある
チャイコフスキーの技で展開される。途中、
オーボエ2管の3度ハモリで繰り広げられるあたりでは、
このタランテッラの主題とと「三つ編みお嬢さん」の節が
絶妙にミックスされてることがドヤ顔で示される。

[Allegro moderato(アッレーグロ・モデラート)、
四分音符=144、3/4拍子、2♭(変ロ長調)]
トランペットのオクターヴ・ユニゾンとタンバリンが
♪タタタ・ター♪という「運命の律動」を刻む中で、
ハープも加えた全奏が「三つ編みお嬢さん」の節を
fffで歌い上げる。
♪ミー│<ソーーー>ミー│<ソー>ファー>ミー│
>レーーー<ミー│<ファーーー<♯ファー│<ソー>ミーーー♪

[Presto(プレスト)、6/8拍子、3♯(イ長調)]
タランテッラ(舞曲)の半ば長化された型を、
クラリネット1管が弱音のシャリュモーで吹奏する。
チャイコフスキーに特有の、「最後の大盛り上がり前の予兆」である。
次第に音量が増して、

[Piu presto(ピウ・プレスト=もっと急速に)]

[2/4拍子]
実質変ホ長調で、
♪ミー・ミミ│ミー・ミミ│ミー・ミミ│ミー・ミミ│
 ミー・●●│>レー・●●│>ドー・●●│>シー・●●│
>ラー・●●│<シー・●●│<ドー・●●│<レー・●●♪

[Prestissimo(プレスティッスィモ)]
2段階の加速をして、調号どおりのイ長調に転じて、
fffを貫きとおして、強烈なフィナーレとなる。

この作品から、チャイコフスキーは
イタリア語の速度標語に加えて、
メトロノームによるテンポ表示を併用するようになった。
オーケストレイション前にカーメンカから
出版者のユルゲンソンにメトロノームを送るように要請してる。
直近の「組曲第1番」「ピアノ協奏曲第2番」までは
イタリア語の速度標語のみなのである。いっぽう、
「イタリア奇想曲」以降、ほとんどの管弦楽作品において、
チャイコフスキーはイタリア語の速度標語とともに
メトロノームのテンポを併記したのである。
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「チャイコフスキーのtranquillo(トランクイッロ)の意味/交響曲第5番(op.64)第1楽章」

2011年10月18日 00時34分47秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー

チャイコフスキー tranquillo トランクイッロ トランクィロ 意味


今月初め、菅直人は会期が終わったらすぐにでも向かわなければならない
東北方面とは正反対の四国でお遍路遊山だったのだそうである。
原発事故不始末(というより、故意に被害を増大させたのではないか
とさえ思えるほどの行状だった)の張本人のくせに、
暢気で結構なことである。そもそも、
非日本人が四国遍路しても意味はない。それはさておき、
会期中でなくとも、国会議員には歳費が充てられ、文書通信費が賄われ、
期末手当がふるまわれる。政党交付金制度の恩恵にも浴してる。
日本で日本人として国政に進出してまんまと総理大臣にまでなって、
日本の国益を害することばかりした罪は重い。
菅が便宜をはかってた国ならば、北でも南でも国家反逆罪で死刑である。
そんな心配など一切ない日本では、その民族性どおり、
思い放題やり放題の厚顔忌無恥ぶりである。

