ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

ミステリアス馬路

2010-05-08 08:46:09 | Vision East
 高知県の東部地域、安田川の上流に馬路村があります。

 最近は柚子の商品が有名になって、注目を集めています。しかし今日書いてみたいのは平家の落人伝説です。それに特に宗教関連情報を書いてみたいのです。たぶん観光事業の大きな戦力になるでしょう。

 それに袈裟襷文銅鐸。馬路村には銅鐸が保存されているのです。
 もちろん銅鐸と平家伝説は共通点はありませんが神社のご神体として祀られているのです。
 何で銅鐸が馬路村にあるのか、どうも理解できないところがあります。
 銅鐸は弥生時代を代表する国産の青銅器です。といっても今から2000年以上も前に造られたとされる物で、高知県にもそうたくさんはない物です。さらに発見されたのが昭和の35年に熊野神社の厨子の中から出てきたのです。来歴を含めて全く分からないだけに、興味を引きますね。
 ミスリアス馬路物件A 。です。 
 銅鐸をご神体としていただいているのは、熊野神社です。和歌山県の熊野十二社権現を平家の落ち武者大野源太左衛門が勧請して馬路村相名の地に社殿を建立したのが文治二年(1186)とされています。十二社に大野家の主君、平重盛の霊を加えて十三社としたといいます。
 神社自体もミステリアスです。神事が残されています。高知県の東部地域においては貴重な事例です。

 さらに壇ノ浦で入水自殺をしたとされる、平教経(のりつね)が馬路にたどり着き、生活をしていた屋敷跡まであるのです。
 平教経(のりつね)は平清盛の弟、教盛の次男ですから、清盛の甥になります。平家一門最強の大将軍にして義経最大の好敵手といわれた方です。
 壇の浦で亡くなったとされているのが、25歳頃ですから、生きて馬路に現れても不思議ではないのです。なにしろ彼の傍らには安芸氏の大領実康の子・太郎・次郎がいたのですから、彼らを案内役に土佐の山間部に現れてもおかしくはないのです。戦っていて相手と意気投合なんてよくある話ですしね。

 それに金林寺。なにしろ創建が大宝3年。西暦で703年というのですから、凄いことです。
 魅力的です。ミステリアス馬路なのです。
 

なはりG 地点

2010-05-05 16:18:30 | 昔話
加領郷漁港です。
写真を撮ろうとしたとき、偶然漁船が帰ってきてくれました。
動いているものが一つあると、画面がちょっと変わっていいですね。


 この場所を、なはりG 地点としました。ここはなかなかに歴史のある場所で、主として漁業を中心として生活を営んできた特異な場所でもあります。取材をしていると旧知の女性が、昭和9年の室戸台風の際には越波が激しくて、登録有形文化財に指定されている大西家に逃げ込んだこと等を話してくれました。その昭和9年の室戸台風は記録によると奈半利で死者6人、家屋流失100余、舟の流失73隻となっています。凄い数字です。堤防等の整備が不十分だったのでしょうが、海岸の生活は刺激的なのです。

 この加領郷という場所は、17世紀の当初、山内家が土佐支配を始めたころ、奈半利の人々が舟に乗って、燃料としての保佐を取りに来ていた場所だったのですが、時折魚群を見たことから、網を作り魚を獲りはじめたようで、加漁郷となり、加領郷と変化したらしい。
 この場所は、奈半利の初代の郷浦庄屋、濱田七郎右衛門の子孫濱田喜平次が天和元年(1681)に加領郷に移住し、さらにその子が加領郷浦支配となり、漁業権を獲得して漁業を行った事に始まるとされています。

 かつて日本の遠洋鰹・鮪漁業の先駆的役割を果たしてきた男達の基地です。
 沿岸漁業から遠洋漁業への転進をはたした、勇気ある男達の生活の場であったのです。

いい路地があるんです。

2010-05-05 13:13:39 | 建造物入門
 本当にいい路地があります。
 場所は安芸郡奈半利町加領郷
 江戸の昔より漁業の町として有名な場所です。

 この石階段は、濱田屋敷の入り口です。
 加領郷の浦支配と漁業権を有していた濱田家の住宅があったところです。
 今はこの石階段と南側に築かれている石垣が残っているだけです。


