水に浮かび物思う

カリフォルニアの海でカヤックに出会う。キャンプやハイキングの話も。

CCKの思い出 その3

2008年03月25日 | カヤック

その後もぼくはCCKのクラスを取り続けた。早くカヤッキングを覚えたかったし、それに舟を持っていなかったぼくはCCKに参加するよりほかにカヤックを漕ぐ手立てがなかったのだ。ぼくはサーフゾーン、ロール、オープンコースト、そして "Tides, Currents & Rough Water"というクラスを取った。

サーフゾーンのクラスはスープゾーンやブレイクゾーンで舟を横にしたり前にしたり後ろにしたりして、ボートコントロールを学習した。クラスのおしまいにはサーフィンをやって波にもまれた。ぼくはこのクラスを二度取ったのだけど、このクラスにおけるインストラクターの熱意と緊張感はすさまじいものがあった。やはり参加者の安全に最大限の注意を払っていたのだろう。CCKのインストラクターの層は厚く、一体何人くらいいるのかちゃんと把握していないのだけれど、定期的にミーティングを開いてクラスの進め方や安全について研究しているという話だ。そしてサーフゾーンのクラスではインストラクター一人につき生徒二人という比率であった。プロの態度にこちらまで身が引き締まる思いがしたものだ。

続くオープンコーストでは、ぼくたちは沖に出て、さらにダイナミックなうねりに挑んだ。インストラクターはジョン・ラル。ツナミレンジャーとして有名な人物で、レジェンドクラスといっても過言ではないだろう。少なくともカリフォルニアのシーカヤッカーで彼の名前を知らないものはいない。彼のDVDを持っているのだけれど、はっきりいって彼のスタイルは衝撃的である。ぐちゃぐちゃの波にもまれながら岩場の間を漕いだり、レスキューしたり、舟の上を舟が通ったりと、命知らずなカヤッカー達の姿が映し出されている。唖然とする光景である。海というものはあの様に荒れ、またその中を漕ぐシーカヤッカーがいるのか!と、ぼくの体にある袋という袋が縮まる思いだった。

ジョン・ラルは、白い長髪を後ろで結び、黒の擦り切れた革ジャンをはおって我々の前に現われた。町であったら絶対に声をかけたくないタイプである。ぜったいハーレーとか乗ってそう。しかし余裕を見せつつも、彼のクラスに対する態度は真剣そのものであった。ぼくらはそのクラスで、波の頂点にあわせて岩の上を通ったり、ブレイクポイントで頭上から波をかぶったりした。とにかく何回パドルやカヤックを岩にぶつけたかわからない。とてもじゃないけど今そんなことをしたいとは思わないけれど、不思議とそのクラスを受けているときは恐怖感がなかった。また、ノースカリフォルニアの荒々しい海岸の、海から見る美しさを知ったのもこの日だったと思う。

ぼくが漕いでいる姿を見て、ジョンが「ブレントにフォワードストロークを習っただろう?」と訊いてきたのにはぼくはびっくりした。タダ者ではないと思った。さらにタダ者ではないと思ったのが、彼のカヤックだ。4m無いくらいのずんぐりしたかわいいカヤックを彼は漕いでいた。不思議な形だなあと思って話を振ってみると、カヤックの構造についていろいろ教えてくれた。短いけどキールがはっきりしていることで、トラッキングをよくしている。傾けやすく、曲がりやすい。最大幅が大きく、安定がいい。ロックガーデンでの遊びには最適である、と。彼は見事なリーンをかけ、少ないストロークでくるくるとよく曲がった。マリナーカヤックスのコースターというモデルだと教えてくれた。

ぼくがCCKで最後に取ったクラスは"Tides, Currents & Rough Water"というクラスだった。これはタイダルカレントのメカニクスとボートコントロールを学ぶクラスである。カレントが強くなる日を選んでクラスが決まるため、いつも開催しているわけではない。ラッキーにもそのクラスにもぐりこむことができた。ぼくたちはサンフランシスコからゴールデンゲートブリッジを渡ったあたりで出艇し、エンジェル・アイランドまで漕ぎ、そこからイエロー・ブラフというサーフポイントまで漕ぎ進め、そこでクレイジーなタイダルウェーブにもまれた。

タイダルカレントは強く、盛り上がった水の上でサーフィンをすることが出来た。少しでも気を抜いたら即沈である。ぼくはいまでもそのときの光景をありありと思い出すことができる。果敢に波に挑戦する人、エディーからなかなか出れない人、沈をしてあれよあれよという間に遠くへ流されていく人。ジャスティンの"This is the sea"にも出ているけど、タイダルカレントでシーカヤックサーフィンをするのって、見た目よりもかなりクレイジーである。ぼくはなんどもサーフィンに挑戦したけれど、正直にいってタイダルサーフィンはぼくの手に負えないとその時思った。一日でへとへとになった。しかしインストラクターに守られながら自分の力量が分かったのはありがたい経験だった。

