水に浮かび物思う

カリフォルニアの海でカヤックに出会う。キャンプやハイキングの話も。

サンフランシスコ再訪 最終日

2009年07月23日 | 旅行

この日は昼前になって外へ出た。Eと一緒にサンフランシスコのフェリービルディングへ歩いて向かった。







ここはイーストベイに向かう橋の近くにある商業施設だ。ちょっとこじゃれたレストランやお土産やさんなんかが入っている。サンフランシスコといえば、フィッシャーマンズ・ウォーフなんかが有名な観光地なんだけど、ぼくとしてはこちらのフェリービルディングに立ち寄ることをお勧めしたい。さらにゆうと、ここにあるAcme Breadというパンやさん, Scharffen Bergerというチョコレートやさんがオススメ!

フェリービルディングのオイスターバーで食事。久しぶりに食べる生牡蠣に感動した。サンフランシスコから北へ50マイルほどの距離にあるTomales Bayという場所で獲れた牡蠣が一番うまかった。ここへは昔行ったことがある。牡蠣の殻が大人の背丈ほどの高さに積もっていたのでびっくりしたことがある。牡蠣プレートを二皿、サンフランシスコ風のクラムチャウダーとグラス11ドルのワインを頂く。

それからぼくたちは一旦コンドミニアムに戻り、車をピックアップした。そうそう、今回のお供はコレ。



クライスラーのPTクルーザー。少し恥じらいを覚えてしまうくらい赤い。これは人によってなかなか好みの分かれる車種みたいで、好きな人は好きだし嫌いな人は嫌い(常に正しい)なようである。ぼくはどちらかというとこの車に好意的で・・・って実はこれ、2007年の2月にオースティン旅行に行ったときに乗った車とおんなじ車種である。しかも色もおんなじだ(空港で借りたときびっくりした)。クライスラーPTクルーザー。ぼくは嫌いではない。普通に教室の椅子に座って車を運転しているような感じがいい。疲れない。クルーザーである。運転していてつくづく思ったのだが、今にもつぶれそうな会社が作る車とは到底思えない。いい車だとぼくは思う。それだけに残念である(クライスラーはつい先日連邦破産法"Chapter 11"を申請した)

きっと安くできなかったのが問題なのだろう。値段が見合っていれば、大方のものは売れるのだ。話はそれるけど、日本の食料自給率の低さを受けて減反見直しをはじめとする自給率アップの声が盛んだが、食料だって商品となる以上売れる売れないのリスクはあるのであって、「少ないから増やす」という論調は極めて危険な匂いがする。するような気がする。





ぼくは赤い車をびゅーんと運転して、Half Moon Bayというビーチにやってきた。雨がしとしと降っている。クリーンな波が砂浜を洗っていた。ぼくは誰もいないビーチを少しの間眺め、写真を2,3枚撮った。そしてこの少しひなびたビーチタウンを歩いて散策し、Eが毛糸屋さんで毛糸をいくつか買った。その後は誰もいないカフェで紅茶を飲みながら持参した本を読んだ。外は雨がしとしとと降り続いた。

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長いようで短い滞在も終わりの時を向かえた。日本へ帰るときがやってきた。翌朝ぼくらはコンドミニアムを掃除し、荷物をトランクに詰め、ドアマンに最後のチップを渡し、空港へ向かったのだった。

昔住んでいた場所を訪れるのはいいものだ。それは今より若かった自分に会いに行くようなものである。日々の情報は降り止まない雪のように記憶の上層に積もってゆく。古い記憶は新しい雪に埋まり、冷たく固まって、持ち主にさえ分からない場所でひっそりと存在し続ける。       それがどうだろう。ひとたび昔住んでいた家に行くだけで、昔よくいったレストランに行くだけで、暗黒の世界に押しやられたはずの昔の思いや感情が、こともなげに眼前に現われる。そしてその時の喜びや憤りをこの胸で感じるのである。これが「再訪」というものの意味なのだろうか。記憶とは、「場所」に付随した何かなのだろうか。記憶の中の世界、自分の中だけにしかない記憶の世界への訪問       そうした場所をテクテク歩いて見つけること、そしていつの日かその場所をフト再訪することが、腰の重い流れ者にとっての「旅」なのである。


