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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ナポレオンは如何なる理由で服の前合せの中に片手を入れちょったんぜよ?」

2009年04月04日 21時54分18秒 | 戦勝&大聖堂奉献式祝いに(イワイニ)1812年

ナポレオン 手を腹に


[Why had Napoleon made hidden-hand-pose?]

私がガキだった頃、早野凡平という、
「ホンジャマカ帽」芸人がいた。そのネタのひとつが、
「ナポレオン!」である。フェルト生地を
ビコルヌのように形作って頭に掲げるだけのことだったが。

ベートーヴェンはナポレオンに期待してたらしい。で、
"コルシカ"島の物語であるモーツァルトの
「バスティヤンとバスティヤンヌ」序曲の主題を、
「交響曲第3番」の第1楽章の主主題に引用した。
♭3つの「変ホ長調」である。いっぽう、
ナポレオンがロシアに攻め入ってきた故事を扱った
「1812年」を、チャイコフスキーはその調性に倣って
「変ホ長調」を主調として書いた、のではない。
3つのフラットは「至聖三者」である。1812年当時、
「ラ・マルセイエーズ」も「ボージェ、ツァリャー・フラニー」も
それぞれフランスとロシアの国歌ではなかった。が、
この「1812年」という音楽作品においては、
それらがフランスとロシアを表してる。方便である。
チャイコフスキーは「1812年」の中で「ラ・マルセイエーズ」を
「変ホ長調」で登場はさせなかった。最後にようやく、
ナポレオンが敗走する段になってはじめて、
「変ホ長調」で「歌わせた」のである。そして、
「スパスィー、ゴースパヂ、リューヂ・トヴァヤー」が再登場する
「前触れ」に飲みこまれてくのである。ところで、

「国をかけて戦った」といえば、
イチローは「胃潰瘍」になったと伝えられた。ちなみに、
以下、異様に聞こえるかもしれないが、
「ナポレオンはなぜ片手を服の前合せの中につっこんでるのか?」
と、平均的知能・教養程度の人に問うてみれば、そのほとんどが、
「胃潰瘍だったからじゃないの」
と答える。それはともかく、
アブキール湾でフランス海軍が英国のネルスンに大打撃を受けて
エジプトに孤立したときに疥癬にかかって以来痒かったとか、
乳癌で膿が出てたのを押えてたとか、
戦術や旋律を練るさいに一声の対位法なるものを想定してた、
なんて「珍説」もあるようである。いっぽう、
「そのように教育されたから」という
"エチケット"説を唱えるむきもあるらしい。すなわち、
3日後の4月7日が「聖人の日」である
ジャン・バティスト・ドゥ・ラ・サル(1651-1719)の著書、
"Les regles de la bienseance et de la civilite chretienne"
(レ・レーグル・ドゥ・ラ・ビアンセアンス・エ・ドゥ・ラ・スィヴィリテ・クレティヤンヌ)
「礼儀作法とカトリック教義的礼節(タイトル拙大意)」
に書かれてる、のだそうである。この
ドゥ・ラ・サルは、かの「ラ・サール」、つまり、
かつては東大合格人数を、灘・開成と競ってた
鹿児島の「ラ・サール高校」のおおもとである
ラ・サル修道会を設立した人物である。青少年の
「カトリック」教育に力を注いだことで、
聖人に列せられた。たしかに、
コルシカ島の「なりたて」貴族の子弟ナポレオンは、
10歳のときに陸軍幼年学校に入学する直前、
オタンの修道院で「洗練」されるべく「教育」を受けた。が、
それがラ・サール修道院だったかどうかは、
福田沙紀女史と上原多香子女史の声も聞き分けれない
拙脳な私には知る由もない。ただし、ひょっとすると、
その修道院での教育で「ある秘儀」を授けられた、
かもしれない。ちなみに、
そのオタンという町は川越と姉妹都市なんだそうである。
川越が小江戸なら、オタンはコタンではなく
小ローマである。他方、