いっぽう、
我が日本人ときたらどうだ?
お人好しにもほどがある。
日米戦争敗戦以降、どんなに汚いことや卑怯なことをされても、
当該国の国旗を踏みつけたり焼いたりすることなど聞いたこともない。
けっして、
<<日本の
大地震を
お祝います。>>
という安っぽい紙の垂れ幕を掲げたりすることもない。いっぽうで、
戦後は一部の公立学校教諭などは、
日本の国旗・国歌にさえ敬意を払わない、という呆れかえりぶりである。
非日本人だから自国の国旗・国家でない、という屁理屈は通らない。
日本人として税金から糧を得てるのだから。ともあれ、
本来の日本とは、日本人とは、
交戦中にあの悪どさの極みであるフランクリン・ルーズヴェルトが死んだときでさえ、
鈴木貫太郎内閣が米国に大統領の死を悼む弔電を打ったような国である。
もっとも、そんなことを相手は好意に受け取るはずもないが。ちなみに、
鈴木貫太郎は下総関宿藩久世家家臣の倅だが、
侍従長時代、2.26事件で襲撃された人物の一人である。
足の付根と頭と心臓脇という致命的な部位に被弾して倒れたところに
軍刀でとどめを刺されそうになったとき、押さえつけられてた夫人が大声で、
「老人ですからとどめを刺すのだけはおやめください。
どうしてもとどめを刺さなければならないのなら私が致します」
と毅然と言い放なって、決起将校の
血気盛んな心をtranquillizeしたのである。ところで、
レーガンと鈴木貫太郎はそれぞれ、襲撃されて心臓のわずか脇に被弾した経験と、
最高齢で米国大統領、大日本帝国内閣総理大臣に就いた、という共通点がある。
すぐに当たり散らすためにイラカン(苛菅)と呼ばれた菅直人とは対照的に、
鈴木貫太郎は日露戦争の日本海海戦で多大な戦功をあげ、
日本のために尽くした海軍軍人だった。厳しい戦闘姿勢で
オニカン(鬼貫)として知られた人物である。

ときに、
ポーランド語で「知る」という意味の動詞poznac(ポズナーチ、cは本当は特殊文字)の
過去分詞であるpoznany(ポズナニ、=知られた)がもとになってる
ポーランドの都市ポズナン(ポズナニ)が出身地であるサーネイムに
Poznanski、Poznanskyというものがある。
チャイコフスキー研究の世界的権威であるAlexander Poznanskyも投稿するウェブサイト、
"Tchaikovsky Research"の中に、その
ポズナンスキーと共著もある弟子のような人物がhostのごとく君臨する
"Forum"というものがある。
世界じゅうのチャイコフスキー好きが投稿するだけあって、
そこには、たまにおもしろい投稿がある。
ここを読んでれば(私は英語も話せないので
host氏のような小難しい言い回しを多用されると
その真意がつかみかねることも多いのだが)
世界のチャイコフスキー好きの"認識具合"がよくわかる。

先日、チャイコフスキーの「交響曲第5番」の第1楽章主部の
テンポとメトロノーム指示に関して、不毛な論議がなされてた。ある投稿者が、
副次主題であるいわゆるワルツの部分の速度調整標語とメトロノームの数字について、
このような旨の意見を述べた。
<<"Molto piu tranquillo"の"tranquillo"は英語でいう"calm"である。が、
 両翼vnには"molto cantabile ed espr."なる表情付けが加えられてる。
 もし、メトロノーム記号で付点四分音符=92だとしたら、これらは相反する。だから、
 92はチャイコフスキーのミスで本来は62だったはずである>>
と主張した。対して、host殿はこう反駁する。
<<"tranquillo"は"気分"について述べてるのであって、
 テンポにまで言い及んでるのではない。それに、自筆譜にもそう記載されてるし、
 ユルゲンソンが出版するにあたってチャイコフスキーは自ら校正してるので、
 数字を間違えたままにしてるはずはない。よって、
 付点四分音符=92は正しい>>
(註; molto=非常に、piu(=英語のmore)=修飾する副詞の意味の程度を増す、
   cantabile=歌うように、ed(=e)=and、espr.(=espressivo)=表情豊かに、
   tranquillo=英語のtranquilizerと同源で、
   落ち着かせて、緩和して、静かに、平常心で)
他にも投稿した人がいたのだが、チャイコフスキー大好き人間たちが集うだけあって、
巷の指揮者などという芸術家気取りの鼻持ちならない輩どものほとんどが
チャイコフスキーの指示を無視してこの部分を遅く演奏することに嫌悪してる人もいた。
通常のチャイコフスキーに関する語らいではまず見られないものである。なにしろ、
99パーセントの人々がバーンスタイン、ムラヴィンスキーに代表されるような
曲解指揮者の絶大なるファンだからである。ともあれ、
上記おふたかたはともに間違ってる。
要点は2つ。

