ダックのパパママストア

商店街に有る、パパママストア。
  何を売る店? 今日は、何をお探しですか....? 商店街で起こる色々なこと。

年の暮れ

2007-12-31 18:28:14 | 社会

2007年も終わろうとしています。
暇に任せ、よくも解らずにブログなるものを書き始めて、一年近くの歳月が経ちました。
拙いブログにもかかわらず、訪問頂き、コメントまで頂く事も有り、何かブログの形を整えて頂きまして感謝申し上げます。

商店街の現状をテーマに、何とか成らぬものかと、書き始めたものの、商店街の憂いとか悲哀ばかりで、近しい方からは別途メールを頂き、商売の不景気を愚痴ってばかりでは、決して結果が良くなる訳が無い、かえってヤル気を損なうぞ「朝の来ない夜は無い」「春の来ない冬は無い」と叱咤激励を受けております。
有難い事です。

今月に入り私と同期の三人の方の悲報が伝わってきました。
お一人は、高校時代の同期生で、私が町の道場で空手を習っていて、精神を鍛えるのには空手が一番と思い、ほか一人と「空手同好会へ来たれ!」と学校にポスターを貼りだし、賛同頂いた内のお一人です。

学校の屋上に集まって良く練習をしました。応援団員もいて、空手の型を取入れ、新しい応援の形を作り上げました。
伝統は守るが、新しい物も表したい。
あの頃は、そんな機運が有りましたネ。

社会に出てからは、当店へ注文も頂き盛り立てて頂きました。
飲んでいても普段と変わらず淡々とした方でした。

式場に尋ねると、ご家族の御希望で内々で執り行うとの事でしたので、後日ご自宅へ伺いました。
快く奥様からお参りして下さいと言われ、便利に作った細い階段を下りれば、「お~やっぱり設計屋さんらしいですね」とつい声が出る。

中庭を挟んで仏間があり、部屋は蘭の花がいっぱい。
ご両親の肖像額が鴨居に飾られ、彼の写真は骨壷と祭壇の上、正面の位牌に向き、線香を上げお参り出来て良かったです。

来月○○町に収める事に成っていた仕事をうなされながら気にしていたらしい。「そんな事より養生してください」と言っていたそうだが、1年半近く入院をしてたとは全然知らず、秋に会ったのは一時退院してた時なのか、なにか元気が無いなと思ってはいたが、見舞いにもいけなかった。

後のお二人は、このブログでも紹介したが、中学時代の同級生で、この度の同級会を早く遣りたいと言っていた○○君だ、病魔に襲われ復帰はならなかった。
快活な人柄で我がクラスの学級委員長だった。
5年前の記念写真を見ると何時もの様に笑って写っている。
小○君が我々を代表して、お通夜と葬儀に参列されたそうだ。

もうお一人は、家は神道だからと言ってこの度の御祓いに、代表して玉串を奉てんしていた。
恩師の先生宅には此れをと、リトグラフを選んでくれたのも彼女で、芸大卒の息子さんがいて、作者名は忘れたが、メルヘン調の虹の絵だった。

楽しかった還暦クラス会から現実に引き戻されて、皆さま師走の慌しい毎日をお過ごしのことでしょう。とデジカメで撮った同級会の写真を、レイアウトしてまとめた物と、手紙を頂いていた。

お礼を言わなくてはと思い電話するのだが、話中で中々通じない。
数日おいて電話すると留守電で、お礼を述べたのだが、聞いて下さったか定かでない。
○○君の悲報を伝えようとしても伝わらず、ご姉妹が警察に連絡をして、一人暮らしの部屋を調べてもらい分かったのだそうだ。

ブログ楽しく読ませていただきましたと添え書きが有ったが、おばさん教師は我が家のPCで写真、旅行記作り三昧で、退職してからがとっても楽しみ!と言うわけでピンぼけもご愛嬌でお許しください。
2008年もよいお年でありますように!と届いた手紙は終えている。
まだお話をしたい人だった。

こうなってしまっては、皆さんにご冥福を祈るほかは無い。
千の風になって、あの大きな空を、吹きわたっているのだろう。

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クール便

2007-12-27 18:26:25 | 商店街
クリスマスの朝早く、東京に居る息子から、クール宅急便が届いた。
めずらしいと思いながら開けて見ると、和倉温泉○賀屋の袋が入っている。
○賀屋と云えば有名だが、冬の荒海でも見に行ったのか、
会社の忘年会か、まさか裏日本まで行って、忘年会するか?

