「本土並み復帰」を叫んでいた「沖縄県祖国復帰協議会」が、米国との返還協定が見え始めた時、もっと言ってやれと云うことか、自衛隊断固反対、米軍基地を全て撤去する復帰にするのだと、「即時無条件返還要求」行動を行うことを、今までの範疇を越え決定するのです。
日米安保のある日本に復帰すると、「本土並みに」日米安保が沖縄に適用されて基地が残る復帰になるため断固防止をするというのです。
この時から復帰協の運動の実態は「安保闘争」となっていったのです。
今、沖縄問題で最も理解困難で誤解しやすいのが、十数年前表面化してきた「琉球独立工作」です。実は、沖縄県民の全く知らぬところで、沖縄県民を先住民族とする国連勧告が出されてきました。2008年に最初の勧告が出されて以来、見事に隠ぺいされ続けながら、繰り返し4回(2018年8月時点)も勧告が出されています。
これらの勧告が出される背景には一体何があるのでしょうか。
国連では、先住民族の土地の権利を保護しなければならないというルールがあります。沖縄県民を先住民族として認定させたい勢力の目的は、沖縄の米軍基地問題を国際的人種差別問題に巧妙にすり替えて、国連が認めている先住民族の土地の権利により米軍基地を撤去させることなのです。
更に、資源の権利の保護も謳われているので、尖閣諸島海域の油田やレアメタルの権利も特別に保護しなければならなくなります。
現在、沖縄の米軍基地撤去運動は、「安保闘争」から国連と沖縄の歴史を利用した「反差別闘争」にシフトしたのです。そして、その守りには、「日米安保賛成の世論」だけでなく、「沖縄県民は古来から日本人だ!」という国際発信も必要な時代に切り替わっているのです。
しかし、残念なことに、日本政府も言論界も「沖縄はいつから日本なのか」について明確に回答できる、共通した歴史観を持ち合わせていないのです。
そこへ最重要戦略地域と見ている、大陸からの思想が突いて来るのです。毛沢東政権の時、「中国人民は日本人民の偉大なる愛国闘争を断固支持する」というタイトルで、米国に対して基地や武装部隊の撤退要求・沖縄の領土返還要求・日米安全保障条約の廃止、等々。すべてこれは日本人民の意志と願望を反映している。日本の英雄の皆様に敬意を表明しますとある。
しかし「琉球は中国の族地であり、琉球人民はすなわち中国人民である」から始まり、当時も今も沖縄県民が見たら激怒する内容ですが「琉球革命同志会」が、中国復帰運動への支援要請文を送り、いくつかの省市参議会がこれに呼応していて、今は、「第一列島線」「第二列島線」という中国人民解放軍の海軍による近代化計画の概念を打ち出しています。そこに沖縄が含まれているのです。
沖縄県知事選の投票が今月11日に行われます。沖縄は、これから如何進むのか?
最後に、仲村覚氏の著の中から、下記をご紹介。
沖縄県祖国復帰運動の舞台裏とは?
昭和四十六年(1971)六月十七日、日本と米国は沖縄返還協定に調印しました。沖縄はついに異民族支配から二十七年ぶりに解放されることが決まったのです。あとは日米両国の議会で協定の批准を待つのみとなっていました。
ところが、祖国復帰協議会は、米軍基地が残った形での復帰は受け入れられないとして、返還協定粉砕という過激なスローガンを掲げ、ゼネラル・ストライキを繰り返す激しい反対運動を始め、その運動が安保闘争モードに豹変していたのです。
当時はベトナム戦争真っ最中です。また、朝鮮戦争も休戦中でありいつ再び勃発するかわからない状態でした。さらには当時の中華人民共和国は核兵器の開発がほぼ完成しつつあり、自由主義陣営にとっては新たなる軍事的脅威が現れていたのです。そのような中で、沖縄から米軍基地を追いだし、自衛隊の配備も阻止して沖縄を丸裸にしようというのが祖国復帰協議会の復帰運動の実態だったのです。
国会では同年の国政参加選挙で参議院議員に当選した祖国復帰協議会委員長の喜屋武 真栄(きやんしんえい)氏が与野党の議員に返還協定の批准に反対するように言い回っていました。そのため国会では、「沖縄県民が望まないのなら無理して強行採決する必要は無い」という空気が蔓延(まんえん)していたのです。
では、運動に参加している県民は、本当に沖縄が復帰しなくて良いと思っていたのかというと、そうではなく、復帰すること自体は既に決まっているものであり、復帰の条件をよくするための運動だと思って参加していたのです。つまり、祖国復帰協議会や地元マスコミに、ほとんどの県民が騙されていたことを意味します。
そのような中、沖縄返還交渉のやり直しは不可能であり、今のチャンスを除いて沖縄の復帰はありえない。このままでは子どもたちがどこの国の人間だかわからないような人に育ってしまうと、復帰の危機を悟った教職員五名が沖縄教職員会を脱退し、「沖縄返還協定貫徹実行委員会」を立ち上げました。
十月三十一日に与儀公園で一〇〇〇名の大会を開くと、十一月三日には代表団八名で上京し、国会や政府に「沖縄県民の本心は全員が復帰を望んでいる」と涙ながらに早期批准を要請しました。その結果、十一月十七日には自民党が沖縄返還協定を強行採決で批准することとなります。
昭和三十五年(1,960)から沖縄の祖国復帰の大衆運動の中心的役割を担ったのは「沖縄県祖国復帰協議会」ですが、実はその目的は日米安保破棄であり、彼らによって県民全体が安保闘争に巻き込まれ、復帰の実現が危うくなったところを、国会に本当の沖縄県民の声を伝え、祖国復帰を貫徹させたのが、「沖縄返還協定貫徹実行委員会」だったのです。