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ダックのパパママストア

商店街に有る、パパママストア。
  何を売る店? 今日は、何をお探しですか....? 商店街で起こる色々なこと。

久々の布川勝三展

2016-11-24 15:15:16 | 布川勝三の絵

友人が「これを貼ってくれる」とラミネート加工されたA4サイズの「布川勝三展」のチラシを持ってきた。

見ればパウチに穴があき、ヒモを通し電信柱にも 風雨の中、当然飾るのか。久々の展覧会である。

平成28年度 市所蔵美術作品展『漆黒への旅ー布川勝三絵画のむこうがわー展』が、楽しみにしていたが、今月22日(火)~27日(日)と生涯学習センターで開催されている。

初日の1時半ごろ、友人と出かけて参りました。弟子のある方が管理されていたと聞いた気がしたが、市のページにはこの作品群は、新潟市美術館に研究用として長期間貸し出され、ようやく里帰りを果たしたので、平成23年に、ご遺族より新たに1200点以上に及ぶ素描を市に一括ご寄付されたとある。その中からも、今回は多くが展示されているようだ。

市長の「開催にあたって」のコメントにも、とりわけ漆黒のイメージが定着しておりますが、パステルなどによる夥しい素描群では、驚くほど色彩豊かで自在な形態の世界が広がっていますと、紹介されていたが、まさしく逆も真なりか、展示された静物、風景、人物画の中で、風景画の輪郭は太く引かれているのだが、穏やかで、暖かさが伝わってくる。

「むこうがわ」にはどんな世界が広がっているのでしょうか、作品鑑賞会を午後2時より、期間中毎日開催いたしますとあり、企画された学芸員はどんな事を云うのかに興味があった訳です。

静物画、人物画、光を描く、等々説明パネルが80点程の作品と資料の要所に掲げられていたが、風景画の説明パネルには、こんな事が記されていた。

“布川勝三は、下越地域はもとより、日本海側の佐渡島や、山形、秋田、青森などの沿岸地域。そして北海道。また、隣県福島や長野、遠くは山梨などの各地を駆け巡り、主に鉛筆やパステルによっておびただしい風景素描を描いた。

50歳代の終わりからはオートバイを駆って取材旅行は続き、実際、人生の半分近くを旅の途上ですごしたという。

また、1954年ごろから、旧北蒲原郡赤谷村滝谷(55年に新発田市に編入)の、焼峰山麓の牛小屋を借り受けてアトリエとし、61年ころまで住み込んで制作した。

では、一体、徹底した現場主義を貫いて布川勝三が描いた風景画素描とは何であるのか?

布川が主宰して66年に創設した「草原会」の趣意には、『草原を行くものは自由だ。/昼は太陽により/夜は星を探す/草原の道は遠く果てしなく続く』とある。風景画においては、布川の探究や好奇心が常動であるばかりか、その手と眼が対峙した。あらゆる未知の形態や色彩のすべてを抱く外世界もまた常に変容する。

布川の風景素描は、いわば、自然との孤独な交感の結果生み出した美といえるだろう。それらは、柔らかな光と色彩に満ち、流動するかたちに溢れ、新たに発生する自然として時はとどめられた。

布川は、72年の個展の挨拶では、『私は納得のゆくまで描かないと、止められない性分をどうしようも有りません。』とも独白している。

アトリエに戻った布川の絵画は、その絵画的な止めどない探求と思案ゆえに、次第に光を減じていったのではなかっただろうか。”

58歳ごろからスケッチ旅行にどこまでも駆けまわった50ccバイクを、24年間に12台変えたと云うから相当な距離になるのだろう。悪路を行くバイクの旅は、油絵具よりパステルが便利だったのだろうと想像がつく。