サンフランシスコ再訪 五日目

2009年07月14日 | 旅行

ニュース
この日も朝起きると、Eと一緒にコーヒーとニュースを求めにコーヒーショップへと向かった。その日のニュースには不吉な情報があった。LAから日本にやってきたフライトに新型インフルエンザの感染の疑いのある人が乗っていて、近隣の席に座っていた30人が足止めされ、詳しい検疫が行われたということだ。これはいよいよ不穏である。ぼくも日本に戻れば菌あつかいされかねない。

その日のサンフランシスコのローカル紙には、使い捨てレジ袋禁止の立法化の記事があった。リサイクルか、マイバッグに限るという。カリフォルニアに住んでいると、こういったことにうかうかしてられない。何でもすぐに可決される。熱意を持って運動した人の意見が通るのだ。「それはイヤや」と思うなら、こちらも運動せざるを得ない。「自治」というスタイルがこの地では生きている。

話はそれるが、有名なハイカーの加藤芳則氏は、その土地その土地が持つ空気のようなものを敏感に感じ取っている方だと思う。彼の文章をそれほどたくさん読んだわけじゃないけれど、彼のアパラチアントレイルの記録やヨセミテの記録などを読むと共感できる部分が多い。ぼくはベイエリアに一年半住むことで、ここにいる人たちの「あたりまえ」を一つずつ見てきた。あるときは街から、あるときはキャンプサイトから。加藤氏はそれをロングトレイルから見てきたのだろうが、見る角度は若干違えど、人物像ならぬ「土地の像」といったものが極めて簡潔に表現されている様子に、ぼくは思わず膝をたたきたくなるときがある。そして少しうらやましくなる。徒歩の旅は決して登山のように高く登る必要はないし、また決して遠くへ行く必要もない(加藤氏はたくさん歩くが)。ハイキングという「低い」視線がもたらしてくれるものも、また貴重だと思うのである。

昼はサウスベイのSunny Valeに出向く。Eの古い友人の家に呼ばれた。



子どもたちと駆け回る
友人のKとSに会う。Kは二児の母で、昼間はサンフランシスコで働いている。もともと彼女は東海岸一の美人のバリバリのキャリアウーマンだったのだが、カリフォルニアに来て母親になってからは、そのバイタリティの矛先がランニングに移った。週末となればトレイルランニングで汗を流し、この間は100kmマラソンを完走したという。目がくりくりと大きく、アクティブで、料理をいつも少し作り過ぎ、ぼくがピアノやギターを弾くと無条件に喜んでくれる。オゾン層を通さない太陽のような人である。

SはKのダンナで、メリーランド州生まれの弁護士である。プライベートの法律事務所からシティの弁護士に職を変えた。シティに関する訴えの全てを彼は扱う。ペイは昔の職のほうがいい。けれど彼はあえて今の職を選んだという。人と人との争いごとよりも、市民の意見と政策との均衡を図る今の仕事のほうがやりがいがあるというのだ。

接すれば分かるのだが、彼は"man"である。人を温かくもてなし、クリスマスになればグリューワインをナベで大量に作って飲ませてくれる(グリューワイン=シナモンや砂糖と一緒に温めたワイン)。初めて彼のグリューワインを飲んだのは、彼の家のクリスマスパーティーで、たくさん人が家に集まっていた。彼はぼくにこの温かいワインをでかいオタマで注いでくれて、それを台所で二人で飲んだ。アルコールの揮発とシナモンの甘い香りがフワッとぼくを包んで、ぼくは温かく幸せな気分になった。「こうやって作るんだ」と説明してくれる彼を見ながら、コイツはゼッタイいいヤツだ、と思ったものだ。その日、ぼくがピアノで童謡を何曲か弾いたら、子どもたちがみんな集まって後ろで踊っていた。きっと部屋中の空気がアルコールで満ちていたのだろう。



ぼくは庭で子どもと遊んだ。バスケットボールで遊び、ハンモックでジェットコースターをやり、庭の木に作られた鳥の巣を「高い高い」して見せてあげた。Eも、久しぶりに会うKと夢中になってしゃべっている。住む場所が違っても何か通じるものがきっとあるのだろう。