ジャック・ルイ・ダヴィドが
ロシア遠征前のナポレオンを描いた肖像画がある。現在は、
2枚のうちその主作のほうがワシントンのナショナル・ギャラリにある
"Napoleon dans son cabinet de travail"
(ナポレオン・ダン・ソン・カビネ・ドゥ・トラヴァイユ)
「(テュイルリ宮殿の)執務室のナポレオン」
である。吉本芸人の焼肉屋たむらけんじ
みたいなヘアスタイルのナポレオンが左足を右足の前に出す
モデル様のポウズィングをしてる絵である。そして、
右手は服の前合わせにつっこんでるのである。
「胃潰瘍」だの「皮膚病」だのだったとして、
お抱え画家に肖像画を描かせるのに、
わざわざそんなことを思わせるようなポウズを
するはずもない。逆にいえば、
このポウズをとることは、
「あること」をアピールしてる、と考えれる。すなわち、
「フリーメイスン」のポウズなのだ、と。
片手を懐中に突っ込めば、肩・肘・手先は
コンパスもしくはディヴァイダーのごとき
「三角形」をなす。そして、小手と二の腕はそれぞれ、
四角錘の底辺と側辺である。つまり、
ピラミッドの一部をなしてる、という誇示である。
一般的にはこのポウズはナポレオンの専売みたいに認識されてる、
かもしれないが、けっこうな人物らが、
同様の姿勢をして肖像画を描かせ、写真を撮らせてる。
その筆頭が、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンである。
やはり、フリーメイスンだった。それから、
カール・マルクス、ヴラヂーミル・ウリヤーノフ(レーニン)という
ロシア革命に関わる人物も、このポウズの写真が残ってる。
ロシア帝国はフリーメイスンの敵だった、
という単純なことでもないかもしれないが、
フリーメイスンもしくはロスチャイルドが、
革命派に資金援助してたようである。また、
晩年のモーツァルトがフリーメイスンに入会し、その秘儀を
「魔笛」でバラしたからバラされた、という説がある。が、
モーツァルトはその父レーオポルトが、
ガチガチのフリーメイスンだった。倅ヴォルフガングが
7歳のときの肖像画は、この
「片手を服の前合わせの中に突っ込んでる」
ポウズで描かれてるのである。さて、

最近では「非フリーメイスン」説がのしてきた
トーマス・グラヴァーであるが、同人と関係が深かった
坂本龍馬にもフリーメイスン説があった。ともあれ、
死の10か月前に長崎の上野彦馬写場で撮らせた
もっともポピュラーな写真では、龍馬は
「右手を懐中に突っ込んでる」
のである。ちなみに、
死ぬまで2日あった中岡の証言は、じつに
奇妙である。「こなくそ」と叫んで
斬りつけてきた、そうである。と証言したということは、
少なくとも「しゃべれた」というのに、
未だに犯人が判らない、ということは、
中岡は犯人が誰かについては言及してなかったか、
知らない人物だったか、何らかの理由で言えなかったか、
または、言ったのを聞きとった者が隠したか、
である。いずれにしても、敵を多く作りすぎたきに、
殺害状況がどんなに奇矯なものでも桔梗紋だったとしても、
「龍馬暗殺」は起コルシカなかったのである。
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「チャイコフスキーの『1812年』と国歌」