 地域外の人達には、あまり知られていない場所ですが、この路地の向こうに登録有形文化財として指定されている「大西家住宅」もありますから、一見の価値ありです。



 道路側から見ると、傾斜地に建てられているのが良くわかります。
 以前はこの辺りからも海が良く見えたのでしょうが、今は国道が高架橋となっていますから、見晴らしは悪くなっています。

作家の仕事かな。

2010-05-03 19:26:45 | 好きなもの
 出来ればなのですが、小学生程度を対象にした「お話集」を出せないものかと思っています。

奈半利のお話です。

いつ頃出来て、どの様なことがあって、だれとだれがどんなことをして、今があるといった「お話集」があればいいなと思っております。

まあ準備に1年ぐらい。原稿を書くのにやはり1年。印刷製本に又1年といったところかな。

結構色々とありそうなんですが、問題は執筆能力ですかね。

面白そうな作業なのです。
昔話を集めて、少々脚色を加えつつまとめる作業なのです。

 さらに、近代の実業家の話なんかを、現在の司馬遼太郎氏に執筆依頼をすると「坂の上の雲」みたいな本が出来るかもしれないし、興味あるなあ。
 明治から大正、昭和にかけて中芸は、今から考えても実に面白いと思うんです。

 戊辰戦争から帰ってきた方々から、お話が始まるのです。江藤新平の捕縛事件など賑やかな話がありますからね。さらに木材資源等の地域資源を生かした実業家が生まれてくるのです、そして新興地主が活動を始めて動き始めます。自由民権運動や政党政治の黎明期まで、結構面白いと思うのです。

 彼らの活動は地に足が着いていますからね。だから面白いんですね。

さて、どうなるか。どうしようかね。興味はあるなあ。

なはりF 地点

2010-05-03 10:48:17 | 手前かってな推論。
 この場所は、奈半利港です。

 私の子供のとき、この場所は湿地でした。奈半利川の水量が増すと、そこが調整池となっていたように思います。当時の藤村六郎町長の努力によって、昭和28年に港の建設工事が着工できたことについては、その通りかと思います。

 紀貫之の土佐日記に出てくる「奈半の泊まり」は川港ですから、ここから少し上流になるようです。「奈半の泊まり」は上流域の木材資源の集散地としても役割を果たしていたのです。



 道路整備がなかなか進まなかった時代、なんとか物資の運搬を海運に依存しようとしたのです。一時はフェリーボートの発着まで計画されていたようなことを聞いた事があります。

 しかしながら、フェリーボートの規模が大きくなりすぎて、奈半利港に入ることが出来なくなったことから、計画が頓挫したというような話でした。さらに四国に3つも橋が出来るとフェリーは要らなくなるからなあ。仕方なしです。

 いまは、漁港としてはもちろんですが、サンゴを見るためのグラスボートが発着しています。緊急避難港としての役割も付加されている、高知県東部地域における海運の拠点のひとつです。

 ただ、21世紀の奈半利を考えると、いま少し利用の仕方を考えてみてもいい場所でしょうね。
 十分な活用が成されている様でもなさそうです。
 この港を造るために今まで営々と支出してきた投資額と現在の状況を考えると、いま少し何かあるだろうと考えています。

 奈半利に限らず高知県東部地域の財産の一つですが、未利用資源の一つといえるでしょう。
 外に向かって船で何が出来るか、考えましょう。

 奈半利F 地点にしました。ファンタジーのFです。フェイクではありません。

 


 

 