行き交う年もまた旅人である。毎日が旅などであり旅を栖(すみ)かとしていると、奥の細道で芭蕉も語っている。

作品展の中で、パステル画№10.(和らいだ光の中の山)№14(空の表情)№20(山のなりたち)など良いですネー。

そんな中、私が幼少の頃、ゴッホの絵、ピカソの絵はこうこうと云う具合に、布川の絵と言えばこう云う絵と、頭に浮かぶ絵が会場には飾られていた。

勝三の娘さん所蔵の№36(河口)だ。

素晴らしい物を見せてもらいました。ぜひ皆さん時間があれば本物をぜひご覧あれ。

作風は重厚に変わっても地から湧きあがる暖かさ、エネルギーは、ひとたりとも替わる事は無い。

良いですネー静物№53(椿)絶筆となった№54(雑草)が飾られていました。

人物は勝三ならではの裸婦が描かれている。

残念ながら展示作品は撮影禁止の為、ここに提示できませんが、画集から勝三が好まれたモチーフより

暮れゆく河口 1979 油彩 12F

越後の鬼才をもっともっと探りたいのではございますが、いずれまたと云うことで。

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布川勝三の絵 後日談Ⅰ

2011-11-13 11:57:01 | 布川勝三の絵

布川勝三 アネモネ 1920年代中頃 市立御免町小学校蔵

文化、催しの多い月が始まり、市が所蔵する美術作品を中心に紹介する企画展「新発田モンパルナス展 ~佐藤哲三と画家たちの青春~」が開催され、友人と初日に行って参りました。

当地は、大正の中期頃から洋画展が開かれ、昭和初期から戦前期にかけて若い画家たち、逸材が育ち当地の美術界は活況を博して来た。

地方の片田舎と云えども文化水準は、かなり高かったんですよネ。

市を代表する画家、佐藤哲三の作品が「郵便脚夫宮下君」含め12点。他20名の画家たちの作品が展示されている。

会場で寄稿文のパネルをデジカメで撮っていたら「作品撮影はご遠慮願います」と注意を受ける。
長い文面は短い時間内に読み通すのは難しい。後でプリント、PCで読み返すのにデジカメを利用しているのだが、作品の撮影とカン違いされた。

会場を廻ると、優秀な学芸員が当市にも登場したのか、例年と違い、力が入ったかA4サイズの表題作品集が作られ、所々に見本として置かれている。当市教育委員会の熱意が感じられ、私も購入してまいりました。

 恩師の作品も飾られていたが、友人と一番いいねと、意見が合ったのが、布川勝三の「アネモア」(写真)だ。

作品集によれば、布川は1923年に太平洋美術学校に入り、翌年から新潟の先輩画家、安宅安五郎の指導を受けた。当時の安宅はルドン風の作品を描いていたことが遺作でしられるから、〈アネモネ〉は安宅の影響を受けながらの試作的な作品と思われる。花瓶と花が赤系の色調で統一された華やかな色彩で象徴的に描かれて、神秘的で幻想的な画面が生まれている。布川の初期の画風を知る貴重な作品である。とコメントされている。

師匠のルドンの模写を見て、勝三も模写をするのだが、正方形のキャンバスまで用意し、並々ならぬ熱意が感じられる。
ゲゲゲの水木しげる氏も「ルドンの闇」の影響を受け、作品にあの、目玉男の登場となると、友人が言う。

 青春時代の布川の絵は、鮮やかな色彩だ。「ルドン、安宅よりも良いのでは」と友と話す。晩年の作風からは想像も出来ぬ色彩感覚が見える。

会場では、作品にライトが当たり、バックの色合いに、光が反射して、黄金色の輝きの様に見えるではないか!!

深ぶかしい色合いには、氏の色に対する造詣の深さを、今更ながら感じるのでございます。

展覧会は今日まで開催中。

 

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布川勝三の絵(5) 未完

2008-06-12 15:50:26 | 布川勝三の絵

布川勝三画伯の遺作展で、一点一点見ていると、私のイメージをくつがえす明るい色合いの作品もあったが、画伯の絵と成ると、あの重厚な色彩の絵を、論ぜなくては成るまい。

画伯は、油絵を志す前に、日本画の優れた師匠に付いて、学んだ事が有る。
私が先生の絵には、太陽の光が無いと、問い掛けると、友人は、日本画で云う光は、月の明かりなんだと答えた。
専門家の言う事は、違うなと甚く感心してしまった。先生の絵のなぞが、一皮剥けたような気がした。

しかし、なぜその時間帯なのだろうか、日本人の感性か、いや勝三の絵を語るのに、エネルギーを抜きには語れないのだ。
春夏秋冬を演じる、己を取り巻く強烈なパワー、そこに立つ一人の人間。
地球の刹那に己の魂が、陽が陰る時、そこが大自然と、五分に渡り合える、時間帯なのかもしれない。

そんな中で、ひときは光る作品があった。裸婦の油絵である。
裸婦の絵では、大きな作品だった。一目見た時、ああ完成したなと思った。

それは、縁が茄子紺色の、立派なガラス入りの額に入れられていた。
今まで裸婦の絵は、実体そのものの、追及に明け暮れていた。発表される絵も、変形の細長い額に入れられた、全身像だった。
今此処に有るのは、変形は変形だが、横たわる裸婦の、後姿の上部に、空間が描かれているのだ。