2009年03月25日 00時10分12秒 | 戦勝&大聖堂奉献式祝いに(イワイニ)1812年

チャイコフスキー 1812年


WBCは日本が優勝した。イチローというよりは、
意地ローだったということである。さすが、
日本を佐藤と二分する鈴木一族。
熊野神社の浸透力と神道力。ダルヴィッシュも、
サイコーとまではいかなくとも、
サエコー思いなピッチングはしてたのだろう。いっぽう、
ダルヴィッシュ投手が10回裏も続投したからといって、
小沢も某党の党首を続投するらしい。あの
日本人離れした顔で泣いてみせたりして。ちなみに、
同じく「青」のユニフォームでも、
日本ティームの青は品がある。ときに、
青い、といえば、葵の御紋の公方綱吉の時代、
元禄11年に、上野寛永寺の根本中道が完成した。
責任者は柳澤吉保、木材調達は紀文である。その
造営で余った木材で、深川の渡しあたりに
橋を架けた。それが、現在では夜に
青いライトアップがされてる「永代橋」である。
それからおよそ100年後の文化4年夏、
富岡八幡宮の例大祭見物客が殺到したために
落橋する。死者1500人余ということである。
「え・いたいと、かけたる橋は、落ちにけり。
 橋は祭礼、明日は葬礼」
大田直次郎の狂歌である。壮麗なる祭が
大惨事になってしまったのである。そして、
それから5年後の1812年、
ナポレオンのロシア遠征が始まったのである。が、
1812年という年は、ナポレオンに手を焼いてる英国に
米国が再び戦争を仕掛けた年でもあった。
この戦争によって、首都ワシントンも戦禍に遭い、
大統領府も英国軍によって焼き討ちされてしまった。
戦後に、焼けこげながらも残った外壁をそのままに
再建されたのだが、そのときにその
お焦げ色を隠すために白塗りしたことが、
「ホワイトハウス」の誕生になったのである。ところで、
「米英戦争」のときにできたのが、
「ザ・スター・スパングルド・バナー」、
現在の合衆国国歌である。さて、
チャイコフスキーの「1812年」は、
「ラ・マルセイエーズ」と
「ボージェ(神よ)、ツァリャー(皇帝を)・フラニー(護り給え)」
という、それぞれフランスとロシアの国歌になった歌が
使われてる。が、いずれも
「1812年」にはそれぞれの国の国歌ではなかった。
ベートーヴェンが失望したナポレオンによる
国家の帝政と国歌の訂正によって、
"Veillons au salut de l'Empire"
(ヴェイヨン・ゾ・サリュ・ダ・ランピル)
「帝国の救世にあたれ」
に替えられてたからである。
♪ソ│<ド<ミ>ド・>シ>ラ<シ│<ドー<ミ・>ソー♪
この曲の歌詞も過激だが、
「ラ・マルセイエーズ」はじつに凄まじい。
"Marchons, marchons!
Qu'un sang impur
Abreuve nos sillons!"
(マルション、マルション!
カン・サン・カンピュル・
アブルヴ・ノ・スィヨン!)
「突撃、突撃!
敵の穢れた血を
我々の畑に飲ませるんだ!」
すごい文句である。自分たちが丹精込めて耕した畑でも、
そこが戦場となることを辞さないばかりか、そこで
敵兵を殺してその流れた血を洗浄するのではなく、
その畑の肥しとして吸わす、
などという発想は、日本人には考えもつかない。
「君が代は、千代に八千代に、
 細れ石の、巌となりて、
 苔のmossまで」
がやっとである。これに起立しない、
思慮に足りない、性根が曲がった輩が
のうのうと教職に就いてれるとは、
日本はなんと豊かで大らかな国なことだろう。ときに、
東証の証券コウド:1812は鹿島建設、
であるが、同社は
天保11年に鹿島岩吉によって創業された
「大岩」という大工店が元である。
天保11年はほぼ1840年。同年生まれの
チャイコフスキーと因縁浅からぬ関係である。また、
岩吉、大岩という「岩」は、チャイコフスキーの名、
ピョートルもいわゆる「岩」「石」が語源であり、
やはり因縁浅からぬ、よロシュう関係でござるといえよう。
コメント (2)
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「チャイコフスキーの1812年とベートーヴェンの1813年」