ぼくは子どもと遊び、ギターを弾き、二児の親と会話し、ワインを飲んだ。ぼくらはソノマで買いすぎた「厳選」ワインを手土産に持ってきたつもりだったのだが、結局彼らが「持ってけ!」というワインを貰うことになった。これで滞在中に消費しなくちゃならないワインが増えた。

ぼくとEは友人夫婦と、かわいらしい子どもたちに別れを告げた。Eの運転でイーストベイへ向かった。



なつかしの友人、なつかしの犬
サンフランシスコベイから潮風が漂ってきそうなマンションに住む日本人夫婦のお宅にお邪魔した。この夫婦も、ぼくらがバークレーにいた時はよく遊んでもらった。Dくんは環境アセスメントの調査員の仕事をしている。アスベストやカビなど、衛生に関する知識を身につけ依頼のあった場所に訪れ調査をする。近頃は調査依頼もめっきり減り、日がな一日家にいることも少なくないという。アメリカで取りたい資格があり、暇な時間はその勉強にあてているという。その資格を持って日本に戻ると強いのだそうである。そりゃ、邪魔して悪かったね、というと、いーのいーの、たまにはこうゆうこともないと!とゆって一緒に飲んだ。

この夫婦は一匹の犬を飼っている。まだ子犬だったこの犬を、ぼくとEは一ヶ月ほど預かったことがある。真っ黒な柔らかい毛を持っていて、いつもぼくの膝に乗り、夜は布団の中で一緒に寝た。コイツはふとんに頭から突っ込むので、しばらく動かないでいると、(まさか死んじゃったのかな)と不安になり、夜中に何度か鼻の前に手を当てて呼吸を確かめたものである。Eがゆうに、ぼくはデレデレだったそうである。そんなことない、と思っていたのだけれど、今回コイツがぼくの膝にチョンと乗ってくれたときは少し心がトキめいた(走って持ってかえろうかと思った)

サンフランシスコのコンドミニアムに戻ったぼくは、この日の出来事を手帳に書いた。大切な思い出を忘れないように、ぼくは旅日記をつける。往々にして、忘れたくないものほど、酔ったときに起こるから困ったものである。


サンフランシスコ再訪 四日目

2009年07月12日 | 旅行

朝テレビをつけると、レイク・タホのスキー場でスキーヤーが木にぶつかって死亡するというニュースがやっていた。今は5月である。同じカリフォルニアでもまだスキーをしているところがあるのだ。カリフォルニアは広いところなのだなあと思った。ニュースはやはり景気の話などが多いようだ。車の売り上げは下がる一方だが、カーシェアリングは拡大しているという。「アメリカ=個人主義」という図式は少しずつ変化しているのかもしれない。共有という概念はきっとこれからますます重要になってくるのだろう。

昔の友人に会いに
この日はサンノゼへ出向き、昔の友達(日本人)とみんなで飲茶のテーブルを囲んだ。この一年で帰国した友達や結婚した友達の話や、遠距離恋愛の話などで盛り上がった。ぼくらはみんな年も近いし、いろいろ経験しているから話は尽きることがない。ほんと、遠くに離れていてもメール一つで駆けつけてくれる友達がいて、ぼくもEも幸せものである。

西海岸はアメリカの中でも日本人の多い土地だ。日本食屋さんや日本食材店なんてどの町にでもある。ネットがあれば日本の本だって配達してもらえる。住むのに困ることなんてほとんどない。ほとんどないけど、まあ、たまには、あるかもしれない。けどそんなときはきっと誰か親切な日本人の人が助けてくれる。えてして向こうに住む日本人の人たちは親切で、良識があり、おまけに話すとオモシロイ連中が多い。すぐに打ち解けていい友達になる。自分がアメリカを出て行く時には涙を流してくれるかもしれない。そしてまた帰ってきた時には、必ず温かく迎えてくれるのだ。

心温かき友人たちとお別れをしたあと、買い物がしたいとゆうEをサンフランシスコのデパートに送り届け、ぼくは車でイーストベイに向かった。昔お世話になったカヤックショップへ。