その空間には、表現の遍歴を思わせる、塊があった。
勝三の怨念か、魂か、はたまた裸婦の愁訴愛か、混沌とした無の世界に、重く漂っているのだ。
勝三が追い求めた、全てのものが、凝縮され表現されているのだ。

全体が、同じトーンで、何色というのだろうか、陶芸家でもあった勝三の、深い色合いにも似た、焼き上がった上薬の、重厚な色合いだった。

誰が買ったんだろう、南国の大使館の、白色の、広いロビーに似合いそうだ。はたまた成り上がりの大富豪か、いずれにしても、この絵から発せられる、突き刺すようなエネルギーは、広い部屋で無いと、和らかないだろう。

私が絵を見ていると、委員の某氏が、二人のお客を連れて、絵の説明にやって来た。
私の近くに立ち止まり、裸婦の油絵を、背にして話し始めた。

聞くとも無く聞いていると、某氏がある作品を指差しながら、「いやぁこう云う色は出ないんですよねー、私も色々やって見たんですが、違う油なんか使っているかも知れませんねー」

客の一人が、「水平線は、真っ直ぐに描いていたけど、水平線は、真っ直ぐじゃないんですよね、両サイドが、丸くなっている」某氏が「地球は、丸いですからねー、アッハーハー」と、何だか、おかしげな事を言っている。
浪曲の三十石船道中の一説ではないが、もっと大事なものを忘れちゃいませんかてんだ。
おねげえだから胸に両手を当てて、よ~く考えてくれ。もっとすごいのが有るでしょ、もっとすごいのが......。この絵の評論は、何処へいった?
とうとう振り返らずに行ってしまった。
私も両者の言っている事を、確かめる気にも成れず、会場を後にした。

遺作展の、案内ハガキの絵を見てみると、なるほど水平線が、両サイド少し下がっている様に見える。
絵を描かれる人は、変なところへ目が行くもんだ。写真でもそうだが、ある特選と賞された作品と、同じ場所に行き、撮られる方がいる。
構図が単純なものは、間が少し違っても、それなりの、一品と成りえる事が有る。
要素が複雑になればなるほど、程遠い、情感が湧かず、テクニックをいくら真似ても、己の表現力が、そのレベルに到達しなければ、似ても似つかぬ物になってしまう。深みバランスに欠けるのだ。

裸婦(未完) 1982 油彩 50M


某氏が遺作展で、振り返らずに残念だったと、友人に話した。
「タイトル見なかった?」「タイトル?」そんな所まで気を廻して、見た事が無い。
作品自体に気を捕られ、眼中に無いのだ。
「あれ未完と書いてあっただろう」「エッ?」私は驚いた。

話によると、パステル画の上から、油絵具を塗ったものだから、少し剥げ欠けていて、それをガラスで押さえていると言う。売られた物でなく、弟子のある人が、保管していると言うのだ。
何だか話が素っ気が無い。果たしてそれで良いのだろうか。先生がタイトルを附けたのだろうか?

下地が変な物でも、立派は立派、立派な物に描いても、駄作は駄作だ。
崩れ去るものは、作品で無いと言うのだろうか。
私は異論を挟みたい。
古代の崩れかかった遺跡はどうなのか、顔の欠けた石像は、価値が無いと言うのだろうか。
未完でも交響曲は、世界中で演奏され、脚光を浴びている。
なぜだろうか?
その物の形が、問われているのではなく、その物自体から、いかにエネルギーが、放出されているかなのだ。

芸術的評価が高いとは、表面の手際差だけじゃなく、作者の個性が燦然と輝き、その作品が、エネルギーを放ち続けているかなのだ。
布川勝三が、越後の鬼才と言われた、ゆえんも、そこに有る。
名の売れた画家でも、エネルギーを感じない作品が多々有る。

展示された裸婦の油絵は、勝三の表現の完結を表す要素が、すべて入り込み、画伯の集大成を、感じさせられた作品だった。

画伯の絵は、大自然と、或いはその実体と、己の魂との、葛藤の様を描いたのだが、その格闘がエネルギーと成って、表れているのだ。

新聞紙面に遺作展の論評が載った。作品その物の、見方についてである。それぞれの才によって、物の見え方、形が違ってくる。

布川勝三画伯の絵の評価は、正当に評価されるのだろうか。
作品が何処にあろうとも、どう評価され様とも、勝三のほとばしりが、エネルギーを永遠に放出し、続けるだろう。

遺作展に行って、久々に良いものを、見させてもらった。
布川勝三画伯の、ご冥福をお祈りいたします。
                     合掌
吉○○さんへ





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布川勝三の絵(4) 芸術とは.....

