うん蓄ある話は面白いデスネー。
地元にある文化財に光りをと、長年郷土の歴史遺産の保存と活用に、尽力されてきた御仁がいる。
その会が主催(共催教育委員会)する文化講演会が、毎年行なわれ、楽しみに拝聴しているのだが、いざお城のお話と成ると、人選に苦労するのだと言う。
その御仁が東北三名城の一つ、白河小峰城を訪れていて、先の東日本大震災で、小峰城が、まさに目を覆うような甚大な被害が出て石垣が崩壊している。
名城百選に選ばれた文化財が崩壊しては元も子もないと、講演に先立ち、その模様をスクリーンに映し出し、大掛かりな復旧作業に成り、文化庁も予算付けに加わり27億円とか。
新発田城の場合は、石垣の石一つ一つの調査も終わり、図面化はされているが、切り込みハギと呼ばれる、すき間なくかみ合う様に、きちんとつまれた石垣で、一旦崩れたら元に戻すのは難しいのではと心配している。
そのため、石垣に根を張り老木化した桜の木は、万が一を考え伐採してはと提案する。それは、彼が歴史をさかのぼれば、行く付く真実なのだろう。
演題は「本物の城の復元に携わって~伝統と現代の融合~」と題うって、講師は新発田城三階櫓・辰巳櫓復元工事、設計管理主任 片桐友哉氏。
史跡内に発掘調査と豊富な史料とともに、三階櫓と辰巳櫓の新築復元を行なった。
復元寸法を設定し、CGと古写真を照合しながら検証を行なった。
構造については原寸大の構造体をつくり圧力をかけてその耐力の確認を行い、伝統工法による復元を採用するとともに、石垣への負担を軽減する基礎工法を用いていると云う話だが、そこには今まで残った重要文化財が、破損しては何にもならぬと云う、保存活用におけるものの考えが、基本中の基本として流れていた。
史料に基づく高精度の復元と言ってはいるが、辰巳櫓の一階には強化ガラス張りの礎石開口部が有り、過去に柱を支えていた礎石がいくつも出土し、その内の一つを辰巳櫓の内部から見ることが出来る。これ以外の礎石は盛土によって保護され、将来に遺構を伝えるとある。
復元と言えども、礎石を使わず、コンクリートで梁をつくり、石垣、礎石に直接力の加わらない工法である。
かねがね辰巳櫓の立ち上がり、石の積み方に少し違和感を感じていたが、この話しを聞いて納得できた。
演題に~伝統と現代の融合~とあるが、正しく利にかなった見方なのだろう。この会社のたずさわったパンフレットの事例を見ても、現代に生かす文化のあり様が感じられる。
復元にあたり、色々なエピソード、裏話を聞いて、到る所にアイディアが有り、実に面白い。
新潟地震、東日本大震災などの地震にも、新発田城の石垣は耐えてきた、しかし変形は始まっていると云う。
「石垣にある桜の木はどう思もいますか?」と質問を投げかけられた講師は、石垣の変形が進まぬよう「円弧滑りによる崩壊」を防止する目的で、堀の中には、杭を打ち、連結し、栗石を補強している。桜の木は100年咲き続ければ、人々の心の中に根強い文化として息づいているのでは、後に、桜の名勝地として、県立病院の跡地も利用できるのではと。
枯れたら石垣に二度と植える必要はないだろう、根をそっくり掘り出し、土をいれ補強は欠かせない。しかし、それまで持つか?
文化とは、人々の心の中にあるものと、訳すのなら、伐るのは忍びない。
前に書いた「接点」で、風土とは、‘風’が街来者で、‘土’が地の人で、織り成すもの。
又、建てられたものは1年目は目新しい物でも、10年も経てば景観と成り、30年も経てば風土と成ると、言っていた主催者の挨拶を思い出します。
50年も経てば、その地域の伝統文化として、立派な花が咲き、人々の心の中に息づいて行く。
別談:今日お客さんが、これを読めとコピーの資料をおいて行く。
紫雲寺潟があるのは知っているが、本当の地名は、塩津潟と云うのだとお客さんが言う。
ようやく教科書の副読本で、紫雲寺潟の地名から、塩津潟に直されていると言う。
資料には、『築地村の村歌と大和朝廷の城柵』とあり、新潟県には、磐舟柵(いわふねのき)と渟足柵(ぬたりのき)の間に都岐沙羅柵(つきさらのき)が胎内市築地にあったと紹介されている。
その地から、塩、米が朝廷に献上されている。井戸水から塩が取れ、中条方面から大きな潟が広がり、古地図の数々にも、古来より塩津潟と記載されて、紫雲寺潟の記載は何処にもない。
なぜ紫雲寺潟とよばれたか、そんなエピソードも聞いて、
言い続ければ、それも何時しか文化となり、人々の心の中に歴然と残ってゆく。
石垣の桜の木も、地名も、幾年の時を超えれば、人々の思いから、消し去る事は難しくなる。
エェ~知らなかった!「歴史は中世ばかりじゃないよ、古代も有るのだよ」と、お客さんは言って行きました。詳しくはこちら。
『塩津潟の由来』