ロールのクラスは2、3回取ったと思う。プールでリバーカヤックを使った。リバーカヤックでしか練習したことがなかったので、初めてシーカヤックでロールをしたときは反動がつきすぎて、二回転してしまった。けど正直ゆってぼくは上手ではないと思う。ロールの上達って、水にどれほど慣れているかが重要な気がする。水の中にいることを気持ちよいと思える人はロールが上手じゃないだろうか。ぼくは基本的には水を怖いと思っているのかもしれない。まあ、でもそんなことをゆっても始まらないので、ロールの練習はちゃんとしたいのである。

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これがぼくのCCKの思い出である。CCKを通して知り合えた人たちについても思い出深いものが大きいが、記憶の中にとどめておくことにしよう。シーカヤックがどんなアクティビティなのか、どんなスキルや知識がいるのかを教えてくれたのがCCKだった。クラスは一つ一つ目的がはっきりしていて、その道のプロフェッショナルが楽しく真摯にインストラクションをしてくれた。ぼくのパドリングやレスキューやナビゲーションのレベルはまだまだ低いけれど、CCKがなかったら今頃ぼくはカヤックをやめていたか、あるいは今よりも「危険」なカヤッカーになっていた可能性もある。その意味で、彼らに対する感謝はぼくの中でたいへん大きいのである。


CCKの思い出 その2

2008年03月24日 | カヤック

どういうわけか、シーカヤックに乗ってみたい!と思い立ち、ネットで調べて自宅から一番近いアウトフィッターにぼくは駆け込んだ。それがCCKだった。



最初に Kayak Basics という、まあイントロダクションみたいなクラスを取った。初めてのカヤック。4mくらいの安定のよいリクリエーションカヤック。パドルを水に差込んだ瞬間、ああこれはこの先ずっとぼくの趣味になると感じた。

カヤックの楽しさを知ったぼくはすぐに次のクラスを取った。Beginning Sea Kayak のクラスで、5mのシーカヤックに乗り、ストロークの仕方、レスキューの仕方を学んだ。続く Sea Kayak II のクラスでリーンとエッジングを新たに学び、ストロークとレスキューをおさらいした。

Sea Kayak II を取るころにはぼくはフォワードストロークに夢中になっていた。また、CCKが安く提供してくれている週一回の Social Paddle と呼ばれる、まあみんなで漕ぎましょうという会に参加するようになっていて、ずいぶんスムーズに漕ぐことが出来るようになっていた。ぼくがフォワードストロークに夢中になったのには、CCKのインストラクターの面々の素晴らしい影響も大きいけれど、曲がりなりにも昔自分がボートのレースに出ていた経験も濃く影響していると思う。別にカヤックのレースに出ようと思ったわけではない。よりよいフォームで漕ぐ楽しさというのは、ボートもカヤックも一緒だと思った。楽に漕いで速く、長く水面を滑る。それ自体がカヤッキングの楽しさの一つだとぼくは思うようになっていた。

もう一つ決定的な出会いがあった。CCKのインストラクターの一人からあるDVDを紹介された。それは Brent Reitz という人が作ったフォワードストローククリニックのDVDだった。彼はアメリカのレーシングとワイルドウォーターの元チャンピオンで、長年アメリカのオリンピックチームのコーチを務めた人物だ。彼のDVDには彼のフォワードストロークの理論があますところなく紹介されていた。ぼくはそのDVDを繰り返し見ては、週一回の Social Paddle を楽しみにしていた。

そしてついに彼がCCKにやってくる日が来たのである!ぼくは満を喫して彼のクリニックに参加した。彼は頭に白いものが混じった中年だったけど、筋骨隆々で、非科学的な言い方を許してもらえれば、オーラのある人物だった。明るく誠実で、面倒見がよかった。もし大きな船で1年くらいの航海に出ることになったら、彼のような人物にキャプテンを務めてもらいたいものだ。彼は自分のアスリートとしてのこれまでの経歴と、そしてこうしてリクリエーションパドラーへのクリニックを開くようになった経緯を説明した。そして、自分自身が間違ったフォームで手首を故障したことを語り、正しいフォームは舟を速く進ませるだけでなく、パドリングによる怪我を防いでくれると説明した。

クリニックを受けたのはもっとも経験の浅い自分を含めて8人ほどで、10年選手からなんとアラスカをカヤックで冒険してまわる夫婦までいた。クリニックを受ける前のそのアラスカ夫婦のパドリングは素人のぼくが見ても随分ひどいものだった。ガッチリとパドルを握りしめいかにも力任せという感じで水を引っ掻き回していた。これじゃあいくらからだが屈強でもいつか肉離れや関節の痛みに襲われるのではないかと想像された。しかしクリニックを通して、その夫婦のパドリングの改善には目覚しいものがあった。いや、目覚しい改善が見られたのは彼らだけではなかった。全員一日で見違えるほどのフォームを手に入れたのだ。