2008-05-11 10:40:54 | 布川勝三の絵

私は一度、布川勝三画伯の絵が欲しくて、買いに行った事が有る。
裸婦の絵である。
友人が今、画伯が個展を開いて、裸婦ばかりを描いていると教えてくれた。

まだ商店街が、華やかな頃、街の中頃のビルの三階に、某画廊が在った。階段を上がって行くと、入り口の通路部分が細くなっていて、その壁面に、小さなパステル画の作品で、3~4枚飾ってあった。
中に入り、色付きは、とても買える身分ではないが、当時先入観があって、油絵だとばかり思っていたが、友人が裸婦の絵は、パステル画なんだと、後で教えてくれた。

デッサンでいたく気に入ったものが一枚あった。珍しく縦位置の構図で、正面を向き、方ひざを少し折り曲げているポーズの作品だった。
清楚で、やわらかさが何処となく漂っていて、実態を鋭く描く、勝三の線にしてみては、骨格をストレートに描きながらも、見ていると体のふくらみが、感じられる作品だった。聞いてみると4万円だそうだ。
売約済みの作品には、色違いのピンを、作品の下に刺すようだが、それは無い。

係りの女史が言うのには、それよりも見開きの作品を薦めた。
スケッチブック2ページに渡る、横たわった裸婦の絵である。
骨格の上から、紙面全体にわたって、黒々と鉛筆の線が、これでもかと思わんばかり、激しく塗られた作品だった。こんなに描き込んだ作品は、他に無いと言う。

その作品より、実体そのものの輪郭だけ、描かれたものの方が良かった。
どうしよう何処に飾る、買っても家に飾る場所が無い、お蔵入りか、買おうか買いまいか私の身分では、大金だった。
それよりも、万人に見てもらった方がいいと、勝手に解釈していた。翌日、忘れられずにもう一度、眺めに行った憶えが有る。

家が、下宿屋をやっていた頃、転勤で引越しされる先生が、親の所へ挨拶に来た。
おもむろに風呂敷から、一枚の絵を出し尋ねた。
「これ有名な人なんだそうですね」「そうですよ」布川勝三の重厚な花の絵だった。教え子の親御さんから、もらったんだそうだ。
聞き確かめると、ニヤニヤしながら、風呂敷に包んでしまった。

あの様子だと、部屋に飾った事は、無いなと私は思った。
住宅事情の生にしているが、布川勝三の絵と向き合うには、実は、強い精神力が必要なのだ。
絵から発せられるエネルギーに、負けないパワーが、見る側にも要求されるのだ。
勝三の絵を飾るのには、それなりの覚悟が入る。

先の友人と学生の頃、芸術談義に花を咲かせていた事が有った。
彼は絵を選考していて、私も色んな物を見ていた。もう芸術は、終わったなどと悦に入り、語り明かしたものだった。
それは、芸術論も出尽くして、あらゆる物に対しての評価も、論を超える物ではなかった。
尽きるところ芸術とは、美しいものに限らず、心に動揺を与えるものと、わたしは理解していた。

例えば、個展の案内をもらったとしよう、会場へ行くと、絵などは飾られて無く、部屋の隅に、便器が一つ置いてある。ぶら下がっている、ひもを引っ張る、ジャーと云う音がする。
何だこれは?ぶ然とした動揺が走ってしまう、心に波風が立つのだ。
それが芸術だと言う理論である。
芸術論を突き詰めると、それも有りとなる。

時代は、現代アートの夜明けの時だった。今テレビで、ニュースを見ていると、村おこしなどと称して、某芸術家が、林の中に布を張り渡し、広場には、何かを積み上げる。現代アートである。
アイデアは良いのだが、2~3日もすれば、皆ガレキ化とする。
それは、そもそもの作品自体から、エネルギーを発していないからだ。
存在する理由、魂が感じられないのだ。