CCK
オークランドの入り江にあるCalifornia Canoe and Kayak。ぼくが生まれて初めてカヤックを漕いだ場所だ。初めてここでカヤックを漕いだとき、(ああ、これは一生ぼくの趣味になる)と思った。それから一年と少し、このショップはぼくにシーカヤックのなんたるかを教えてくれた。ぼくはここでクラスをたくさん取って、お金もいっぱい使ったけれど、今ふりかえると非常に良心的なアウトフィッターに出会えて幸運だったなと思う。カヤッキングの王道的なスタイルを持っているアウトフィッターだと思う。さりとてカヤッキングの王道とは何ぞ?と訊かれても、ぼくはそんなに経験があるわけではないのでうまく答えられないんだけれども、少なくとも極端に技巧的すぎず、またレジャーによりすぎてもいない、レスポンシブルなカヤッカーの育成が目標であったように思う。こんなアウトフィッターがぼくが生まれるよりも前から存在しているのだから、たいしたものである。

ショップに入った。残念ながら昔よく一緒に漕いだガイドの連中は見当たらなかったのだけれど、レジに立っていたガイド見習いの一人がぼくのことを覚えていてくれた。ぼくと彼はちょっとしたよもやま話をした。昔よく一緒に漕いだガイドのことを尋ねると、「マークはカレッジを卒業して今はバスケットチームのコーチをしているよ」と教えてくれた。彼がバスケットボールのコーチ!?ぼくは耳を疑った。マークは大男で、年齢不詳。腕なんてまるで丸太のようで、胴体はまるで丸太小屋のようである。もしも一緒にシーソーに乗ったりしたらきっとぼくはぴゅーんと飛ばされてゴールデンゲートブリッジの橋げたに引っかかってしまうに違いない。そんな彼がバスケットボールのコーチとは!けど、どうやらそれは本当のことらしかった。

心残りなのは、彼のチームがどこのチームかが分からなかったことである。けどまあ、分からないほうが良かったかもしれない。ぼくの中のマークはカリフォルニアの抜けるような青い空の下でレスポンシブルにフネを漕いでいるのである。決して屋内のコートでピッピと笛を吹いてはいないのである。それにしてもしかし、驚いたなあ。



ぼくはショップでコカタットのバハハットやドライバッグなど、こまごまとしたものを買い、サンフランシスコへ戻った。Eはまだ部屋には戻ってきていない。きっと一人でする買い物が楽しいのだろう。

Hard boiled
コンドミニアムのお気に入りの場所でぼくは小説を開いた。大沢在昌のハードボイルドである。ケンタッキーあたりの無骨なバーボンを瓶のままゴクリとやりたい衝動に駆られたけれど(ぼくは話に酔いやすい)、それをやるにはカリフォルニアの空気は健康的すぎた(ただウィスキーがなかっただけです)。しょうがないので(しょうがないというほどのことでもない)、ぼくは冷蔵庫からカリフォルニアの健康的でエクセレントなビール、シエラネバダを取り出してグビリとやってやった。

しばらくビールと小説に熱中し、一人の時間を楽しんだ。日が暮れる間際になってぼくは外へ出て、Eと街で落ち合った。サンフランシスコのイタリア街をぶらつく。ぼくらと同じように街をぶらぶらしている若いカップルやグループが大勢いた。







イタリアンレストランに入り、オードブルと薄いピザとビールを頼んだ。サンフランシスコの夜にはウィスキーが登場することも、銃声が鳴り響くこともなく陽気に更けていったのだった。


サンフランシス再訪 三日目 後半

2009年07月08日 | 旅行

Sea Kayaker
すでにこの二日間で、この借り物のコンドミニアムの中でぼくは自分の居場所を見つけた。中が収納になっている、窓際の備え付けのカウチ。分厚いクッションを背中にあてると、霧にやさしく包まれたサンフランシスコ・ベイの景色がちょうど眼下に見えてリラックスできるのである。

ぼくは窓のさんの部分にワイングラスを置き、REIで久々にかった雑誌「Sea Kayaker」のページをめくった。そこにはFreya Hoffmeisterという女性の話が書かれた記事が載っていた。ワインと本。懐かしい景色。ぼくにとってまさに至福の時間が始まろうとしていた。しかしそれは、とてもリラックスして読めるシロモノではなかったのだ。