1)付点四分音符=92、の数字は間違ってない。
2)"Molto piu tranquillo"の"tranquillo"は、
 "気分"だけでなく"テンポ"にも言い及んでる。

というのが正しい。ところで、
いわゆる"表情記号"である"tranquillo"は、
バッハの時代には使われてない。どころか、
速度標語さえなかったのである。が、ほぼ同時代の
いわゆる"四季"のヴィヴァルディにおいては、
"Allegro" "Largo" "Adagio"などのような速度標語、そして、
それに付随する"non molto"のようなものが記されてる。が、
"表情付け標語"は出てこない。
その3/4世紀以上も後のモーツァルトにも"tranquillo"は出てこない。
これが出てくる有名どころとなると、これまた、
"ものの始め"に欠かせない楽聖である。
・ベートーヴェン「弦楽四重奏第16番」第3楽章 
 Lento assai, cantante e tranquillo
ただし、この使いかたは、この楽章全体を支配してるので、
チャイコフスキーの交響曲第5番第1楽章の"Molto piu tranquillo"という、
それまでの速度標語をマイナーチェインジするものとは性質を異にする。
ベートーヴェン以降の"tranquillo使い"といえば、
メンデルスゾーンである。が、同人もその使用例の多くでは
曲の途中で微調整する意図では"tranquillo"は用いてない。ところが、
21歳のときに作曲し、23歳のときに初演・改訂した
"Die Hebriden(英語でThe Hebrides)"
いわゆる
"Die Fingalshoehle(英語でFingal's Cave)"
「ヘブリディーズ諸島」「フィンガルの洞窟」序曲
では、第2主題の再現時に、クラリネットのソロに
"tranquillo assai(トランクイッロ・アッサイ)"
(アッサイはその副詞の意味を強める:きわめて)
と附してるのである。これだけだったら、
たとえここでテンポを落とさない演奏がいかに不自然だとしても、
速度にまで言い及んでるとは断じれない。が、
この第2主題の短いながら絶妙な再現が終わると、
総譜全体への指示として、
"Animato, in tempo(アニマート、イン・テンポ)"
という指示がなされてるのである。
アニマートは「活気づけて」という意味であり、
あきらかにテンポに言及した標語である。ここでは、
メンデルスゾーンはイン・テンポ(曲本来のテンポ)に戻すように
指示してるのである。

この「フィンガルの洞窟」が影響を与えたのかどうかは、
ソン・スンホンと三島由紀夫の顔を瞬時には判別できない
拙脳にして音楽の専門家でない私は知らないが、
メンデルスゾーンの子の世代となると、様相は一変する。
ブラームス、ドヴォルジャーク、グリーグ、チャイコフスキー、などが、
"tranquillo"をそれまでの"気分""表情付け"以外に、
それまでのテンポを微調整する意味をも含ませた用いかたを
普通にするようになったのである。

・ブラームス「交響曲第2番」(1877)第1楽章
 Allegro non troppo - un poco stringendo - ritard.
- in tempo, ma piu tranquillo - poco rit.
- in tempo, sempre tranquillo - 終い
・同「悲劇的序曲」(1880)
 Allegro non troppo - Molto piu moderato - Tempo primo ma tranquillo
(cf; 「ヴァイオリン・ソナタ第2番」(1886)第2楽章
   Andante tranquilloは旧来の使用法である)
・ドヴォルジャーク「ピアノ協奏曲」(1876)第1楽章
 Allegro agitato
 - Poco tranquillo - Tempo primo - Poco tranquillo - Tempo primo
・同「ピアノ四重奏曲第2番」(1887)第4楽章
 Allegro con fuoco - Poco sostenuto e tranquillo
(cf; 交響詩「真昼の魔女」(1896)は旧来の使用法である)
・グリーグ「抒情小曲集第2集(op38)」(1883)第8曲「カノン」
 Allegretto con moto - Piu mosso, ma tranquillo
といった用例がある。これ以降の作曲家にもあるのは当然である。

