高知県の東部地域、安田川の上流に馬路村があります。
最近は柚子の商品が有名になって、注目を集めています。しかし今日書いてみたいのは平家の落人伝説です。それに特に宗教関連情報を書いてみたいのです。たぶん観光事業の大きな戦力になるでしょう。
それに袈裟襷文銅鐸。馬路村には銅鐸が保存されているのです。
もちろん銅鐸と平家伝説は共通点はありませんが神社のご神体として祀られているのです。
何で銅鐸が馬路村にあるのか、どうも理解できないところがあります。
銅鐸は弥生時代を代表する国産の青銅器です。といっても今から2000年以上も前に造られたとされる物で、高知県にもそうたくさんはない物です。さらに発見されたのが昭和の35年に熊野神社の厨子の中から出てきたのです。来歴を含めて全く分からないだけに、興味を引きますね。
ミスリアス馬路物件A 。です。
銅鐸をご神体としていただいているのは、熊野神社です。和歌山県の熊野十二社権現を平家の落ち武者大野源太左衛門が勧請して馬路村相名の地に社殿を建立したのが文治二年(1186)とされています。十二社に大野家の主君、平重盛の霊を加えて十三社としたといいます。
神社自体もミステリアスです。神事が残されています。高知県の東部地域においては貴重な事例です。
さらに壇ノ浦で入水自殺をしたとされる、平教経(のりつね)が馬路にたどり着き、生活をしていた屋敷跡まであるのです。
平教経(のりつね)は平清盛の弟、教盛の次男ですから、清盛の甥になります。平家一門最強の大将軍にして義経最大の好敵手といわれた方です。
壇の浦で亡くなったとされているのが、25歳頃ですから、生きて馬路に現れても不思議ではないのです。なにしろ彼の傍らには安芸氏の大領実康の子・太郎・次郎がいたのですから、彼らを案内役に土佐の山間部に現れてもおかしくはないのです。戦っていて相手と意気投合なんてよくある話ですしね。
それに金林寺。なにしろ創建が大宝3年。西暦で703年というのですから、凄いことです。
魅力的です。ミステリアス馬路なのです。
最近は柚子の商品が有名になって、注目を集めています。しかし今日書いてみたいのは平家の落人伝説です。それに特に宗教関連情報を書いてみたいのです。たぶん観光事業の大きな戦力になるでしょう。
それに袈裟襷文銅鐸。馬路村には銅鐸が保存されているのです。
もちろん銅鐸と平家伝説は共通点はありませんが神社のご神体として祀られているのです。
何で銅鐸が馬路村にあるのか、どうも理解できないところがあります。
銅鐸は弥生時代を代表する国産の青銅器です。といっても今から2000年以上も前に造られたとされる物で、高知県にもそうたくさんはない物です。さらに発見されたのが昭和の35年に熊野神社の厨子の中から出てきたのです。来歴を含めて全く分からないだけに、興味を引きますね。
ミスリアス馬路物件A 。です。
銅鐸をご神体としていただいているのは、熊野神社です。和歌山県の熊野十二社権現を平家の落ち武者大野源太左衛門が勧請して馬路村相名の地に社殿を建立したのが文治二年(1186)とされています。十二社に大野家の主君、平重盛の霊を加えて十三社としたといいます。
神社自体もミステリアスです。神事が残されています。高知県の東部地域においては貴重な事例です。
さらに壇ノ浦で入水自殺をしたとされる、平教経(のりつね)が馬路にたどり着き、生活をしていた屋敷跡まであるのです。
平教経(のりつね)は平清盛の弟、教盛の次男ですから、清盛の甥になります。平家一門最強の大将軍にして義経最大の好敵手といわれた方です。
壇の浦で亡くなったとされているのが、25歳頃ですから、生きて馬路に現れても不思議ではないのです。なにしろ彼の傍らには安芸氏の大領実康の子・太郎・次郎がいたのですから、彼らを案内役に土佐の山間部に現れてもおかしくはないのです。戦っていて相手と意気投合なんてよくある話ですしね。
それに金林寺。なにしろ創建が大宝3年。西暦で703年というのですから、凄いことです。
魅力的です。ミステリアス馬路なのです。