2008年07月20日 22時54分25秒 | 戦勝&大聖堂奉献式祝いに(イワイニ)1812年

チャイコフスキー 1812年


基準値を超える殺虫剤成分が四月以来検出されてた
エチオピア産のモカコーヒー豆が、いよいよ
実質的な全面輸入禁止になるようである。私は
「苦くない、高くない、香りがいい」という酸味一体な
頭がはっキリストふコーヒーが好きで、がぶがぶ飲み続けてきた。
それでも死ななかったから、まんざら私も
虫けらでもなかったみたいである。もっとも、
clubケイバの夏のtvCMに出てくる列車内の少年の顔と、
レッドソックスの松坂投手の顔の区別もできない拙脳な私であるから、
エチオピアものならなんでも口にすれば
「オモロ~~~!」と叫んでしまうほど味スアベバ音痴である。ちなみに、
エチオピアではキリスト教とイスラム教が
ほぼ半々で信仰されてるらしい。それはともかくも、
1812年乃至1813年といえば、ヨーロッパじゅうに侵攻してた
ナポレオンによる第一帝政のフランスが各地で敗戦を重ね、
帝国崩壊に向かい始めた頃である。我が国では
文化9年乃至文化10年にほぼあたる。
日本領である北方領土を勝手に測量してたロシア船の船長ゴローヴニンを
松前奉行が捕えたことへの報復として、
高田屋嘉兵衛が国後島沖でロシア艦船に拿捕され、結果、
ゴローヴニンと人質交換してた頃のことである。また、
文化10年6月に、日本橋横山町で死んだ者が
「蕎麦にあたった」ことが死因だとされ、
「蕎麦を食すと死ぬ」という流言が飛び、
蕎麦屋が閑古鳥になる、というできごとがあったらしい。おそらく、
蕎麦アレルギーであろう。20年前に、札幌の小学校で
給食で出た蕎麦を食べた生徒がショック症状をきたして死亡した、
という事故があったが、そのときもまだ食物アレルギーに対する
一般認識が薄く、担任はアレルギーがあることを知ってながら
食べるのをやめさせなかったし、当人も
自分のアレルギーに対する危険度を甘くみてたから
小学校6年にもなって自制できなかったのである。ときに、
週刊新潮によれば、
「東京で第2の『グリコ・森永事件』が起きている」
のだそうである。6月28日、荒川区南千住の
「イトーヨーカ堂三ノ輪店」で、20代後半と思しき色白の女性が、
エバラ食品の「屋台のやきとりのたれ」を、「これ、おかしい」と
店員に差しだした、とか。見た目には目立つとこはなかったが、
「毒入り危険」というシールが底に貼られてたという。実際、
「グリホサート(グリコサートではないが)」という
殺虫剤成分が検出され、3日後に某新聞社に不審な電話があり、
6日後に某放送局の報道関連部署に不審な封書が送られてきたという。
もともとヨーカ堂は北朝鮮と親密であり、北朝鮮への送金機関だった
足利銀行を通じて「20億円のシジミ代」を送金してた金アサリ業者である。
加藤紘一を選出する山形3区や山崎拓を受からせる福岡2区の選挙民らの
ごりっぱな良識よりもはるかにたいした愛国心である。さて、
ビトリア(vitoria)はフランス国境に近いバスクの町であるが、
ここで1813年6月に行われた戦闘で、フランス軍は
ウェリントン侯爵(当時)率いる英国スペイン連合軍に大敗する。ちなみに、
vitoriaは「ポルトガル語」では「勝利」を表す語である。これによって、
フランスによるスペイン支配は終わったのである。そして、
ライプツィヒでの諸国民戦争にも大敗し、パリも陥落されたナポレオンは、
「『皇帝を辞めさせればことは収マルモンです。
あんたと焼肉のタレ、イランはもう』とあなたの部下も申しております」
と国際会議では諸国代表の前でめめしく泣いてみせることも厭わない
外相によって退位を余儀なくされるのである。この、ウェリントン侯による
ビトリアの戦勝にゴマをすってひと儲けしようと目論んだのが、
「met」ronomeを改良して特許を取得したメルツェルである。
そして、ベートーヴェンに作曲を依頼したのが、
交響曲「ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い(ヴェリンクトンス・
ズィーク・オーダー・ディ・シュラッハト・バイ・ヴィットリア)」である。
これはソナータ形式ではないので、「交響曲」という名の「非交響曲」である。
この「第1部」で、英国軍の鼓笛のあと、「ルール・ブリタニア」が奏される。
**♪ドーーー・ドーード│ド<レ<ミ<ファ・<ソッ●、>ドッ●│
  <レーーレ・レー<ミ<ファ│ファッ●>ミッ●、●●**♪
「変ホ長調」である。対して、仏国軍の鼓笛のあとに奏される
「マールボロ将軍は戦争に行く(マルブル・ソン・ヴァトン・ゲール)
……別名:無敵将軍マールボロの死と葬列
(モール・エ・コンヴワ・ドゥ・アンヴァンスィブル・マルブル)」
はハ長調である。この作品において、ベートーヴェンは英国軍、つまり、
ウェリントンを「英雄調」である「変ホ長調」としたのである。ちなみに、
この作品の「第1部の「戦闘シーン」においては、
フランス軍およびイギリス軍の大砲の音がそれぞれ鳴らされるのであるが、
最後はイギリス軍のものしか聞こえてこなくなる、という仕儀である。

