家業を継ごうと、父母の元に戻って来た頃は、商店街は近郊からもお客を集め活況を博していた。
大通りには大型店も数店進出して来ていて、当地域も都市改造の影響で店舗も木造の店からビルに変わり、当商店街にも歩道が新しく出来き、アーケードも架かり、駅前から1000メートルをこえる商店が、雨に濡れることなく買物の出来るストーリーになります。
商店街の街並みは昔からの商いのお店、新規オープンの店と、遍歴を重ねても行くのですが、当時は2階にも多くの店舗や、事務所、縫製工場なども集まる所となっていましたネ。
当商店街にも、珍しい所ではFM放送のサテライトスタジオ、国会議員の事務所などがあり、某レコード店の撤退の後の1975年に、某弁当店の1号店が開店します。
今は、レコード店と云う業種も影をひそめる時代ですが、私が子供の頃は、町の中心部には何店舗かがあり賑わっていました。
時代の流れも有り、そのレコード店は何時しか街から消え、大型店も商店街には、もうありません。
某弁当店は、お客様で年々賑わいましたが、昔は車道に車をチョイと停め、手っ取り早く買物を済まされ立ち去られる。そんなお客さんが目立ちましたネ。
だんだんと車社会も進んで、交通量も増えれば、交叉点近くの店舗では、車道に停める行為がだんだん難しくなって来る。
繁盛していた弁当屋さんも商店街に出店して何年が経ったのだろうか?商店街としては残念では有りますが、郊外の駐車場の完備した場所に移転されて行く。
商店街の並びは駐車スペースがなく、市も車社会に合わせ、3階建ての市営のパーキングを商店街の裏手の一角に造り、私達も来店のお客様には、駐車場のPRやらサービス駐車券を差し上げたり、ルールの規範を作ろうとしたのでありますが、当店から離れた所に有る市営の駐車場を案内しても、お客様としては不便なのだろう、二度とは戻って来られず残念な結果に。
郊外に出店した弁当屋さんも大きく発展され、2000年代には売上高約18億円を計上、従業員二百数十人の規模となったのですが、今月15日付で事業を停止し事後処理を弁護士に一任、自己破産申請の準備に入ったことが明らかになりました。
弁当店を7店舗展開するほか、食堂を2店舗、温浴施設内の飲食施設を3店舗運営するなど事業を拡大していました。
しかし、近年は同業大手やスーパー・コンビニエンスストアなどとの競争激化で売上が減少すると、原材料価格の上昇も重なり業績が悪化したため、これ以上の事業継続は困難と判断し今回の措置に至ったようです。
負債総額は約2億円の見通しですと、新型ウイルス影響、県内2例目破産申請へと新聞紙面を賑わしていました。
此の店の私の思い出は、若かりし頃に同じ商店街で、同じ空気を吸い商いを共にしていて、大きく伸びる人。
世界に進出する人。全国にチェーン展開する人。当地からは色々な人々の才能が羽ばたいて行く。
モータリーぜーションの発達で、昔からの商店街と云う造りは、街を歩いて買物を楽しむ時代から、車で買い物する時代となり、連なる商店街の街並みには駐車場のスペースが元々無く、当店も裏口の向かいに駐車場を用意する事になるのだが、残念ながら、商店街と云う造りが、時代と共に衰退して行くのです。
今は塾も学校の様に生徒を寄せての運営から、商店街にある塾は、ネットでの1対1の塾の看板が出て、多くはネットの時代になり、従来のお客様を、一つの場所に集めるやり方では、時代から取り残されて行くのかもしれない。
元気のある同業を見れば、確かにネット販売にも着目していて、全国を相手に商いをされている。
我々の今まで培った商いのやり方だけでは、中々難しい時代になり、飛び出して行く力が必要だったのだろうが、残念ながら商店街を見渡しても、後を継ぐ若者の数も少ないので有ります。
商店街に新しい芽が揃う日が来るのか。
今晩の晩酌は息子夫婦が贈ってくれた特別純米酒「酔鯨」と云うお酒。
高知産の鯨の絵の描かれたお酒。「味は如何?」と、家内の携帯に問われているみたいだが、残りもわずかだが、常温、熱燗、色々味わってみたが、今日試したぬる燗がウ~ン一番味わいを引き出す。
本来、私は熱燗派です悪しからず。