何度か、今日は、じじちゃん、ばばちゃんが来るよと云われていたのだろう、家内の携帯に孫が、「大きい自動車来るかなー」と言っているヨと、娘から電話があった。
孫のみやげのへの期待いが伝わってくる。
そーだよナー、孫としてみれば、大きい自動車だよなー...。
でも、モーッみやげは買ってしまったし残念。
仕事をする自動車が好きで、絵本に載っている、色んな車種名を、指を差すと言い当てる。
車に乗っていても、工事現場や、モータープールに通りかかると、「○□△だー」と、此方の知らぬ呼び名まで出てくる。
自動車のおもちゃは色々有るのだが、孫としてみれば、ジジ、ババが来るともなれば、目新しい車の、みやげを期待してたのだろう。
純粋に子供のことを、親も考えれば良いのだが、そこに親の理屈、想いいれが加わってくる。
前回も書いたが、此方としてみれば、ご祝儀も弾まなきゃならないし、孫の持っている、小さなミニカーのコレクションが増えればいいかと、ミニカー2個位でと、勝手にソロバンを弾いている。
娘親としてみれば、車なんかいっぱい有るし、情緒教育も必要だし、違う物が良いとなる。
そんな事で、バケツに入った3才用レゴブロックに成った。
包装された、大きな包みを見せると、孫の目は輝いていたが、開けるとブロックが、何個かの袋に分かれていて、それを私が、おもちゃのダンプカーに載せ、ブッ、ブッー。
孫も車でない事も分かり、最初は、一緒になって遊んでいたが、いつしか飽きてしまった。
これを組み立てると成ると、なにか細々していて、これは容易ではない。
親の狙いほど、子は根を詰めることはない。
まだまだ、すぐさわられて完成している、自動車が良いのだろう。
家の中を見渡すと、レゴブロックはちゃんと有る。
「あるじゃない?」
「作ってもすぐ壊しちゃうの、なにか作ってあげて」
おみやげ一つとっても、三者三様である。昔、黒澤明監督の「羅生門」と云う映画があった。
これも一つの事柄、真実に対して、それぞれの三者三様の想いいれが語られると云う物語なのだが、人の我が、よく現れていて人間の性、哀れさを表している。
人間、どうも長く生きていると、自分が一番正いいと、頑固になり、充実はしてるのだが、向上心が、もっと何かあるはずダと、決め付けてしまう危険性がある訳で、純粋に物事が、見えにくくなって行く。
これは、誰のためのおみやげか?
なんだかんだでは有りません。
孫の「大きい自動車来るかなー」が、一番正しいのであります。