フレヤはオーストラリア一周の遠征の最中だ。既に70日が経過していて、トータルで3300kmほど漕いでいるという。驚くべきは漕ぎ日の一日の平均移動距離が54kmもあるという。これはかのポール・カフィンが漕いだときに匹敵するペースだという。以下、インタビュアーとの会話をかいつまんで抜粋。

*** 以下、引用。

フレヤ:昨日は80km漕いで、最高のパドリングでした。本当はもっと行けたけど、ペースを守らなくちゃね。

インタビュアー:今回はラダーをつけていますね。

フレヤ:そうです。とてもよいです。昨日は少しサーフィンができたわ。

インタビュアー:ニュージーランドとアイスランドの時はラダーはなかった?

フレヤ:そう。波の中ではジグザグに漕いでたわね。

インタビュアー:ラダーがないというのはやっぱり問題ですか?

フレヤ:それはあなたが何を「問題」といっているのかによるわ。ただAからBに速く行きたいのであれば、ラダーは必要でしょう。ポールはそれをしたかった。彼は空荷のカヤックを漕いでいた。もし私のカヤックが空荷だったら、昨日は優に100kmは行けたでしょうね。

インタビュアー:それほど速く移動するとなると、どの程度オーストリアの観光ができますか?

フレヤ:確かにあまり見てないですね。だって一日10時間から12時間くらい漕いでいるから。キャンプの準備もあるしコンピュータも開く。誰も一回のトリップで全てのことはできないでしょ?

インタビュアー:ポールと違って、女性が一人で海岸を旅するとなると、また人々の反応も違ってくるでしょうね?

フレヤ:漕いだ後は風の通りがいいシルクのドレスを着るんです。これだと見栄えがいいから("It looks nice and sexy")、私に話しかけるのは、ヒゲのポールに話かけるのとは、おそらく違うでしょうね。

インタビュアー:傷つきやすさがあるというか・・・?

フレヤ:傷つきやすさ!?なにそれッ(怒)!?"Anybody who would like to approach me in a bad way is going to have a tough time."私を怖がらせるのは昨日現われた巨大でグロテスクな蜘蛛だけよ。

インタビュアー:電気クラゲなんかは大丈夫?

フレヤ:今のところいないですね。いつもトップは何もつけずに漕いでるから、助かるわ。いつも腰にシルクを巻いているだけ。寝るときもシルク。肌にいいんです。漁船が来たときのために手元にシルクを置くようにしています。

*** 引用おわり。

と、こんな具合である。ドキドキ。いいい、一体この女性は何者なのだ!?Maud Fontenoyといい、どうしてぼくが本を開くとこう、女性離れした、いや、人間離れした女性ばかりが登場するのだろう。シーカヤッカー界のレジェンド、ポール・カフィンと比肩するばかりでなく、ブログで情報を発信し、キャンプ道具を持ち運び、しかも夜はシルクのドレスでLooking niceなのである。シーカヤッカー界のポールとジョンもびっくりである(意味ないです)。いまだかつてSea Kayaker誌に"sexy"なんていう単語が登場したことがあったであろうか?ないッ!おそらくこの25年間はあるまい。なぜ25年間かって?それは、この雑誌が創刊25周年記念号だからである。



今フレヤはゴールドコーストのあたりにいるという。ぼくはぜひとも彼女を遠くから見守りたいと思うのである。


サンフランシスコ再訪 三日目 前半

2009年07月07日 | 旅行

ぼくはEよりもだいぶ早起きしてしまったようだ。寝巻きのまま、窓際の長いすに横になる。サンフランシスコも少しずつ目を覚まし始めたようだ。






そのうちにEが起き出し、ほどなくしてインターネットカフェに向かった。友人にメールをする。ニュースを見ると、インフルエンザの警戒レベルが5に上がったようだ。この休みが終わって帰国したときに何も問題がないといいが。

フト横を見ると犬と目があった(Good morning)。彼(あるいは彼女)の主人は脇に新聞をさし、オーダーしたコーヒーを待っている。衛生がカンペキに約束されている社会よりも、犬と一緒にコーヒーショップでコーヒーが飲める社会のほうが、ぼくは好きだ。もっともフナムシと一緒に寝るようなぼくが衛生のことを語るのはなにやらヘンといえばヘンなのだが。