さて、
チャイコフスキーにおいては、
・「交響曲第1番」(1866-68、1874改訂)第1楽章
 Allegro tranquillo - Poco piu animato - a tempo - Poco piu animato
・「ピアノ協奏曲第1番」(1874-75、1879改訂、1888更新)第3楽章
 Allegro con fuoco - Molto piu mosso - Tempo primo ma tranquillo
・バレエ「眠れる森の美女」(1888-89)第2幕第10曲
 [Entr'acte and Scene de la chasse royale]
 Allegro con spirito - Un poco piu tranquillo
・弦楽六重奏「フィレンツェの思い出」(1890)第1楽章
 Allegro con spirito - Tranquillo - in Tempo giusto
というように使われてる。作曲の師であるニコラーイ・ザレンバや
アントーン・ルビンシチェーインがどのような使いかたをしてたか知らないので
なんとも言えないが、もちろん、
通常のイタリア語の"tranquillo"やそのもとであるラテン語の"tranquillus"に
"速度を減じる"などという意味はない。が、
少なくとも、クラ音の世界では19世紀後半から、
"tranquillo"を"気分(表情付け)"の意味としてだけでなく、
"テンポ"にも関わる意味として用いられるのが普及してきた、とはいえる。

ブラームスの「交響曲第2番」では、ひとたびテンポを上げてまた落とし、
もとのテンポに戻す際にもとのテンポよりトランクイッロで、としてる。これは、
明らかにテンポにまで言い及んでるのである。「悲劇的序曲」も同様である。
ドヴォルジャークもまた、「ピアノ協奏曲」において
「ポーコ・トランクイッロ」と変じたあとに「テンポ・プリーモ」と記してるので、
この"tranquillo"が明らかに"速度を減じる"役を託されたことが判る。
「ピアノ四重奏曲第2番」では、「ポーコ・ソステヌート・エ・トランクイッロ」と、
やはり速度を減じる意味の"sostenuto"と並列されてるので、
この"tranquillo"もまた"僅少な減速"を要求してるのが明白である。が、
そういう風潮に対して誤解を生じやすいことをしたのがグリーグである。まず、
「アレグレット・コン・モート」という速度標語自体が矛盾を孕んでる。

"速度の数直線"を想定してみる。

[(遅い)マイナス]←--アンダーンテ--アンダンティーノ--(モデラート)--0--アレグレット--アッレーグロ--→[プラス(速い)]

"Moderato*"がこの数直線上の0の負方向の直近に位置すると仮定する。
(*「モデラート・アッサイ」は「モデラート」より遅い。つまり、モデラートは負の方向性を持つ速度標語である)
"Allegro"は正の方向(右方向)であり、"Andante"は負の方向(左方向)である。
アレグレットは速度数直線上で正方向への方向性を有するアッレーグロの
その性質を弱めるもの、つまり、負の方向に引っ張られた形である。なのに、
「コン・モート」(動きをつけて)という、
速度的に正の方向に引っ張る附随語を加えてるのである。つまり、この
「アレグレット・コン・モート」はアッレーグロ寄りのアレグレットという意味だと推察される。そこへまた、
「ピウ・モッソ」(もっと動きをつけて)という"速度変化"を要求する。おそらく、
これでアッレーグロぐらいの速さになるわけである。ところが、
そこにさらに「マ・トランクイッロ」(ただし、トランクイッロで)という語を足してるのである。
アッレーグロからほんの僅か負の方向に下方修正しろ、ということと解すよりほかない。
"速度の数直線"で示せば、このようになる。
←アレグレット--(1)アレグレット・コン・モート--(1)へのピウ・モッソ、マ・トランクイッロ--((1)へのピウ・モッソ)--アッレーグロ→
これだったら、イタリア語の速度標語はもっと簡潔にして、
メトロノームの数字で指示すべきである。
あるいは、グリーグはこの"tranquillo"に
"速度"の意味を持たせてないだけなのかもしれない。いずれにしても、
わかりにくい、誤解を招きやすい表記、
もしくは、グリーグが頭があまり整理されてない人物だったか、である。