ぼく自身のフォームも随分改善された。自分では十分にトルソー(腕、足、首を除いた胴体部分)の回転を意識していたつもりだったけれど、それは充分ではなくどこかで力が逃げていることが分かった。上体をロックすることによって水を引く力をダイレクトにフットブレイスへと伝達させることが出来る。そしてフィニッシュした上体は舟に対して最大の角度がついていて、体は自然と元の状態に戻ろうとする。その復元力といったらいいか、"unwinding"しようとする力を次のストロークに生かすのだ。肩甲骨、肘、手首等の動きは結局のところ、そのトルソーの力を殺さないようにあくまで補助的な動きをするに過ぎない。しかしその「細部」の動きがまずいために起きる怪我が多いという。力を抜く部分は力を抜き、リラックスする。細部の力が抜けていると全身の力もほどよく抜ける。全身の力が抜けると舟の動きに抵抗しなくなるので、突発的な舟の揺れにも柔軟に対応できる。フォワードストロークの効率を求めると、体の故障を未然に防ぎ、結局はそれが有機的にすべてのボートコントロールに繋がってくる。それがブレントのメッセージだった。

そのクリニックの中で「ああ、そうか!」とひざを打ってしまいたくなる場面がいくつもあった。それなりにスムーズに漕げていると思い込んでいたぼくは、いくつかの勘違いを指摘され、新たに留意すべき点を教えてもらった。客観が入ると人間は変わるのだ。自分が出来ていると思っていたものは、想像で脚色されていた。ぼくのカヤックに対する何らかの態度は、たしかにこの日を持って変わったと思う。うまくなったとか、そういうものじゃない。ストロークにおける物事の優先順位のようなものを教えてもらえたことが、ぼくを成長させてくれたのだと思う。大げさに言えば。体を動かすのってほんとうに楽しいと思った。

つづく。


CCKの思い出 その1

2008年03月23日 | カヤック

引越しの荷物を整理していたら懐かしいものが出てきた。



CCK。California Canoe and Kayak。ぼくにカヤックを漕ぐことの面白さを教えてくれたアウトフィッターだ。1972年からやっていて、ノースカリフォルニアの主要な海をフィールドにしている。ショップはオークランドにあって、波の影響を受けない入り江で初心者のクラスやツアーを行っている。一般参加のカヤックレースを開催したり、海外にカヤックトリップをしたり、カヤックやカヌーのデモをやったりと、イベント好きなアウトフィッターだ。イベントの多くは募金集めをかねていて、一日で日本円にして百万円も集まるのだから、たいしたものだと思う。メッセージがあるのだ。

一度ぼくはソロで活動しているアラスカの冒険家のトークショーに行ったことがある。狭い店になんとかスペースを作りいすを並べて、誰かが焼いてくれたクッキーをみんなで食べながら、ダンの話を聴いた。

「ぼくは面白い場所を見つけると、そこに何日でも居続けるんだ。写真を撮り、サーモンのジャーキーを作り、それを食べ、タープの下で寝る。翌日も同じことをする。一度ブッシュパイロットが不時着したのに出くわした。ぼくはじっとそのパイロットの様子を見ていたよ。彼は時間をかけて不具合を直し、プロペラがひん曲がってしまった飛行機を蘇らせて再び空へ戻っていった」

いかにもじーっと座ってその光景を見ていたのだろうなあ、と思わせるエピソードである。熊と格闘したとかビッグフットに追いかけられたとか津波でサーフィンしたとか、その手の冒険談を求めていた我々としては、肩透かしをくったような気分になってもよかったのだけれど、だんだん彼のゆるやかなキャラに魅せられていくであった。

ダンはアラスカで不思議な日本人にも会ったという。

「彼は日本の若い男性で、自分はアーティストみたいなものだという。彼は近代的なテクノロジーを否定しており、驚いたことにグリーンランドの人たちが狩をしていたころの『本物』のカヤックを自分の手で作り上げ、それを自ら漕いで旅をするという。イヌイットのような格好をしていて、木製のグリーンランドパドルを持っていた。しかし、彼はパドリングに関しては明らかに素人だった。スペアパドルは持っているというが、見当たらない。ぼくは彼に教えてあげたんだ。スペアパドルはデッキにくくりつけておかなきゃ、いざというとき使えないんだよ、と」

世の中すごい人もいるもんだ。しかしぼくも同じ日本人なだけに、その場においてなんとなく肩身が狭いというか、何かコメントを求められたらどうしようと内心思った。けれど誰にもきかれなかった。カリフォルニアにおいて国籍なんて、あまり多くを意味しない。あくまで「人」ベースで人をみる。

彼はゆっくりとしゃべり、生野菜をかじりながらそのトークショウを進めた。なんか違う世界を見せてもらった感じだ。そっか、カヤックってたくさんの距離を漕がなくてもいいんだなあ、人はゆっくりと生きればいいんだなあ、面白いものに出会えればいいんだなあ、としみじみ思った。しかしゆっくりな分、彼の旅は長期に及ぶ。トリップに出る前は必死で高カロリーのものを食べ体を太らせる。荷物は極限に減らす。テントすら持たない。「テントのスペースがあれば一週間分の食料を持っていくことが出来るからね」と彼はいう。スローであると同時にシビアなのだ。ぼくは彼の取った写真のついた絵葉書をいくつか買った。荷物の中のどこかにある。あるはずである。

つづく。


横浜ボートショウに行ってきました

2008年03月15日 | カヤック

3月9日。この日、ぼくはパドルとpcと少ない着替えをバックに詰めて、名古屋の実家を出た。とはいっても、漕ぎにいくわけじゃない。お引越しなのだ。ほかの荷物はすべて事前に送っておいた。ちょうどこの日、兵庫のてっさんと彼のお友達のTさんとKさん(はじめまして)が横浜のボートショウを見に行くということだったので、ぼくも便乗することにした。ぼくの新しい住まいは横浜で、ボートショウがある会場からそれほど遠くなかったので、荷物をいちど部屋においてから、彼らに合流した。