話がそれるが、
ベートーヴェンはこの「交響曲」の9年ほど前に完成された
「英雄交響曲」において、「変ホ長調」は、
コルシカ島が舞台のモーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」の
序曲の主題を第1楽章の主要主題に「引用」し、この交響曲が
「ナポレオン」である(あった)ことを示した。そして、
終楽章に旧作のバレエ「プロメーテウスの創造物」の終曲の主題を充てた。
ちなみに、この間にも、pf曲「(通称)エロイカ変奏曲」として扱ってる。が、
それはともかく、すでに、緩徐楽章を「葬送行進曲」としてるのは、
ナポレオンが「戦死」という「英雄的な死」を迎えると「予想」したからである。
そして、「神格化」したのが終楽章の「プロメーテウス」なのである。
これらは「変ホ長調」(とその平行調のハ短調)である。
「プロメーテウス」の創造物とは、「人類」もしくは
「(人類に与えられた)『火』という知恵・文明」である。
prometheus(ギリシア文字をラテン文字で代用)のproは
「前に」を意味する接頭辞であり、metheus(知恵を有するもの)は
mathematics(学習されたもの)やmethod(道を進むこと)
と同源であり、「経験によって得られた知恵」ということができる。
met(a)-という接頭辞は多義に広がってるが、
「変化」を表す。学習すれば「無知→習得」ということである。ちなみに、
methとは、生きてたものが変化したものである「死」を表すのである。また、
メトロノームのメトロであるが、「学習」するためには
「尺度」「方法」が必要なのである。

話を戻すと、
1804年時点で「英雄交響曲」においてナポレオンを
「英雄調」の「変ホ長調」としてたベートーヴェンは、
1813年にはウェリントン侯爵のほうを
「英雄調」の「変ホ長調」としたのである。いっぽう、
チャイコフスキーが依嘱でイヤイヤ書いた、とされてる序曲「1812年」は、
第1部=ラールゴ(ロシア正教の聖歌「主よ、汝の民を救い給え」
         ちなみに、後年、この旋律を引用したのが
         リーロイ・アンダースンの
         「スィンコペイティド・クロック」である。
         フランス軍の侵攻ペイトによって生活を乱されるロシアの民。
         そこからアンダースンは「刻時の乱れ」
         というインスピレイションを得た)
第2部=アンダーンテ(バッハのカンタータ第140番「目覚めよと我らに呼ばわる
           物見らの声」の第4曲「『四音(ソドレミ)』は物見らが
           歌うを聴き」(変ホ長調)の引用である。ちなみに、
           このカンタータは「三位一体の祝日後第27日曜日のための」
           カンタータという副題が附されてる。「三位一体の祝日」は
           ナポレオン軍によるロシア軍追討が始まった頃であり、
           それから27週でフランス軍はロシアから駆逐された、
           という史実を暗示してるのである。この音型は、
           「フランチェースカ・ダ・リーミニ」の
           終結部に入る箇所でも引用された。また、
           ロッスィーニの「グッリェルモ・テル」の
           「スイス軍の行進曲」も同曲の「引用」である)
第3部=アッレーグロ・ジュスト(ソナータ:主要主題=ファで始まるチャイコ主題、
                対主題=自作オペラ「地方長官」の女声デュエット)
第4部=ラールゴ(第1部の再現)
第5部=アッレーグロ・ヴィヴァーチェ(第2部の再現)
という5部構成になってる。第3部が同主調の「変ホ短調」である以外は、
「変ホ長調」なのである。つまり、
「対ナポレオン」=「変ホ長調」
という「ウェリントンの戦勝」調をチャイコフスキーは踏襲したのである。ちなみに、
リヒャルト・シュトラオスの「アイン・ヘルデン・レーベン」は
「変ホ長調」ではあるが、「対ナポレオン」ではなく、ただ、
「英雄」という一つのキーワードだけで揃えた、あまり意味のない踏襲である。
リヒャルト・シュトラオスは、ただただ
センティメンタルな曲想に秀でた凡人である。そして、その主な作品がすべて
♪「ソ<ド<レ<ミ」♪という「四音」音型を主要主題の主要動機にしてる、
という点で、特異な存在である、というだけのことである。それらはどうでも、
1814年4月、ナポレオンは帝位を失い、「エルバ島」に左遷させられた。
それから約200年後、毎夜マイヨル鬱の症状にさいなまれてたダイヴァーが、
エルバ島の自宅で首を吊って果てた。少年の頃、
唐津の海で素潜りを覚えたジャック・マイヨールである。
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