○賀屋特製いしるドレッシング、能登地方の伝統的調味料で日本三大漁醤のひとつに数えられる「いしる」をかくし味に、生鮮素材をオリジナルレシピで丁寧に仕上げたさっぱり味の和風ドレッシングと有る。
野沢菜のり、かに入りちくわ、いかさし柚子こしょうが入っていた。

翌日、家内にメールが届き、「贅沢しすぎたんで、お土産送りました。みんなで食べて下さい。年末海外はチケット取れなくて行かないことになりました。年末、年始は恐らく帰りません。」

近年の文化で拠出した伸びを示したのは、通信と宅配の産業だろう。これ2つで大概事がたりる。

東京に居る娘も、東京土産の□□芋ようかんとか、○○プリンとかを来る度に持ってくるが、そんな娘から、父の日のプレゼントに「何がいい」と今年もメールが来た。

今までもネクタイとかネクタイピンをもらっていたが、そんなに気を使わなくてもいいよとは、言ってる物の、贈られてくると嬉しいものだ。
「酒のつまみでいいヨ」と答え、東京の佃煮でも来るかと思いきや、福井の海産珍味が送られて来た。
東京に居て「福井の珍味」とは、まさに物流のグローバル化だ。
何処に居ても、ネットを使えば全国の名産品は手に入る。
通信と宅配の融合が商いを変えてしまった。

めったに出ない商材を、小売屋が問屋に1個頼むのも、消費者が直接頼むのも、コスト的には余り大差は無い。
小売屋にマージンを付けていた費用で、メーカーが直接サイトの運営も十分出来る。その結果問屋は統廃業で様変わりした。
小売屋の店頭で、有るか無いか探すより、ネットで頼む方が煩わしく無い。

問屋が廃業する時代である。小売屋も、うかうかしてはいられない。
商店街でネットに挑戦する店が現れてきた。
近くの酒屋さんでは、地酒の販売が好調だ、地元を離れた人とか、愛好家からの問合せと、販売量が少なく地元でしか買えない物はシステムに合っている。「これが無かったら干やがるヨ」とご主人の弁ですナ。

もう一軒は古本屋さんだ、数年前に出店されたのだが、「ここはどう(景気)なのでしょうか」と質問を受けた事が有った。
人通りを見ての事なのだろう。ネット販売が無ければ畳んでいると言う。

業種によって商いの方法が少しづつ変わって行く。
通信と宅配の世界のウエートが上がっているのは、間違いない。

娘から「サンタが来るんだろうかネー」と家内に電話が合ったそうだ。
「行かないよー」と答えると「そうだよね、まだ分からないものネ」
先制パンチと云うかジャブが飛んできた。
孫へのプレゼントの催促である。

父の日のお返しか、孫の顔を見なくともプレゼントだけは確実に届けられる時代になった。
何か自分の気持ちとは裏腹に、時代だけは進んで行きますナー。
いずれ確実に、プレゼントだけは、そりに乗せられ飛んでゆく。


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かどのタバコ屋

2007-12-15 16:54:53 | 商店街
私の店の斜向かいの四つ角の交差点に、間口の広いタバコ屋さんが有る。
今は“ジャンボ宝くじ発売中”の横断幕が間口いっぱいに張られています。

タバコと言えば、昔の人はキセルで1~2服して、タバコを詰め変えて吸っていたが、私も小さい頃に、キセルをくわえ、大人の真似をして、余りにもヤニ臭い味に、顔をしかめた事が有った。

子供の頃、父に頼まれて、よくお使いをして、タバコを買いに行っていた。
両切りの‘しんせい'とか‘いこい'と云う銘柄だった。
タバコ屋の小さな窓口に向かい、
「ごめんください。しんせいください。」「はーい」
なんて事はないが、お使いするのが楽しかった。

何時しか気付くと、父もフィルター付のタバコに変わり、仕事場から出て来る父を見て、「フィルターが焦げてるヨ!」と何時も見つけると言っていた。
吸うと言うよりも、口寂しいのか、何時もくわえた間々だった。

ハイライトとか、はっかの少し入った物を吸っていた気がするが、はっかパイプもくわえていたが、父も母も何時しかピタリとタバコを辞めていた。

私も健康の為と家族に攻められ、止めようと思っていたが、風邪で2日ほど寝込んだ事を契機に、禁煙ガムなど、ジャンジャン噛んで止めた。

家中がタバコをカートンで買っていたのだが、全員ピタリと買わないのだから、タバコ屋の前を通るのが決まりが悪い。

3年位して、新型の機械を入れたのだが、これが気苦労が多く大変で、つい一服、飲み会で一服と、元に戻ってしまった。
何時でも止められると高を括っていたが、これが2度目は中々止められない。
しかし、転機が訪れる。