会場には、どうやって搬入するんだろう、と思ってしまうような大きな船がたくさん展示されていた。わくわくしますねー。カヌー関連は会場の端っこのほうに少しだけスペースがある。まぁ、人口比からしてこんなもんなのかな。しかしリジット艇に関して言えば、日本の大手のカヤックメーカーからの出展がなかったのは意外だった。ちょっと期待していたんだけど、まあ仕方ないか。しかしその中でフランスの会社RTM社が新しくリリースされたPresto 4.75というシーカヤックを展示していた。



おお。この艇はカッコイイ!サイズは475cm、58cm、重さは21kg。奇しくも(くしくも)サイズがぼくの持っている舟であるところのフェザークラフトのウィスパーとほぼ同じである。いやでも注目してしまう。

まずこの舟、シームが無い。which is good である。どうやって作るのかよくわからないけれど。カテゴリーで言えば、バウとスターンがそそりあがったグリーンランドタイプということになるだろうが、ボリュームは中程度。キャンプツーリングにはいいだろう。コクピット内部とハッチ内には滑り止めシートみたいなシートが隙間無く張られていて、セレブリティな雰囲気をかもし出している。デッキコードの留め金部分もくぼんでいて、シェルにでっぱりが無いのもいい。



ハルに関しては、ぼくのレベルでは詳しいことは分からないけど、かなり操作性がよさそうである。傾けていって、どこかで安定点があるようなカヤックに思える。極端なリーンをかけるような舟ではなさそう。キールはシャープには尖っていないものの、割とはっきりしており、直進性に関しては問題はなさそうだ。ディーラーの人も、オプションでラダーやスケグをつけることも可能だけれど、つけなくても大丈夫でしょうとゆっていた。

RTM社はポリエチレンのシットオンをたくさん生産していて、ヨーロッパでは1、2を争う人気のメーカーだという。今後はFRPのシーカヤックにも力を入れていき、Tookaというブランド名で出すとのこと。日本でのディーラーはまだ決まっておらず、ちゃんとした値段は分からないらしいのだけれど、こそっと38万から40万くらいじゃないですかねーと教えてくれた。全然悪くないッ!

フジタカヌーの社長さんがこの艇に目をつけていて、一艇購入したそうである。日本ではそれが唯一の艇であるそうだ。もし試乗してみたいのなら京都にあるフジタカヌーさんのツアーなどに参加して、Prestoに乗りたい旨を伝えると乗せてくれるそうである。フジタカヌーの人は、社員で乗り回すんです、と嬉しそうにいっていたけど、陰で見えない努力をしていてえらいなあと思いました。うーむ、この艇、乗ってみたい!



ほかにぼくが注目したのは、オープンウォーターロウイングシェル(長)。これはオールを使って後ろに進むボートなのだ。昔は競技用しかなかったのだが、最近では海でのリクリエーション用の形の艇も出るようになった。サイズはまー大体シーカヤックと同じか、少し長い感じだろうか。ぼくも一度サンフランシスコの北にあるサウサリートという町でこいつに乗ったことがあるのだが、これはけっこう楽しい舟である。全身をいっぱいに使うし、スピードもたくさんでる。こういった艇は、日本にはあまり広まっていないように思えるのだが、日本での漕艇の歴史は古いのだからはやく一般に楽しめるようになってほしいのである。

以前雑誌Seakayakaerにのっていたのだけれど、オープンウォーターロウイングシェルとシーカヤックのツーリングの相性はとてもいいらしい。まず、お互いに面と向かって漕ぐことが出来る。そりゃそうである。片方は前に進んでいるし、片方は後ろ向きに進んでいるのだから。会話もできちゃう。そしてお互いの視界を補うことが出来る。これもグッドである。危険とはたいてい見えない所にひそりひそりと迫ってくるものである。

こっからさきはぼくの想像なんだけれど、じつはシェルとシーカヤックの相性には少し落とし穴があるんじゃないかと思う。シェルにはあまり荷物が載らないから、シーカヤックの人にちょっと任せることになる。シェルはたぶんシーカヤックより若干速度が速いから、いい気になって漕いでいると、たぶんシーカヤックの人がそのうちにムッときて、細い水路なんかにスーッと入っていってしまう。シェルは細い水路には入っていけないから、遠ざかる友人の背中に向かって、ごめんよーと細い声で謝りつづけるしかなくなる。要するに、何が言いたいのかよくわからないけど、教訓としてやはり舟の相性より漕ぎ手の相性のほうが大切なのである。



ほかにもいろいろ面白い舟があった。木製のシャープなサーフスキー。下には水中翼が取り付けられている。製作者の人は「速い人が漕げば水中翼に揚力が生まれて船体が浮くと思うんですけどねー」とおっしゃっていた。見てみたいッ!船体が浮いちゃうんだからパドルは長くしないといけないんだろうな。

