11月15日は七五三。この吉日は、幕末の風雲児、坂本龍馬が生まれた日(天保6年11月15日)だが、日本を代表する小説『夏の花』を書いた原民喜(はらたみき)の誕生日でもある。
原民喜は1905年、広島市で生まれた。父親は日清戦争で軍服や制服、天幕などを軍部・官庁に納入して繁盛した縫製業者だった。民喜の名は、日清戦争で国が勝ち民が喜ぶ意からの命名だという。原家は子だくさんで、七男五女いたきょうだいの、民喜は五男だった。
11歳のとき父親が胃がんで没し、12歳のときには次姉が21歳で結核で亡くなり、そうした家族の死が民喜の性格に影響を及ぼした。
小学校のころから家庭内同人誌を作り、中学でも学級誌に寄稿していた民喜は、慶応義塾大の文学部に進み、ずっと俳句、小説、随筆を書いては同人誌に発表しつづけた。人といてもまともに話さない、繊細な文学青年の彼は、一時は左翼運動にも関わったが、やがて運動を離れ、英国の詩人ワーズワース論を書いて大学の英文科を卒業した。
原は見知った売春婦を見受けし同棲をはじめたところ、半月たたないうちに女が失踪。失意の原は薬物自殺をはかった。が、一命はとりとめ、自殺は未遂に終わった。
彼の身を心配した家族・親族のあっせんにより、原は見合結婚をした。相手は故郷・広島県出身の6つ年下の娘で、見合いの席でも原はほとんど口をきかなかったらしい。
知人の家を訪ねるにも、原がしゃべらないので、妻が同行し、玄関口のあいさつも自己紹介も妻が代行し、亭主の原はうなずくだけという無口ぶりだったが、この妻の存在が原を救った。明朗な妻に励まされ、彼は短編小説を書いた。
36歳のとき日米開戦。戦時下の千葉県で、原は詩や小説を書いていたが、原が38歳のとき、支えだった妻が結核で没した。傷心の原は、実家を手伝うため広島市へ帰った。それが1945年のはじめだった。
同年8月6日、広島に原爆が投下、爆心地から1.2キロメートルの実家で原も被爆した。
「私は厠(かわや)にゐたため一命を拾つた。(中略)
私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持がした。長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。さばさばした気持で、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思つてゐたのだが、今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。
このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである。」(『夏の花』青空文庫)
敗戦の翌年、原は上京し、41歳だった1947年、原爆体験の小説「夏の花」を発表。そして『廃墟から』『崩壊の序曲』などを書いた後、1951年3月、当時の国鉄中央線の吉祥寺・西荻窪間の鉄道レールに身を横たえ、轢死自殺した。45歳だった。
小説や童話も書いた原民喜は、なによりまず詩人だった。清新の感受性の詩人だった。
『夏の花』を読むと、筆者の透徹した目と、いかにも才能に恵まれた詩人らしい、瑞々しい感受性に打たれる。この卓越した詩人が、奥さんの後を追わず生きながらえていて、あの日、ヒロシマにいた、そのことに、運命を感じる。
原民喜の生涯を思うと、「時が人をとらえる」ということを強く感じる。
(2023年11月15日)
●おすすめの電子書籍!
『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp
原民喜は1905年、広島市で生まれた。父親は日清戦争で軍服や制服、天幕などを軍部・官庁に納入して繁盛した縫製業者だった。民喜の名は、日清戦争で国が勝ち民が喜ぶ意からの命名だという。原家は子だくさんで、七男五女いたきょうだいの、民喜は五男だった。
11歳のとき父親が胃がんで没し、12歳のときには次姉が21歳で結核で亡くなり、そうした家族の死が民喜の性格に影響を及ぼした。
小学校のころから家庭内同人誌を作り、中学でも学級誌に寄稿していた民喜は、慶応義塾大の文学部に進み、ずっと俳句、小説、随筆を書いては同人誌に発表しつづけた。人といてもまともに話さない、繊細な文学青年の彼は、一時は左翼運動にも関わったが、やがて運動を離れ、英国の詩人ワーズワース論を書いて大学の英文科を卒業した。
原は見知った売春婦を見受けし同棲をはじめたところ、半月たたないうちに女が失踪。失意の原は薬物自殺をはかった。が、一命はとりとめ、自殺は未遂に終わった。
彼の身を心配した家族・親族のあっせんにより、原は見合結婚をした。相手は故郷・広島県出身の6つ年下の娘で、見合いの席でも原はほとんど口をきかなかったらしい。
知人の家を訪ねるにも、原がしゃべらないので、妻が同行し、玄関口のあいさつも自己紹介も妻が代行し、亭主の原はうなずくだけという無口ぶりだったが、この妻の存在が原を救った。明朗な妻に励まされ、彼は短編小説を書いた。
36歳のとき日米開戦。戦時下の千葉県で、原は詩や小説を書いていたが、原が38歳のとき、支えだった妻が結核で没した。傷心の原は、実家を手伝うため広島市へ帰った。それが1945年のはじめだった。
同年8月6日、広島に原爆が投下、爆心地から1.2キロメートルの実家で原も被爆した。
「私は厠(かわや)にゐたため一命を拾つた。(中略)
私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持がした。長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。さばさばした気持で、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思つてゐたのだが、今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。
このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである。」(『夏の花』青空文庫)
敗戦の翌年、原は上京し、41歳だった1947年、原爆体験の小説「夏の花」を発表。そして『廃墟から』『崩壊の序曲』などを書いた後、1951年3月、当時の国鉄中央線の吉祥寺・西荻窪間の鉄道レールに身を横たえ、轢死自殺した。45歳だった。
小説や童話も書いた原民喜は、なによりまず詩人だった。清新の感受性の詩人だった。
『夏の花』を読むと、筆者の透徹した目と、いかにも才能に恵まれた詩人らしい、瑞々しい感受性に打たれる。この卓越した詩人が、奥さんの後を追わず生きながらえていて、あの日、ヒロシマにいた、そのことに、運命を感じる。
原民喜の生涯を思うと、「時が人をとらえる」ということを強く感じる。
(2023年11月15日)
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