何の事は無い、売上げ不振で有る。小遣い減れば、止めていた。
何が健康のためだ、そんな事言っている内は止められない。

今まで気付かなかった、ニコチンの臭いも気付く様になるし、飲みに行っても、料理も美味しく食べられる。
今までは、ニコチンと一緒に食べてたよナ。

タバコの思いでは色々有るのだが、そんなタバコ屋の前に看板が立てられた。

 謹んでお知らせ申し上げます
明治以来三代に亘る長い間皆様方のご愛顧に支えられながら、茲まで商を続けさせて頂きましたことは、有難く深く感謝申し上げます。
 さて作今商売は特に厳しいものがあり、且つまた高令にも達したことなどから今後のことについて熟慮を重ねた結果、もうこれが限界かと考えられ止むなく廃業を決意いたしました。従えまして十二月末日を以って閉店させて頂きたく謹んでお知らせ申し上げます。省みますれば、今日まで延引と続けさせて頂きましたことは、ひとえに皆様方のご厚情の賜ものと有難く重ねて厚くお礼を申し上げます。
                 
                               敬具
平成十九年十一月吉日        渡○たばこセンター店主

昔は専売で、ここのタバコ屋は町一番の売上げだった。
煙で四階建てのビルが建つのかと感心したものだ。

記念に宝くじを、ここで買うのも最後かと思い、ご主人に聞くと
「○○さん私も、もう80になりますから」
ビルの階段の上り下りも大変だ。
商店街で造った「アーケード残金150万の手続きをしましたし」
アーケードの負担金も角地だから大きいよナー。

後を遣りたいと云う方は?「だめですネ私なんか古い人間なんで、タバコ屋なんて、出せばすぐ売れると思っていて」
「いい時遣ったんですね」
「今は財務省なんですよ、許可下りるのに2ヶ月かかるようです」
継続してタバコ屋を別の人が遣る事が、簡単には出来ないのだそうだ。

商店街から、見慣れた風景が又一つ消えていきます。

ここも元旦の他は、年中無休だった。
こちらこそお世話になりました。長い間、ご苦労様でした。



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露の玉垣

2007-12-05 17:01:33 | 文化・教育

出版された頃に、殿様のご子孫が「家臣が偉かったんですね」と、郷土のその道の会合で、話されたそうだ。
今年の夏の初めである。

乙川優三郎著「露の玉垣」の紹介を受けたのは、郷土愛に燃えた知人からで、「エッそんな本があるの」

外様大名で唯一、国替えを免れつづけた越後の新発田藩。
決して英明な藩主や利け者の重臣がいたわけでもない。
大火や洪水、旱魃に何度も見舞われ、藩の財政は常に逼迫。
創業から窮乏にあえぐ江戸中期にこの小藩を支えたのは「露の玉」のような名もなき家臣だった。すべて実在した人物を通して、真の強さと知恵に迫る連作短編集と、本の紹介がされている。

名もない一地域の小藩の歴史が、また違った側面から、公になるとは、思ってもいなかったが、「こんな本が発売になったよ」と私も興味の有りそうな知人に話すと、早速買ったから、読んだら貸すよと言われ、ずーと前から借りていたが、一編を読んで、作者の言い回しに少々疲れて、そのままに成っていたが、何時までも借りたままにも行かず、また読み始め、作者の文脈のリズムを理解出来ると、一気に読み通してしまった。

荒地と水が有り開拓するものの、潟や湿地が多いために度々水害に見舞われ、藩士も農民も常に貧困に耐え続けてきた。
堤も切れれば、修復の工事もしなければ成らないし、支払う米も無い。借用願の行脚がつづく。

不作に備え、わずかな米も翌年の備蓄にまわし、耐えに耐え続け、長い人生を生き抜いて行く。
継いだ家と家族を守り、正直に藩を支え続け、嫁ぐ家柄で姉妹の明暗が有りとも、その渦中で凌いで行くのである。

節制に節約を、気構え一つで乗り越えて来た、先人達の辛苦のうえに、今の生活が有ると思うと、何か大きなものを忘れてきた様な気がする。

何時しか飽食の時代と言われ、物があふれ、我慢を忘れ、礼節を忘れ、一番大きな気概を忘れ、親は子に何を伝えるか。
否や教わるものではなく、子も親の背を見、肌で感じて生きていた。

少子化の今、登校拒否の児童が、増えつづけていると云う。
児童を誰がさとすのか。子は何を継ぐのだろうか。

現代の病は、厳しさの折に、支え続けていた、気概と云う突支棒を、何処かに置き忘れ、足元も定まらず、満ち足りた物を支え続ける絆は何処へ行ったのか。

皮肉にも、何処も同じ貧乏と規律が人々を鍛え、日々の厳しい生活が鍛錬の場だった。
それが前向きに生きぬく術と、力を試していた。

豊かさと嫉妬の狭間の葛藤は、歯を食い縛る拠り所が無く、生きる力も奪い去り、残された道はひたすら殻に閉じこもるだけ。
ひょっとしたら現代は、幻の豊かさの故に、自ら学び、自ら考え、主体的に判断が求められても、幻に終わるのかも知れない。

今、先人達が流して来た、自らを律する心、気概と云ううものを、今一度求められているのだろう。
そんな事を思う一冊で御座いました。

コメント (1)
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