朝食の後、サンフランシスコのパタゴニアのショップに行き、防水透湿素材("H2No"というらしい。おもしろい)のシェルを買った。150ドルくらいであった。かすかな雨の下、ぼくとEは買ったばかりのオレンジ色のシェルをかわりばんこに着て、街を散歩した。







哲学的な町
昼はバークレーへ。昔よく行ったベトナムのヌードルスープを食べる。米の麺がビーフで取ったスープに入って出てくる。薬味やホットソースをお好みで入れて、ライムをギュッっと絞って一口スープをすすればそこはもうベトナムの屋台である。これがうまいんだ、本当に。



その後は、何をするとはなしに、昔Eと住んでいた家のあたりをウロウロしたり、お土産になりそうなものを物色したりした。街を散策しているうちに気がついたことがあった。Barnes & Noblesという書店が閉店していたのである。Barnes & Noblesはいわゆる全米チェーンの大型書店である。中にはスターバックスなんかが入っていたり、椅子やカウチなんかが入っていたりして、とてもリラックスして本を選ぶことができるので、ぼくもEも好きでよく行ったものだった。それがなくなっているのである。

「きっとバークレーの人たちが反対して撤退させちゃったんだよ」とEがゆう。ぼくらがバークレーにいたころ、そんな話があったなあと思い出した。バークレーは大学町で、もともと地元の本屋さんがたくさんある町だ。いわゆる古本屋のたぐいも多くあり、その手のマニアはわざわざ遠くからバークレーまで本を物色に来る、なんてことを聞いたことがある。そこへ大手のBarnes & Noblesがやってきた。当然地元の小さな本屋さんは打撃を受ける。そこで地元の本屋さんを守るための運動が学生の間で展開されていたのだ。

「本当になくなっちゃったんだね」と、E。ぼくらはある種の感慨にふけった。情報が定かでないので本当の経緯は分からないけれど、ここバークレーなら十分あり得る話であって、この町の持つ見えない力というのを改めて感じたのだった。自治というのは本来こうゆう姿なのかな、と思う。住民たちで意見を合わせて行って交渉する。ルールを定める。住みやすい町にする。それがここでは行われている。

夕食はメキシカンレストランへ行った。食堂のような飾らない店で、ぼくもEも大好きな店である。ココアの入った少し珍しいエンチラーダを食べる。メキシコ料理にしては深い味であった。そう、ここバークレーではメキシコ料理まで哲学的になるのである。






サンフランシスコ再訪 二日目

2009年07月06日 | 旅行

サンフランシスコ二日目。朝、洗面を終え、ぼくとEは坂の下にあるコーヒーショップへ行った。Peet's Coffee。ぼくとEにとって思い入れのあるコーヒーショップである。それからベーカリーでバゲットを買い、家に帰って朝食にした。豆をつぶした中東料理のハマス(好物)とブリーチーズをバゲットにぬって食べ、食後に昨日のファーマーズ・マーケットで買い求めた大ぶりのいちごをデザートとした。

ワインに会いに
車に乗り込んだ。目指すのはソノマ・カウンティ。ぼくにとっては今回の旅の副題ともいえる、ワイナリーの巡礼である。オーイェイ!



90分ほど車で移動し、ヒールズバーグについた。ここにくるといつもそうするようにまずはOakville Grocerryで軽く食事。ここはワインや、ジャム、瓶詰めのお惣菜などが所狭しとならんでいて、みているだけで楽しい。

ここからは狭い道に入り、Dry Creekへ北上する。するとワイナリーがぽつぽつと見えてきた!