ちょっと、似ている。

2010-05-02 19:05:53 | 日記
 先日行きかう車の間で、いつも見ているものが、目を引いてくれました。



 場所は赤岡の川。随分と前からあることは知っていました。急に何かに似ていることに気がついて写真を撮って来ました。



 モネの絵画で「アトリエ舟」と題された作品です。

 フィラデルフィアのバーンズコレクションの中の一枚です。

 モネは絵画を書くために、こんな舟を準備をしていたようで、なかなか珍しい形をした舟です。

 どこかで見たことがあるなあと、あの舟を見るたびに考えていたのです。

 高知県の東のほうに、フランスの画家と同じような船を造る人がいたのですから、面白いことです。

ちょっといい話。2

2010-05-02 10:03:01 | ちょっといい話。
 もう10年ほど前から私の本棚にある本。「職人」という題です。永六輔さんの本です。

 ちょっといい話だと思います。

 「若い作家を育てようと思ったら、その作品を高く買うことです。茶碗一個百万円でも買うんです。その値段にめげるようじゃあ職人です。作家としては伸びません。それでも、つくれば一千万円にでもなるんです。あとは名声と評判だけで動きます。一個百万円の無名で若手の茶碗なんてあるわけないんですから、商売です、商売」

 「若い仕事は若いだけじゃあダメなんだ。若いのに老巧でなければ、若いことの意味がないんだよ。」

 「自分の作品を自分で売るようになると、品がなくなります。自分の子供を自分では売らないでしょう。」

 「名声とか金は、歩いたあとからついてくるものだった。名声と金が欲しくて歩いている奴が増えてマスねえ。」

 懐かしく改めて読んだ、いい時間でした。

 最近町中に職人さんがいなくなりました。
 鍛冶屋さんや、時計屋さん、自転車屋さんもいなくなりましたね。写真屋さんもいない。

 最近調べていた商店街の中に棺桶屋さんがあったそうですが、定かではありません。

 「職人気質という言葉はありますが、芸術家気質というのはありません。あるとすれば芸術家気取りです。」

 「批評家が偉そうに良し悪しを言いますけど、あれは良し悪しじゃあなくて、単なる好き嫌いを言っているだけです。」

 なるほどなるほど、納得のいい話です。
 「  」の中の意見はホンの中の言葉です。
 田舎の理屈も通せるものなら通してみたいものです。

作曲家です。

2010-05-02 09:20:12 | 高知県東部人物列伝
 よき時代の作曲家です。そして高知県が世界に誇る人材の一人かと思います。



 弘田龍太郎です。
 安芸市土居で生まれるのですが、父親の仕事の関係で3歳で高知を離れるのです。東京音楽学校(現東京芸術大学)をへて作曲家になります。
 
 作曲家弘田龍太郎は、多くの作品をのこしているのは、皆さんご存知の通りです。

 ただ先日、彼の作品一覧を眺めておりますと、作詞家に有名な方々が多数います。
 野口雨情や北原白秋はもとより、島崎藤村、与謝野晶子、室生犀星、等々並んでいるのです。彼らを魅了した弘田龍太郎の名は21世紀の今でも、今後も残っていくでしょう。

 春よ来い。雀の学校、浜千鳥、叱られて、小諸なる古城のほとり・・・題名を聞くだけで口ずさめるんですから、偉い方です。

なんとなく分かるね。

2010-05-01 09:04:32 | 日記
 国土交通省から2009年の新築住宅の着工戸数が前年度比25.4%減と発表されました。住宅を建てる事は、一生のうちでそう何度もあることではないのですが、こんな状況ですから、控えて見たくなりますね。
 政治的にも経済的にも混迷の極み状態ですからね。
 
 資料を調べてみると1974年も28%減というのがありました。1974年。

 長嶋茂雄氏が引退し、小野田さんがルバング島から帰還した年ですね。
 さらに田中角栄氏が例のピーナッツ事件で退陣を余儀なくされた年です。

 普段、政治にあまり興味がない方々でも、政治と経済は密接に結びついていることに、きずかれると思います。

 資本主義社会では、消費が低迷すると全体として暗くなります。

 消費至上主義は、いかがなものかと思いますが、家を建てようと考える住民に安心を与えていただきたいですね。
 これから、もっと暮らしやすい社会が生まれることを。です。

 しかしどんなになるんだろうね。
 政権与党の支持率20%ですからね。

 もっと頑張って欲しいところです。

 野党の方々も、どうも自信がなさそうです。分裂して力を分散しております。

 地域の、田舎の力が発揮される時かと、意思が反映できそうな気配がします。
 都会の理論から、田舎の理屈に・・・です。