友人も一論あって、情熱を込めて良く論じていた。良く解らなかったがある日、彼の下宿屋へ行って、部屋を訪ねた。
中に入ると、あっ!これか、正に彼の言わんとしていた事は、これなんだ。混沌としていたものが、吹き飛んだ。
今説明しろと言われても難しいが、押入れのふすまが、隠れんばかりの、抽象画の大作だった。
画用紙を十数枚つなぎ合わせ、描かれた物だった。
二十数年前に、あれは良かったな、あの作品はどうしたと聞いた事がある。
東京出る時のドサクサか、展示した後のドサクサで、作品が作品だけに、何処かへ行ってしまったらしい。
それが彼の、卒業制作の作品だった。

金欠の私を見た、彼に誘われて、高田馬場でタチンボウしてあぶれ、手配師に「悪かったな又来い」と言われたことが有った。
お互い貧乏な学生生活だった。


 記  布川勝三画伯の遺作展で、一点一点見ていると....と、文章は続くのだが、少々長いので、次回に、学生時代の思い出話に、本題から横にズレたが、最終章、布川勝三の絵 未完 乞う御期待。

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布川勝三の絵(3)  無の色

2008-04-21 09:12:27 | 布川勝三の絵

布川勝三の絵の表現は、登山家が、山を登るのに似ている。
これしかない、究極の表現の、頂点を求めて登って行くのだが、結論が出て、ついに頂上に立った時、一枚の扉がそこに有り、それを開くと、その向こうには、何と光り輝き、新たな視界が、X軸の交差の様に、目の前に広がって来るのだ。

究極の表現だと思って、頂上を目指し、登って来たのだが、それに捕らわれない世界が、眼下に洋々と、広がっているのである。
又、これはという山を発見し、登って行く。頂点がそこに見えてくる、表現の追求に、休まることは無い。究極の表現を求め、駆け上がってゆくのだ。

幾多の山を越えただろうか、年齢と共に、表現方法は、変貌を遂げて行くのだが、一貫として、根底に流れる想いは、若い時から筆を置くまで、何ら変わる事は無かった。

それは、風景画の中に、端的に表れている。描かれた道端の線は、鋭く何の迷いも無い。音楽に例えれば、私の吹くサキソフォンの、か細い音色とは違い、太くズバッとくる音なのだ。描かれる線は、へつらいとか飾り付けなど、何も無い。
佐藤哲三が、絵具自体の魔力で描く画家だとすれば、布川勝三は、それらを削ぎ落とし、描く線は大胆にも、実体その物の、骨格を表す、絞り切った表現なのだ。

何時の頃からだろうか、キャンバスに、大きく取られた空の部分こそは、長年追い求めた、気がかりな、勝三自身のテーマ、挑戦の場ではなかったか。
それは、絵にならない部分の、表現の追及に合ったのだ。

空間の世界の表現、あらゆる色を吸収してしまう魔の世界。
目の前にあるそのもの、その奥行き、無の色の世界。目に反射してくる、空の絵とは違うのだ。
実体の裏に有るものが、見えてくる絵を、描きなさいと、よく言われるが、そこに有る熱気、頬に伝わる風、空気の臭い、空気のうねり、地表から、はい上がる水蒸気、何処からとなく湧き上がる地上の力。

己と対比し、そこに立つ時、勝三の葛藤が始まるのだ。
何度となく描いては消し、描いては消しを繰り返すうちに、執念が湧き上がり、勝三自身の情念が、キャンバスを塗りたがるのだ。
想いの数だけ深くなり、描けば書くほど暗くなってゆく。追えば追うほど、混沌とした、渦の中にいる。
その想いこそが、又、苦しみぬいた証こそが、勝三自身の、空気のうねりであり、無の色の表現なのだ。
それが、勝三の葛藤と相俟って、爛々としたエネルギーと成って、ほとばしるのだ。

あなたが、勝三の絵を前にして、鑑賞しようとする時、あくまでも余談だが、しいて無音の勝三の風景画に、音を付けるとすれば、津軽三味線の、じょんから節を思い浮かべて見るがいい。
バチを弾けば、風雲時を告げ、空が動き、暗闇の空間から、風が吹き抜けて行くではないか。

ご自宅にお邪魔した時、奥さんが言うのには、台風がもうすぐ来るというのに、先生は、小型のカメラを持って、出かけて行くのだそうだ。
「おめさん危なすけ、やめなせ」と言っても「きっかねんだよ」と。
芝高の前の、陸橋に上がって、ずーとそこに居るのだ。
暗雲の空を見上げ、突風を体に受け、何を想い、何を感じていたのだろうか。