Eには悪いが、試飲をするのはぼくの役目。白、白、赤、赤、赤、といった具合に、一つのワイナリーで5種類くらいの味見をさせてもらう。気に入ったものがあればそれを買うし、特に買うつもりが無ければテイスティング代を支払う。テイスティング代は大体5~8ドルといったところ。まれにタダというところもあるし、逆に15ドルくらいのところもある。ボトルを買えばテイスティング代はリファンドしてもらえる。ワインに関してよく言われることだけれど、値段と味は比例しない。ただ、値段と手間ひまはひょっとしたら比例するかもしれない。しかし手間ひまをかけたからといって醗酵過程を全てコントロールできるわけではない。そのあたりがお酒の難しいところであり、面白いところでもあるんだろう。







ぼくとEはワイン畑ののどかな景色と、テイスティングを楽しみ(もっとも楽しんだのはぼくだけだったけれど)、帰路についた。

カリフォルニアのよさは、土地の恵みが身近に感じられることだとぼくは思う。バークレーに住んでいたころはEと毎週のように近所のファーマーズ・マーケットに出向いたものである。そこでは地元の農家の人たち、ジャムやパンを売る人たちなんかがテントをたてて、新鮮な市が開かれているのである。少し大きいマーケットにいけば、フルーツをふんだんに使ったスムージーや、サンドイッチの屋台や、アートや、音楽なんかも加わって、それはそれはにぎやかで楽しいところになる。ぼくらはそういう国籍不明の、なんかちょっとワイルドでイージーな雰囲気が大好きだった。カリフォルニアにはワインがある。有機野菜や果物はふんだんにある。牡蠣や蟹だって獲れる。ここに住んでいる人はみんな、地元近辺のちょっとしたいいものを食卓に乗せたいと思っているのだ。

本日の夕食は前もって決めてある。

ステーキ
じゃーん!ステーキなのだ。Houston'sという、全米に展開しているちょっと高級めのステーキハウスである。ここのステーキがサイコーにウマイのだ!



カリフォルニアに住んでいたころは、この土地の空気にやられてぼくもEも少々ベジタブルに傾倒していた時期があった。お肉が食べたいと思うことも少なからずあったけれど、巨大ステーキのような食事をすることもなく、気がつけば帰国の時を迎えたのだった。実はそれが今となっては心残りで、ぜひHouston'sかRuth Crisに行きたい!と願っていたのだった。

この店でぼくらは、じっくりとローストされた分厚いリブアイと、日本人好みの味にマリネされたハワイアンステーキをオーダーした。ジンを頼んでちょっと酔い、今日訪れたワイナリーの話なんかをしつつ、分厚い肉にナイフを入れるのは至福の時間であった。


サンフランシスコ再訪 一日目、夜

2009年07月05日 | 旅行

REI
目が覚めたら、もうあたりは暗くなりはじめていた。ぼくとEは身支度を整えて車に乗り込みイーストベイへ向かった。

向かう先のバークレーはベイをはさんでサンフランシスコの向かい側にある。車だったら30分もあれば、もうお目当てのショップなりレストランなりについているだろう。もっとも、これは道が空いている時の話であって、ベイブリッジが込んでいるときは、ひどければ2倍以上の時間がかかる。



目的地のREIに着く。アメリカを代表するアウトドアショップだ。バークレーブランドであるノースフェイスやシエラデザインズをはじめ、世界の主要なメーカーのギアは大半はここでそろうだろう。日本のスノーピークやユニフレームなどの商品も目立つ。しかしモンベルはない(たぶん)。アライテントもない(たぶん)。世界のユーザーを相手にしていってもらいたいとひそかに思うのである。

一体なんどこの店に通ったことだろう。変わらないなあと思いながら店内をぶらつく。いやしかし、自転車とスポーツタイプのベビーカー(?)の売り場の面積がかなり増えたみたいだ。今世界中でロードサイクルのブームが到来しているように感じる。それと、このスポーツタイプのベビーカーだ。舗装のされたトレイルなんかでよく見るんだけど、アメリカの若いカップルはベビーカーを押しながらジョギングをするのである。鼻歌を歌いながら散歩するぼくの横を、倍くらいのスピードで疾走するベイビーをこれまで何度も見た。なんとゆうか、合理的な発想だと思う。ベイビーゴーズファースト。

一年半しか住んでいなかったけれど、バークレーのことを勝手にオレの地元と思っているぼくは、ノースフェイスのフリースを一着買い求めたのであった。フリース地だけれど風を通さない素材が中間に入っており、温かく、型くずれがない。着心地がよい。フリースイズグッドである。

話はそれるが、アウトドアのものはウエアにしてもバッグにしても全体的にツルツルスベスベしたものが多い。それで一日過ごすと疲れるのである。何を持つにしても摩擦というものがないから、「おさまり」が悪く筋力を直接的に使わなくてはならないので疲労が早い。極端な話腕を組んでも落ち着かない。もっとこう、摩擦を持つ素材を見直しても良いのではないだろうか。その点フリースはいい感じの摩擦があってグッドである。



Mexican foods!
夜ご飯は、ぼくのお気に入りのChipole(チポレー)



じつはこの店、マクドナルドの系列のメキシカンファーストフードなのだけれど、ヘルシーでおいしく近年つとに人気が高いのである。日本にも進出してほしい!