それはさておき、
「ピアノ協奏曲第1番」の最終稿においてチャイコフスキーは、
「アッレーグロ・コン・フォーコ」を「モルト・ピウ・モッソ」で加速したのち、
「テンポ・プリーモ」でもとのテンポに戻すのであるが、そこに
「マ・トランクイッロ」(ただし、トランクイッロで)と付け加える。つまり、
もとのテンポよりわずかに遅いテンポを要求してる。
「眠れる森の美女」では、「アッレーグロ・コン・スピーリト」に対して、
「ウン・ポーコ・ピウ・トランクイッロ」(ほんのわずかにトランクイッロで)と指定してる。
「フィレンツェの思い出」では、「アッレーグロ・コン・スピーリト」に対して、
「トランクイッロ」と変化をつけてまた「イン・テンポ・ジュスト」と、
もとのテンポにきっちり戻すように請求してる。いっぽう、
もっとも早期の「交響曲第1番」では、第1楽章の全体の速度標語として、
「アッレーグロ・トランクイッロ」としてるので、あたかも
旧来の用法を採ってるかのように思わせてる。が、
第2主題の前で「ポーコ・ピウ・アニマート」(少し動きを増して)という
加速の指示出しをするのである。この用法は、
もとの速度に対してトランクイッロ、という常套を破って、
まずトランクイッロで始めて途中で速度を速める、という意味において画期的である。

では、
問題の「交響曲第5番」(1888)第1楽章はどうかといえば、
 Allegro con anima
  (付点四分音符=104→(単純には置き換えれないが)四分音符換算=156)
 - Un pochettino piu animato - Molto piu tranquillo
(註; con=前置詞(=英語のwith)、anima=名詞(=精神、空気の動き、呼吸)、
   un pochettino(=un pocoよりもっと少なく)、ちょっぴり、
   piu=副詞(=英語のmore)=修飾する副詞の意味を増す。したがって、
              その副詞が肯定的な意味(たとえば速く)ならさらに速く、
              否定的な意味(遅く)ならさらに遅く。
   animato=動詞animare(生気を吹き込む、活気づける)の分詞、animaと同源
という構成になってる。
付点四分音符=104の「アッレーグロ・コン・アーニマ」を、
「ウン・ポケッティーノ・ピウ・アニマート」と変速して付点四分音符=108ほどにして、
「モルト・ピウ・トランクイッロ」で付点四分音符=92にテンポを減じて、
そのワルツを第3楽章の3/4拍子の四分音符=138のワルツと同テンポ**に設定してる。
(**6/8拍子と3/4拍子の1小節の音価はともに付点二分音符分で同じ。
  6/8拍子は1小節内で2拍、3/4拍子は1小節内で3拍。
  [92/2=138/3] よって、
  6/8拍子で付点四分音符=92と、3/4拍子で四分音符=138とは、同速度)

こうしたチャイコフスキーの"tranquillo"を用いた例から明かなのは、
"con anima"、"con spirito"、"con fuoco"の"反意"として扱い、
"piu mosso"や"piu animato"に対してその逆向きの調整の役割を担わせてる、
ということである。
"Spirito"と"anima"はどちらも「呼吸」を意味する語である。
「呼吸」は「吸って、吐いて(<、>)」というヒトの「動き」を生じさせ、
「生」を与える。そこに「精神」や「魂」が宿ると前科学時代のヒトは考えた。
"con fuoco"は(直訳=火を持って)「火を焚いて」「火を焚いたように熱く」である。
したがって、
「アッレーグロ・コン・スピーリト」「アッレーグロ・コン・アーニマ」「アッレーグロ・コン・フォーコ」は、
「(チャイコフスキーが考える)普通のアッレーグロ(四分音符=126乃至138)」よりやや速い。
四分音符=138乃至144あたりである。いっぽう、上記に示したとおり、
チャイコフスキーがそれらの語の"逆向き"として用いた「トランクイッロ」には、
「クール・ダウン」という"気分"の意味だけでなく
「わずかに遅く」という"テンポ減"の意味をも含めているのは明かである。
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