ほかには、舟の上に自転車みたいなのが取り付けられているものや(説明されなくてもどうやって動くのか想像がつきますね)太陽電池のパネルがたくさんペタペタと貼ってあるもの、翼みたいなのが生えていて左右に体重移動させることにより移動するものなど、いろんな種類の舟があった。たのしいなあ。日本古来の櫂を使ったスポーティな舟なんかも出来ないかなーと思ってしまう。



そういうわけでナカナカ楽しいボートショウでした!お引越しした日にボートショウに行ってしまうなんて、ぼくもなかなかカヌー馬鹿だなあ。毎年やっているようなので、また来年も来たいと思います。


無人島キャンプトリップ 紀伊長島鈴島 その4

2008年03月12日 | カヤック

昨日のカヤッキングの疲れで三日目は寝坊した。体のあちこちの筋肉の疲れを確かめる。カヤッキングって全身運動なんだなあ。

今日は最終日だ。素晴らしい快晴である。さあ!今日はどこへ行こうか。

寝袋をしまい、テントをたたむ。パッキングをすませてカヤックに入れる。同じ場所での連泊ツーリングだと、荷物のパッキングの回数が少ないのでいい。装備を全部入れてもカヤックは持ち上げることが出来た。ウィスパーの軽さには本当に助かっている。このサイズ、この頑丈さにしては羽のように軽い。まさにフェザークラフトだ。おがけで、今後もう20kgオーバーのカヤックに乗ることは出来ないようなきがする。ライトスキンの剛性にはじめは疑問を持っていたけれど、今は何も気にならない。剛性もこのくらいで充分といったところだ。

キャンプをした浜のごみひろいを少しして、ぼくは出艇した。今日は快晴だけど、かなり風が強い。ぼくは白波がはげしくとびかう海をじりじりと漕ぎ、赤野島を目指した。横風がきつく、舟が風上に向かおうとするのに対してスイープで補正をしながら漕ぎ進めた。ふと、パドルコーストの吉角さんに受けた実践ツーリングの講習を思いだした。ここは風の通り道なのだ。地形図だけでそのくらいぴーんとくるようになりたいなあ。いやあそれにしてもスイープのよい練習になるなあ。スケグの必要は感じない。パドルワークだけで舟の進路を保つことが出来る舟をぼくは手に入れたのだなあ、といまさらながら感慨に浸る。今思うとほんと無理にカヤックのボリュームをしぼらなくてよかった。





赤野島に上陸。赤野島は長細く、不思議な形をした島だ。上陸はオーケーだけど、キャンプは禁止。あれ!穴があるゾ。くぐってみよう!





何も穴をくぐるところを自分で写真に収めなくてもいいんだけど・・・と思いながら、撮りました。少し休憩して、また出発!



丸山島はおわんのような、面白い形をしている。南側の穴に入って遊んだ。なんか竜宮上みたいだなあ。行ったことないけど。岩と岩の間を細かくターンをしながら漕ぎ進める。舟と体との一体感はこのあたりでピークに達した。風が吹いても意のままに進めるし曲がれる。気がした。漕ぐだけで脳内から快楽物質が出る。ウィスパー、好きだああ(涙)

そしてぼくは豊浦海岸に着岸した。ここでカヤッキングは終了。出艇場所の三浦海岸に戻らなかったのは、ちょっと水質がアレだったためだ。その点、豊浦海岸はいい。景色はいいし、駐車場はキレイだし、水質もキレイだし、トイレはあるし、玉砂利の浜だし、鈴島は近いし、神社はあるし、すごくいい出艇地です。地図に載ってないかもしれないけれど、42号の三浦海岸のちょっと手前で標識が出ています。

ぼくはここで舟を乾かし、車を取りに行き、片付けをし、帰路についた。帰りに紀伊長島古里(ふるさと)温泉で体を温めた。うぅ、しみるぅ。この三日間の海遊びで痛んでしまったぼくの手の皮は、温かい温泉でぴりぴりと痛んだ。まあ、じきに元通りになるさ。帰り道になんと、雪が降った。ガソリンスタンドのお兄ちゃんが驚いていた。最後の最後まで、本当に楽しいキャンプトリップだった。鈴島、ありがとう!きっとまたくるね!

おしまい。


無人島キャンプトリップ 紀伊長島鈴島 その3

2008年03月11日 | カヤック



島勝浦についたぼくは道であったおじいさんに雑貨屋さんのある場所を教えてもらった。パンか何か買えるという。ハラペコだったぼくはおじいさんに礼を言うと、さっそくその雑貨屋さんに向かった。

はたしてその雑貨屋さんは、なんとも素敵にレトロなお店だった。雑然と並べられた雑貨のなかからぼくは菓子パン二つとポテトチップスとチョコレートを買うことにした。お店のおじいさんに商品を手渡すと、おじいさんはびっくりするような大きな声で「パジャマで悪いねえ!」と言い、奥へ入っていった。奥にはもう一人おじいさんがいるみたいで、二人であーでもないこーでもないとやっている。3分くらいたって、「ソロバン、ソロバン!」という声が聞こえて来たので、反射的に周りを見渡したら、はたしてぼくのすぐ近くにソロバンがあった。ソロバンは5個玉がある古いやつで、枠なんかもぶっとく、持ち上げてみると1100gくらいありそうな手ごたえだった。ぼくはそのソロバンをパジャマのおじいさんに手渡し、さらに3分30秒くらいたったところで、勢いよく背後の引き戸が開いた。