サンフランシスコ再訪 一日目、昼

2009年07月04日 | 旅行



腰の重い流れ者
時々ふっと街を出て行きたくなる。どこか違う場所へ行って、そこで少しの間身をおいてみたい。旅行者というには腰が重く、居住者というには責任がなさすぎる。そのくらいの流れ者でいてみたい。思えば二十代のころのぼくはそんな流れ者だったのかなあ、なんて思う。そんなことをつらつらと考えている折に、Eがゴールデンウィークにサンフランシスコに行こうかと話をもちかけてくれた。一年半住んだサンフランシスコベイエリアの景色を想い起こし、腰の重い流れ者であるぼくは「ああ、いいだろうねえ」と返事をしたのだった。

サンフランシスコは霧の中
ぼくとEは成田からサンフランシスコへ飛んだ。エコノミーシートでスラムドッグ・ミリオネアを観た。クイズミリオネアのあの独特な緊張感と、インドのスラムで生きる少年たちが味わう違う意味の緊張感が巧妙に交差していた。人は善人と悪人に分けられるのではない。信じることのできる人とそうでない人に分けられるのだというメッセージを感じた。

サンフランシスコ空港に到着したぼくとEはBlackBerryを借り、予約しておいたレンタカー会社で車をピックアップした。そしてその足でサンフランシスコ市内のとある病院へ向かった。その日その病院の前ではささやかなファーマーズ・マーケットが開かれており、ぼくの友人が弾き語りの演奏をする予定になっていたのだ。ぼくたちがその場所へ到着すると、彼女はちょうどマイクの前に立っていた。



突然たずねてきたぼくとEを見つけたMienaは、驚きの表情とともに演奏の手を止め、ぼくたちに歩み寄りハグをし、なつかしく言葉を交わした。ぼくとEはオーガニックのベリージュースを買い、それを飲みながらMienaの渋い歌声を聴いた。こんな声を出せる女性は他にはいない。病院からは車椅子に乗った人や高齢者の方が出入りしていて、そのうちの何人かは彼女の演奏に足を止めた。

彼女はこのようにサンフランシスコ周辺のバーやファーマーズ・マーケットなどに出向いては、自分の曲を演奏をし、チップを貯めてそれを寄付に回しているのだ。ぼくとEは彼女に気づかれないようにチップボックスにそっとお金を入れて、別れの挨拶をして病院を後にした。

滞在先は、フィッシャーマンズワーフを少し南下したロシアンヒルという所にある。そこで車を止めて荷物を降ろし、ベイのマリーナへ歩いて向かった。なんでもそこにあるGreen'sというベジタリアンレストランがおいしいという。ちょうどお昼時であった。



トウモロコシの粉の練りこまれた生地に野菜のペーストが乗ったピザが絶品!色とりどりのサラダも瑞々しくておいしい。調子に乗ってグラス11ドルもするワインを飲む。ンー、アミーゴ(意味ないです)



ンー、やっぱりカリフォルニアの食事はいい!とEと意気投合する。食事とワインに元気をもらい、意気揚々とサンフランシスコの坂を登り(疲!)滞在先のコンドミニアムにたどりついたぼくとEを待っていたのは、窓からのゴールデンゲートブリッジの眺めとフカフカのベッドだった。ブリッジは海から流れてくる霧を全身で受け止めているかのようで、橋というより太平洋への巨大な門のようにも見えた。

荷物を整理しおえたぼくとEは、結局ベッドの魅力に抗う(あらがう)ことは出来なかった。時差ぼけにはなりたくなーい!と心で抵抗してみたものの、ベッドに乗ったらコロリと眠りに落ちたのであった。