己をそこに置く地球の力、地表を負うエネルギー、何ともしがたい存在。それらを表現したくて、そこにたたずみ格闘していたのだろうか。
いや、強烈なチャンピオンに向かうボクサーのように、自ら発する力、己のほとばしりを、俺は、己の力で、立っているんだという叫びを、描きたかったのだろうか。

勝三の絵の中には、小鳥のさえずりとか、犬の遠吠えなどは、聞こえてこない。
さんさんと輝く、太陽の光もない。

布川勝三が、描きたかった、永遠のテーマは、実体と、それを取り巻く、許しがたいエネルギーの、表現ではなかったかと、私は、密かに思っているのです。


追伸 布川勝三の絵(4) 未完 最終章執筆終わりましたなどと書くと、エッ!まだ有るのと、お叱りを受けそうで、恥ずかしいのですが、布川勝三の思いを全部出し切らないと、何かすっきりしない気がして、お付き合いいただければ幸いです。
吉○さんの自伝も面白そうですね。最終章は、チョッと長いので、又の機会に送ります。なかなか書くというのも面白いもんですよね。
人はどう思うか解りませんが、エヘヘ
敬○学園大学でのご活躍期待しております。

吉○○さんへ

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布川勝三の絵(2)  出会い

2008-04-05 09:43:01 | 布川勝三の絵

ある作家を追っていると実に面白い。
昔の諏訪公園は、今と違って機関車などなく、小さな丘があり、斜めに生えた松ノ木などが、数本有ったり、大倉喜八郎の銅像の、積み木重ねの、大きな台座が残っていて、子供達の格好の遊び場だった。

私が、小学校に上がるか上がらない頃、諏訪公園で、友達と遊んでいる時、当時としては、めずらしい、大きなシェパードを連れた、異様な雰囲気の人を、しばしば見かけていた。
ほほのこけた顔は、眼光鋭く、背筋が伸び、黒っぽいいでたちだった。
子供達の間では、あの犬は、頭いいんだがと噂されていた。

ある時、遠巻きにしていたが、上級生達が、犬をけしかけたのだ。
飼主が、「ホッス!」と号令を掛けたから溜まった者ではない。犬は吠え出し、子供たちは、一目散に逃げ出した。
私も木によじ登ったが、素早いのが、上に二人いて、それ以上、上がられない。足元で吠えられ、降りるに降りられず、木にしがみ付き、怖くて泣いてた覚えがある。

その飼主が、当時、また絵筆を持ち出し、描き始めたと言われた、布川勝三だった。
子供の目から見て、風体からして異様だが、後談、あの暗く重い絵の、作者と知ってからは、妙に脳裏に残るのである。

佐藤と言う子がいた。みんなレンちゃんレンちゃんと呼んでいた。
同期で、しかも家が近い所に引っ越して来たので、遊んだ事が有る。友達の話では、お父さんは絵描きだそうだ。
家にまで、遊びに行った事がなかったので、どんな絵かは知らない。中学校半ばで、東京へ引っ越して、いってしまったが、いち早く、全国区に名を上げた、郷土の画家、佐藤哲三の子だった。

私は、数年前に○○○市主催の、佐藤哲三展を、公民館まで見に行った事がある。
ここで二人の画家に付いて、少し語らねば成らない。まだ貨幣経済が、今ほど発展していない頃に、佐藤哲三の、風景画の絵具のテンコ盛りには、驚かせられる。
貧しい時代である。画家を志すもの、ないチューブから絵具を搾り出し、描いた絵とは違うのです。

絵でも写真でもそうだが、ヌードを描く時、一人のヌードモデルを雇い、あの角度、この角度とフォルムを追求するのだが、そんな時に、数人のモデルを使い、有名になった写真家がいる。
例が、適切だとは言わないが、どうも佐藤哲三の絵も、それに類似して入るように見えてしょうがない。
誰も、そういう絵具の使い方をしなかった時代に、海外の影響も有るかもしれないが、そう云うとき覚える、似た驚きが有るのだ。

決して卑下しているのではない。表現の方法は、色々合っていいし、何よりも作者の個性を、否定するものではありません。
なぜ、哲三はそう描いたのだろうか?
広漠とした北蒲原の立体感を、表しているのだろうか。

私は、哲三の絵の秘密は、絵を描かなかったのではないか?絵を描くのではなく、油絵具自体を、描いていたのではないか、油絵具自体を、愛していたのではないかと思うのです。
自由変化に変わる様を、うねって踊る様を、油絵具を知る事によって、それは、己自身の可能性をそこに見ていたのかも知れません。