入ってきたのはおばさんだった。その人は店の奥へ行くと、計算をしてくれたらしく、つかつかとぼくに歩み寄りぼくに525円ですとゆった。おばさんはヘンな格好のぼくに興味しんしんで、ぼくにいろいろと質問をしはじめた。するとパジャマのおじいさんもつられてやってきて、ぼくに海のカヌーについていろいろな質問をし、「フーン!若いってのはすごいもんだ。わしも若かったころは遠くまでいったもんだよ。若いってのはすごいんだなあ!」といい、ぼくなんか全然スゴくないですと言ったけれどあまり信じてもらえず、とにかく凄い勢いで、しかも二人同時に質問攻めにするのだ。その二人の驚きようといったらまるでペリーが来航した時のような感じであった。このあたりでカヌーをやる人はいませんか?といったら、見たこと無いと二人ともゆっていた。

まあそんな感じでぼくはモーレツに励まされるような感じで店を後にしたのだった。ぼくは実はこのむき出しの好奇心というのが、嫌いではない。この人たちのように好奇心は進んで満たすべきだと思う。それにしても、今日3組の人にあったわけだけれど、みんな興味しんしんで、だれも危ないとか説教がましく気をつけなさいとかいわなかったのが、実によかった。それどころかむしろ一人旅をうらやましがっているようにすら見えた。海に近い人たちはやっぱり違うなあと思ったのである。

ぼくは和具の浜に戻り、黄金色に枯れた芝生の上でパンをむさぼり食った。ポテトチップスを食べ、アーモンドチョコレートをぼりぼりと齧った。春のような日差しがぼくの新品のウエットスーツをじんわりと温める。なにか暖かいタオルを乗せてもらったみたいだ。ちょっと横になろうと仰向けに寝転がったら、それきりぼくは潔い潜水士のようにまっすぐに眠りに落ちた。

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30分くらいだろうか、いやもっとだろうか、快適な眠りから目を覚ましたぼくは時間の感覚を少し失っていた。パイプの手すりにほしたスプレースカートが風に揺れてカンカンと音をたてていた。さきほどの集落の散策が、まるで夢の中での出来事みたいにやけに非現実的に思えた。しかしぼくの手元にはまだいくつかのアーモンドチョコレートが残っていた。

再びカヤックに乗り込み島勝浦を出た。きっといつかまたこの集落を訪れようとぼくは思った。バウを北に向ける。北風が強かったけれど、お昼ごはんとお昼ねで体力を回復したぼくは元気いっぱいの力で向かい風の中を漕いでいった。ウィスパーはほんと漕ぎ味が軽い!すばらしいシーカヤックだ。舟と体に一体感が出てきて、どこまでもどこまでも漕いでいけそうな感じだった。

リアス式海岸特有の複雑な海岸線やたくさんの島を眺めながらカヤックを漕ぐのは楽しい。きれいな景色だなあ。バウが目指しているのはちょうど始神峠(はじかみとうげ)のあたりだ。ここは熊野古道の峠のなかでも一二をあらそう景勝地といわれているようだ。そこから眺める海の景色はは「紀伊の松島」とも呼ばれるという。さあ、ぼくの舟はその景色の中で一体どのように見えるのだろう??

気持ちいい疲労感と一緒に、一度出艇した浜へ上陸。車からちょっと荷物を調達して、再度出艇。鈴島に帰ってきた。今日は7時間くらい漕いだかなあ。

ひゃー疲れた!楽しかった!ウエットスーツはもしもの転覆に備えて大変心強いのだけれど、いかんせん着替えの時は裸同然の格好になるので、これが寒い寒い。



さぶかったので、まだ明るかったけれど薪を組んで火を入れた。すぐにパチパチと燃え広がる炎。火がつくってすごいな。空気中にはたくさん酸素があるんだなあ、などと考える。酸素なんてゆう極めて反応しやすいものがこんなにあるのは、たくさんの植物が光合成をするからなんだろう。今は水温が低いので二酸化炭素がたくさん海水に溶けこんでいるはずで、ひょっとしたら海草たちにとっては今はいい時期なのかもしれない。いっぱい酸素を作っておくれ。いやあ、それにしても、焚き火ってあったか~い。ありがた~い。ぼくははちみつの壷を抱えた熊のようにしばらくその場を去ることができなかった。

夜はご飯を炊き、味のついたまぐろステーキとカイワレを入れて混ぜご飯にし、アオサとネギのすまし汁を作った。そしてパックにあまったまぐろステーキをつまみに日本酒を飲んだ。夜は冷え込んだけれど、焚き火は奇跡のように暖かで、寒さを感じることはなかった。


無人島キャンプトリップ 紀伊長島鈴島 その2

2008年03月10日 | カヤック

二重にした寝袋の温かな誘惑に打ち勝ってぼくが起き出したのは、ちょうど午前6時だった。次の冬にはちゃんとした冬用の寝袋を購入しよう。冬のキャンプってゆっても、焚き火があって、暖かい寝袋があれば体が冷えることもない。かなり快適だ。

さあ。今日は漕ぐゾ!キャンプ道具はこのままここに置いておくことにして、空荷のウィスパーでツーリングしよう。

昨晩のごはんに水を入れて火にかけ、沸いたところでアオサと出汁とショウユを入れて即席のお茶漬けをつくり、朝食にした。さあ、島勝方面に行こうか、紀伊長島方面へ行こうか。地図を見ながら考える。そうだな、島勝浦方面、すなわち尾鷲方面へ行くことにしよう!

