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『ねむりの町』ほか

2月9日・ラモス瑠偉の懐

2019-02-09 | スポーツ
2月9日は、作家の伊集院静(いじゅういんしずか)が生まれた日(1950年)だが、サッカー選手のラモス瑠偉(るい)の誕生日でもある。

ラモス瑠偉は、1957年にブラジルのメンデスで生まれた。父親は公認会計士で、ラモスが12歳のとき鬼籍に入った。家族のためにも、サッカー選手としてお金を稼ぎたいと考えたラモスは、18歳のときプロに選手になった。
19歳のとき、スカウトされ、日本の読売サッカークラブへ入団。以後、日本サッカーリーグ、1993年にJリーグが開幕してからは、ヴェルディ川崎、そして日本代表の柱として活躍。日本代表では、エースの背番号「10」を背負った。
同年10月、カタールのドーハでおこなわれた、ワールドカップ・アジア地区最終予選の、対イラク戦において、後半ロスタイムで同点に追いつかれ、この最後の最後の1点によって、ワールドカップ・アメリカ大会への出場権を失うという、いわゆる「ドーハの悲劇」を経験。以後、Jリーグ、フットサルで選手、またコーチ、監督として活躍している。

ラモス瑠偉は、ほかのサッカー選手とちがう、という発見をしたことが、2度ある。

1度目は、彼の技術的な高さについてで、省略するとして、2度目。
いつのころだったか、朝日新聞が、サッカー元日本代表選手のインタビュー記事を、日替わりで連載したことがあった。
趣旨は、「ドーハの悲劇」をふり返って、というもので、1993年、ドーハの対イラク戦で、あと一歩というところでワールドカップに進めなかった日本代表チームの当時のメンバーに、毎日一人ずつ、そのときをふり返って、語ってもらう企画だった。井原正巳、三浦知良、中山雅史など、当時の日本代表メンバーが、毎日そのコラムに登場した。
コラムでみなそれぞれ、当時の心境や、思いだしたくないとか、いまでも悔しいとか、いろいろ語っていたのだけれど、ラモスだけは、言うことがぜんぜんちがっていた。ラモスの語ったところは、おおよそこういう意味だった。
「イラクの選手はみな高い技術をもっていて、まとまったいいチームだった。イラクの代表チームは、当時の国情もあって、ワールドカップのアジア地区予選では、いった先々で不利な審判を下されることがすくなくなかった。しかし、彼らはそんな不公平な試合のなかでも、文句をいわず、黙々とフェアプレイを続けた。ドーハでの試合の結果は残念だったが、試合が終われば敵も味方もない、友である。あの後、イラクの選手たちがどうなったか、心配である。向こうは戦地。あのときの代表メンバー同士を集めて、また試合をしたいけれど、日本は同じメンバーが集まったとしても、イラク側は亡くなった選手もいるのではないか。とても心配している」
と、そういう旨の内容だった。
ここに、ラモス瑠偉という人間の懐の深さを、あらためて知り、仰ぎ見る思いだった。彼は、高いスポーツマンシップを獲得した、真の国際人である。
(2019年2月9日)



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