佐藤哲三の、チューブから押し出される絵具の、あのうねり具合のようなタッチは、ある時は力強く盛り上がり、ある時は風に吹かれて消えてゆく、湿度の高い地での、油絵具との出会いが、哲三の心の中に魔力として表れ、それに捕らわれ、育しみ、追求して行った作家では、なかったのかと思うのです。
その表現が、あの色使い、あのうねり具合となって、北蒲原の地の温度を、感じさせる作品となっているのでしょう。

絵を描くと云う原点から言うと、絵具を盛り上げる手法の生かも知れないが、哲三の線は、弱く細く幼稚に見えて仕方がない。評論家でもない私が、何を言うと、お叱りを受けるかもしれないが、私の脳の器では、そう感じてしまうのだ。

作風の違いが有るにせよ布川勝三と対比させる気は、さらさら無いが、この地で出会った二人の画家は、北蒲原の地をどう見、どう感じていたんだろう。

佐藤哲三は、確かに北蒲原の空を描いていた。

布川勝三は、空を描いただろうか?
いや描かなかったのではないか、描かなかったのだ。
初期の作品には、たしかに写実的なそれは有る。
しかし、何時しかキャンバスから、それが消えてゆく。
北蒲原の空を見、何を考え何を描いていたのだろうか。


追伸 布川勝三の絵(3) 無の色 執筆中乞う御期待

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布川勝三の絵(1)  なぜ黒い

2008-03-21 11:17:30 | 布川勝三の絵

吉○○さんへ

8月31日に、布川勝三遺作展を見てきました。
私は学生の頃、画伯と2~3声を交わしたことがあります。

それは、絵を習っていた友人(遺作展実行委員)に誘われて、諏訪町のご自宅へおじゃました時です。
先生は、アトリエでキャンバスに向かい、コンテを握りサッサッと手を動かされていました。
窓の白いカーテンが風で内側になびき、淡い光が部屋に射し込んでいました。

画伯との絵の出会いは、この友人宅に飾られている海の絵と、幼い時、行き付けの床屋に飾られていた、ブドウの絵でした。
海の絵は、日本海の砂浜で、大部分が空で、鈍より暗くキャンバスぎりぎりに、白波が立っている絵です。
部屋全体が華々しくなるという代物ではなく、良く言えば(失礼な話)重厚な絵です。

何でこんな暗い絵を飾るんだろうと子供心に思ったものです。
ブドウの絵は、毎月一度、床屋へ行くたびに眺めていました。
それは、正面の鏡の上に飾ってあって、全体が暗く落ちた赤茶ぽいトーンの、これまた重厚な作品でした。

床屋の女将の話によると、先生が何か買ってくれと訪ねて来られ、「じゃあ、ブドウの絵でも描いて持って来なせ」と、言ったんだそうです。
女将も気骨のある人で、地元の有望な絵描きと知っていて、「たぁーけ絵だてがんね、やぁーせ、ブドウの絵だ!どうせ描くんだったら、巨峰とか、たぁーけブドウを描けば、いいこっさね。」「これなんか、やぁーせ、ブドウだがね。」
一房描いてある絵を見ながら、「もっといっぱい描けばいいこっさね。」アッハッハッーと笑った。

ここの家には、札付のきっかね子供がいて、夕方の路地裏で、バケツで洗濯している姿を見て、びっくりした事がある。
旦那に先絶たれ、女手一人で永くやっていたが、だいぶ前に女将も亡くなり、店も閉まってしまったが、当時の布川勝三をそんな人々が支えて来たのだろう。

それまで私は、画伯の絵を数点見たと思うが、ああ、あの暗い絵というイメージで、ピカソとゴッホの絵の様に、脳裏に布川勝三が浮かんでくるのです。
ピカソは、ああ云う絵、ゴッホは、ああ云う絵、勝三は、ああ云う絵と云う具合にです。
これは何なのか、内からほとばしる情念あるいは、苦しみぬいた怨念かも知れません。誰もたどり着かない領域を、表現しているのでしょう。
それが他者との違いとして表れ、鮮烈に勝三の絵として、脳裏に突き刺さるのです。

私は、先生の後姿を見ながら「なぜ黒く塗るんですか?」と聞いたのです。

芸術家を志す者、口が裂けても聞けますまい。それは感じ入るもので、自らの技量の愚かさをさらけ出してまで、どうするのと勝三自身の表現の原点に踏み入る事は、出来ないはずです。
私は、ふっと聞いてしまったのです。それは、幼い時からの思いだったかも知れません。
先生は、甲高い声で「いやぁー黒く塗りたくなるんだよね」と....