気合を入れて冷たいウェットスーツに着替え、いざしゅっぱーつ!

バウを南南西に向け、オドナ岩とダイヤ岩の間をとおり、大白浜に一旦上陸。ここは臨海公園になっていて、なかなか雰囲気のよい場所であった。散歩中の老夫婦に挨拶すると、ぼくのカヤックに興味を示してくれたみたいで、しばらく話を伺った。

ぼく 「今日は鈴島からきました。これから島勝浦に行こうと思います」
おじさん 「島勝の東は風が抜けるからな。自分も昔は船を出してようこの辺まわったもんだわ。で、島勝が抜けれたら、志摩のほうまで簡単に行く事ができたな」

さすが熊野灘、簡単な海域ではなさそうである。おじさんは、ぼくの話を聞いて、ほりゃ尾鷲までいかんならんわな、遠いぞ、と繰り返して言っていた。-_-; ちょっと尾鷲までの往復はキツイっす、と思ったけれど口には出さず、楽しんできますと言っておいた。





島勝浦に行く途中で見つけた穴に入る。今回気がついたのだけれど、ぼくはどうやら穴が好きらしい。こう、冒険心をくすぐられてしまう。しかし実際に入ると波のぶつかる音が響いてすごく大きく聞こえるので、ちょっとびびってしまうのである。けどすごい楽しい!

ぼくは島勝浦の東端に出た。南を見れば、そこは洋々たる太平洋だ。



ゆるやかな周期のうねりを感じる。水の透明度も上がったようである。このあたりの景色は本当にダイナミックで美しい。





次に見つけた江戸鼻の先の穴でしばらく遊ぶ。穴は海のうねりを飲み込んで、少しテンポをずらして吐き出していた。まるで呼吸をしているみたいだ。それにつられてぼくの舟も少し穴へ導かれ、そしてまた少し吐き出される。穴によって増幅されたうねりはぼくの舟をゆりかごにし、ぼくを赤ん坊の気分にさせてくれた。



穴に飽きるとぼくはまた少し沖へ戻った。だいぶ北風が強くなってきた。白波が少し出て、水面に皺がよっている。もう少し南のほうまで周り込みたかったけれど、帰りの向かい風を思うとここでUターンをしたほうが賢明だった。

強い向かい風の中を漕いでいった。きついけど、漕げば進むので向かい風はそんなに嫌いじゃない。強い横風なんかのほうがぼくにとってはしんどかったりする。キャッチが抜けないように、ひと漕ぎひと漕ぎ着実に前進するように意識した。途中で猛烈にハラが減ってきて、40%くらいの根性を使って漕ぐ。ダミだ。なんか食べたい!地図を睨むとすぐ近くに島勝の漁港があるのが分かった。地図記号によれば学校があるみたいだから、たぶん何か食事が出来るところもあるだろう。せっかくだからそこで食事をすることにしよう!



ぼくは漁港の近くの和具の浜(すっごいキレイ)というところで上陸し、集落を散策した。

古くてのどかでいい集落だ。しかし、なーんか静まり返っているのである。ぼくは立ち話をしていたおじいさんに思い切って声をかけてみた。

ぼく 「スミマセン。このあたりに食事が出来るところはありますか?」
おじさん 「それがなあ、ないんだわ」
ぼく 「(驚) ないですか?」
おじさん 「一つもないんだわ。昔はあったんだよ。旅館もたくさんあったし。小学校と中学校もあったよ。300人もいたんだがね。どっちも廃校になってしもうた」

ぼくは驚いた。ぼくの持っていた地図は古かったのだ。今はもうあの地図記号にあった学校はなくなってしまったのだ。ぼくは、それはさびしいですね、といい、「過疎」という言葉を飲み込んだ。外の人が集落の人にゆってはならない言葉のように思えた。

おじさん 「まあ、過疎の最たるもんじゃわな。お兄ちゃんはどこから来たの?」
ぼく 「カヌーで三浦海岸から鈴島に渡って、島勝浦をぐるっと回り込もうと思ったんですが、風が強くて途中で帰ってきました」
おじさん 「(絶句) はああ、カヌーでか!兄ちゃん、すごいな。地元は?」
ぼく 「名古屋です」
おじさん 「仕事は?」
ぼく 「ずっと仕事がなかったんですが、ついこの間就職が決まったのです。東京の仕事です。だから引越しちゃうまえに三重県の海を漕いでおきたかったんです」

そこからおじいさんは好奇心の赴くままにぼくに質問をし、そして最後にパンが買えるという雑貨屋の場所を教えてくれた。ぼくは礼をいい、教えてもらった雑貨屋さんに向かった。


