大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

嗚呼、洋楽生活40年(その7)

2013-03-10 | 洋楽
中学2年生の僕が「ツェッペリン2」を時代遡りで購入した頃、僕らの仲間内で同じように遡りで聞いておかなくてはいけないと暗黙のうちにされていたアーティストが他にもいました。その筆頭がクリームです。

クリームは、言わずと知れたエリック・クラプトンが在籍した伝説のグループ。ちょうど時を同じくして、その年はクラプトンが麻薬生活から復帰しアルバム「461オーシャン・ブルバード」とシングル「アイ・ショット・ザ・シェリフ」で世間を賑わせていて、クリームへの同級生たちの注目度は嫌が上にも盛り上がっていたのです。

恐らくは「ミュージック・ライフ」誌が言いだしっぺだったのだろうとは思いますが、当時日本では元ヤードバーズの3人のギタリスト、クラプトン、ジェフ・ベック、そしてツェッペリンのジミー・ペイジは“三大ギタリスト”などという呼び名であがめられていました。中でもクラプトンは、歌って弾けるギタリストと言うことで特に人気が高く、この時の復活人気はかなりの盛り上がりであったと記憶しています。

しかしながらオマセな洋楽通同級生の間では、レゲエを取り入れた「アイ・ショット・ザ・シェリフ」はクラプトンの中では異端であり、よって新作の「461オーシャン・ブルバード」をほめるのはダサいとされ(『アルバムはイマイチだけど「レット・イット・グロウ」はいいね』と言うのが通とされていました)、クリームを知らずしてクラプトンを語るな的な俄かクラプトンを諌めるムードがどことなく漂ってもいたのです。

ついでに言えば、ブラインド・フェイスなどほとんど語る者はなく、また今では彼の一の代表作である「いとしのレイラ」などはウケ狙いのロック・ナンバーで、同名のアルバムはスワンプという言葉すら輸入されていなかったその当時は、麻薬漬けで“腑抜け”になったクラプトンの超駄作とされていました(これもまた、『「ベルボトム・ブルース」と「リトル・ウイング」はいいね』というのが通だったような)。そんな訳で、ブルーズを基調としてハード一辺倒のクリームこそクラプトンの真骨頂であるというのが、「ミュージック・ライフ」の受け売りも含め洋楽通同級生たちの一致した見解だったのです。

そして、その当時もっとも名盤として我々洋楽入門世代に愛されていたのが、「ライブ・ボリューム2」でした。このアルバムはクリーム解散後の72年、すなわち「461」の前年にリリースされた“新譜”で、ベスト盤的な選曲のせいもあって同級生の間ではかなりの高評価を得て貸し借りされていました。

この中で、基本中の基本として押さえるべきとされていたのが、「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」と「ホワイト・ルーム」でした。「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」は学内のコピーバンドの定番でしたし、「ホワイト・ルーム」はライブの荒々しさで、インパクトのあるイントロも含めた迫力満点の演奏が、我々中坊の心を鷲掴みにしたのです。

そんな中で僕はどちらかと言うと、ツェッペリンにはけっこう早く追いついたものの、クラプトンにはやや乗り遅れ気味で、結局クラプトンがらみのアルバムを始めて買うのはその2年近く後のライブ盤「EC Was Here」まで待つ形になりました。むしろ、クラプトンに乗り遅れた分を他で取り返そうと思ったのか、「461」の頃に買ったのが同じ“三大ギタリスト”が所属するベック・ボガード&アピスのデビューアルバムでした。

これを買った理由は、シンプルなバンド名をデザインしたジャケットが好きだったのと、何よりベックが“三大ギタリスト”3人の中で一番鋭角的な顔つきでカッコ良かったことかなと思います。加えて、意外なほどに同級生の間では人気が低く、ほとんどレコードを持っているヤツがいなかったことも、どことなく洋楽初心者の自分に優越感を感じさせてくれるアーティストとしてお気に入りになった大きな理由の一つであったというのは、今だからこそわかる部分なのかもしれません。(続く)

◆本日の関連レコード
<エリック・クラプトン>
・「461オーシャン・ブルバード」(LP)
・「EC Was Here」(LP)
・「クリーム・ライブ・ボリューム2」(LP)
・「スーパー・ジャイアンツ/ブラインド・フェイス」(LP)
・「いとしのレイラ」(LP)
<ジェフ・ベック>
・「ベック・ボガード&アピス」(LP)
・「BBAライブ・イン・ジャパン」(LP)