1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月15日・原民喜の時

2023-11-15 | 文学
11月15日は七五三。この吉日は、幕末の風雲児、坂本龍馬が生まれた日(天保6年11月15日)だが、日本を代表する小説『夏の花』を書いた原民喜(はらたみき)の誕生日でもある。

原民喜は1905年、広島市で生まれた。父親は日清戦争で軍服や制服、天幕などを軍部・官庁に納入して繁盛した縫製業者だった。民喜の名は、日清戦争で国が勝ち民が喜ぶ意からの命名だという。原家は子だくさんで、七男五女いたきょうだいの、民喜は五男だった。
11歳のとき父親が胃がんで没し、12歳のときには次姉が21歳で結核で亡くなり、そうした家族の死が民喜の性格に影響を及ぼした。
小学校のころから家庭内同人誌を作り、中学でも学級誌に寄稿していた民喜は、慶応義塾大の文学部に進み、ずっと俳句、小説、随筆を書いては同人誌に発表しつづけた。人といてもまともに話さない、繊細な文学青年の彼は、一時は左翼運動にも関わったが、やがて運動を離れ、英国の詩人ワーズワース論を書いて大学の英文科を卒業した。
原は見知った売春婦を見受けし同棲をはじめたところ、半月たたないうちに女が失踪。失意の原は薬物自殺をはかった。が、一命はとりとめ、自殺は未遂に終わった。
彼の身を心配した家族・親族のあっせんにより、原は見合結婚をした。相手は故郷・広島県出身の6つ年下の娘で、見合いの席でも原はほとんど口をきかなかったらしい。
知人の家を訪ねるにも、原がしゃべらないので、妻が同行し、玄関口のあいさつも自己紹介も妻が代行し、亭主の原はうなずくだけという無口ぶりだったが、この妻の存在が原を救った。明朗な妻に励まされ、彼は短編小説を書いた。
36歳のとき日米開戦。戦時下の千葉県で、原は詩や小説を書いていたが、原が38歳のとき、支えだった妻が結核で没した。傷心の原は、実家を手伝うため広島市へ帰った。それが1945年のはじめだった。
同年8月6日、広島に原爆が投下、爆心地から1.2キロメートルの実家で原も被爆した。

「私は厠(かわや)にゐたため一命を拾つた。(中略)
 私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持がした。長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。さばさばした気持で、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思つてゐたのだが、今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである。」(『夏の花』青空文庫)

敗戦の翌年、原は上京し、41歳だった1947年、原爆体験の小説「夏の花」を発表。そして『廃墟から』『崩壊の序曲』などを書いた後、1951年3月、当時の国鉄中央線の吉祥寺・西荻窪間の鉄道レールに身を横たえ、轢死自殺した。45歳だった。

小説や童話も書いた原民喜は、なによりまず詩人だった。清新の感受性の詩人だった。
『夏の花』を読むと、筆者の透徹した目と、いかにも才能に恵まれた詩人らしい、瑞々しい感受性に打たれる。この卓越した詩人が、奥さんの後を追わず生きながらえていて、あの日、ヒロシマにいた、そのことに、運命を感じる。
原民喜の生涯を思うと、「時が人をとらえる」ということを強く感じる。
(2023年11月15日)



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