無人島キャンプトリップ 紀伊長島鈴島 その1

2008年03月09日 | カヤック

3月3日から5日まで二泊三日で三重県の紀伊長島へキャンプトリップへ出かけた。自宅から目的地まで高速をフルに使ってちょうど3時間。ぼくは、だんだんと深まる森の景色の中でうきうきした気持ちを鞠のようにはずませながら運転を楽しんだ。

途中で『ホップ ステップ 中部!』と書かれた看板を発見する。一体どのような効果を狙っているのかよく分からないのだけど、面白いから笑ってしまう。なんか日本ってこういった類の看板が多い気がする。まあ、べつにいいんだけど。

紀伊長島の道の駅「マンボウ」で県産品をいくつか買い込み、出艇地である三浦海岸へ到着した。ここでウィスパーを組み、パッキングをして、出発!



いやー景色がいいなあ。やっぱり舟の上から連続的に動く景色を見るのは格別だ。ずっとゴタゴタしていてカヤッキングから遠のいていたお陰で最初は体の座りが悪かったのだが、次第に舟との一体感が戻ってきた。水の上をすべる感覚って、いいなあ。漕いでいるだけで、楽しい。



はやくキャンプ地を見つけて安心したい。ぼくはバウを鈴島へ向けた。鈴島の西側には広めの浜がある。フムフム。そこからじっくりと観察しながら時計回りに島を5/4周した。



島の南側へ回ると太平洋のうねりを感じた。湾から漕ぎ出して、うねりに出会うとわくわくしてくる。荒々しい岩の模様に目を奪われる。絶壁にねじれた断層が顕(あらわ)になっている。小さな舟の上から眺めるとそれは圧巻であった。





島の西側は北風の通り道になっていそうだったので、島の北側の浜をキャンプ地に設定。玉砂利の浜に上陸し、風の少なそうな場所にテントを張った。



まずは一人で祝杯(無職のくせにビールはリッチ。これをいうのも今回が最後かー。というか、願わくば最後であってほしい)。かー!うんめー!



テントも張った。寝袋も出した。ウエアも替えた。ビールも飲んだ。さあ、焚き火の仕度でもしますか!一人ではとてもじゃないけど燃やしきれないほどの流木がある。それも水はけのよい玉砂利の上でからからに乾いた流木だ。ちょっと体を動かしたら必要な量の薪はすぐにそろった。



無洗米を水につけて、薪を組む。熊野の山々の向こうに沈む太陽を眺めて、十分暗くなったところで、ぼくは薪に火を入れた。



パチパチと気持ちのよい焚き火の音を聞きながら、ぼくは食事の仕度を開始した。小さなコッヘルに5cm大のネギを敷き、シイタケを乗せ、スライスの豚肉を上に置く。酒をどぼっと注いでふたをして、アルコールバーナーの上に置けば、あとは匂いが料理の完成を知らせてくれる。最後にショウユをかけたら ready to eat。ネギのとろみがスープに出て、冷めにくいのがよかった。シイタケがほどよく脂を吸って、うまい。

アルミフォイルでこぶしを包むくらいの大きさの「かまくら」を作る。球をすぱっと半分に切った形だ。このかまくらに皮をつけたままの里芋をいれて、焚き火に向けて地面に置いておく。手をかざして10秒我慢できない位の距離に置くといいと思う。焚き火の赤外線調理だ。アルミフォイルは素晴らしく赤外線を反射させるので、火に当たってない里芋の裏側にも熱がいく。アルミフォイルはなかったらなかったで、構わない。時々角度を変えてやればいい。

ごはんと酒蒸しを食べ終えて、ビールを飲みながら待つこと90分、ホクホクの里芋が出来上がった。ナイフで半分に割って、小さなスプーンでほじって食べる。うまい!!栗に勝るとも劣らない香り、キメの細かい滑らかな舌触り、適度な粘り。へええ、里芋っておいしいなあ!

ちびちびやっていた日本酒の瓶を脇に置き、ぼくは焚き火の脇の玉砂利の上に寝転がった。暖かいし、煙は上へ行くので目も痛くならない。星空がとても綺麗な夜だ。

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ただ存在しているだけの一年だった、と思う。仕事は無く、経歴がいくぶん特殊だったぼくは就職活動をしても一向に良い返事をもらうことが出来なかった。貯金がするすると減っていくのが怖くて好きな本すら買わないように努めていた。しかし好きな時間に風呂に入り、家族や友人に酒を奢ってもらい、適当に運動をし、少し机に向かう生活は、それはそれで悪くない。いやむしろ快適ですらあった。しかし、そんな幸せな生活を享受するに値する貢献をしていないことが、ぼくの心の足枷になっていた。

くすぶった一年から脱却して、ぼくは今次のステップに進もうとしている。これから新しいことがきっといろいろ起こるだろう。そういう前兆を感じる。助走の距離が少しばかり長かっただけだ。自分の足についていた足枷は、自分で作った幻想なのだ。足枷がなくなれば、思えばナカナカ楽しい一年だったと感じることが出来るようになる。いっちょキャンプトリップにでも行ってやろうって気になる。

ぼくは一人ぼっちのキャンプに特有な濃密な時間の中で、そんなとりとめのないことを考えていた。