もう何年前になるでしょうか、まだ先生がお元気のころ、先の友人と一緒に市展を見に行った時、ベニヤ板1枚位の大作で、海の絵がありました。
全体が闇夜で、微かな光を受けて、キャンバスぎりぎりに、白波が寄せてる絵です。先生が、好まれたモチーフの一つです。

無光沢の黒で、前面にめずらしく真平らに抑揚なく塗られた空に、ポツン、ポツンと、絵具のチューブの、口先のカサブタのような、絵具の盛り上がりが2~3有るのです。それが、なんとも言えない間で、明暗差のない黒一面の大画面を、絶妙に引き締めているのです。
モノトーンで、こんな表現が出来るのかと新鮮な驚きでした。

翌年の市展も行きました。一転、はがき代の大きさで、田んぼのわらを積んだ、におの絵でした。
カサブタのような盛り上がりが、これでもかと思わんばかり、画面一面びっしりと描かれていました。
私の感激はひとしおで、新境地を発見されたんだな、そんな思いでいっぱいでした。

吉○さんも出品されていて、友人があなたの絵の前で立ち止まり、「色使いが人と違う」と言っていたころの話です。

布川勝三については、まだまだ話したいことが、一杯有るのですが、メールで長いのは失礼だよと、家のかあちゃんが、言うのでいずれ又、ご希望があればということで、本当は、バースディカードのつもりが、たまたまこの日に、絵を見に行ったもんだから、芸術談義?になってしまった。
あらためてお誕生日おめでとうございます。

追伸
 只今、布川勝三の絵(2) 執筆中乞御期待

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なつかしいファイル

2008-03-17 19:19:35 | 布川勝三の絵

勉強した訳じゃないが、何時しか見様見まねで、90年代の初頭頃から、PCをいじる様になり、1~2の必要なソフトを動かす事だけに使っていた。

高価な物なので、一生に1~2台買うか買わないかと云う代物だと思っていたが、PCの発展も凄まじく、最初のノートPCの画面は白黒で、今でも伝票発行用に使っているが、2代目はネットにつなぎ画面もカラーに成って快適に使っていたが、大雨洪水警報が出ていた時、床にダックを下ろさず、デスクの上に遊ばせていたが、堪ったオシッコを大量にPCの上にしてしまい、修理不能と成ってしまった。

その後買ったPCもHDのトラブルで3回も故障して、記録したデーターがパーに成り、改めてデーターを入れる手間が大変で、何度も憂鬱に成った。

バックUPを取ればと、よく言われるが、ここがいかんせん必要なキーしか触った事が無い哀れさで有りますナ。

去年の暮れ近くに、仕事で使っているソフトがバージョンUPして、XP以上対応に変わり、今のPCではデーターが送れられなくなり、業者に「中古でいいから」とPCを心配してもらい、それを今使っている分けです。
1台20万以上して、それから10万以上、今、5万以下の中古PCを使って、これが一番動きがスムーズで安定しています。

PCがトラブって一番残念なのが、今までためた写真やデーターが無くなってしまう事です。

そんな中で、画家の“布川勝三”の事を書いたファイルが見つかりました。

これは私の知人で、絵に興味が有る方で、体は不自由なのだが、御自宅で塾を開いていて、多くの子供達を教えておられる方に、個人的にメールで書いたものです。
それを、プリントして綴じて有りました。

色々書いたものも有ったのですが、残念ながらプリントまでは、して無かったですネ。
送信日を見ると1話目は2000年9月7日と有ります。
書いてて熱が入り、1話~4話まで有ると云う珍しいメールで、送られた方はさぞ迷惑だった事でしょう。(笑)

そんな事で、私も記念にプリントしていたのでしょう。所々鉛筆の走り書きが有り、読めない箇所も有るが追記がされている。

PCに何時かまた書き写したいと思い、ネタ不足の折に機会があれば紹介して見たいと思います。
私は絵を勉強した分けではないが、個人的な思いをある方に伝えた内容ですので、思い込みで実際と違う事も有るかも知れません。
落ち度があれば、ご指摘頂ければ幸いです。

                        乞う御期待。

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