ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

忘れられない年になった。

2009-12-31 21:31:51 | 日記
 多分死ぬまで2009年のことは忘れないだろうと思う。
 まあ、本当にいろんなことがあった。

 自分で自分のことを自制できなかったこともあった。
 自分のことが解らなくなったこともあった。

 しかし、それらも含めてこれからも生きてゆくしかないのだけれど、まずはダイエットだなあ。

 勝ち取ったこともあったけれど、失ったものが圧倒的に多い。
 
 2009.決して忘れない。

 2010が始まるねえ。今日は大晦日です。
 今日は、掃除をしたし、庭に出て植木の面倒もみたんです。

 そういえば、そろそろ還暦だしなあ。
 やりたいこともたくさんあるし、高知の田舎でも出来ることってたくさんあるし、多分来年も退屈したり、暇で困ることはなさそうです。

 明日、元旦は朝から太極拳です。
 いい一年が始まるでしょう。
 
 

 

発刊の辞

2009-12-29 22:58:25 | 高知県東部人物列伝
 「高知新聞生る、何がために生まれたるか、時代の要求に伴ふて、我が県民と相携へ、倶に共に新天地を拓開せんとして呱々の声を揚げたるなり・・」

 高知新聞の発刊の辞です。明治37年高知新聞の発刊に参加した富田幸次郎の筆によるものです。当初は主筆として、後に第2代の社長に就任して、高知新聞の土台作りに努力するのです。
 今日はその富田幸次郎を紹介したいと思います。

 明治以降100年を越える国会の歴史の中で、高知県から5人の衆議員議長を出しているのですが、その1人でもあるのです。さらに衆議員当選10回というのですから、半端では在りません。明治41年の第10回総選挙に出馬。当選して議員活動を始めるのですが、胆力があり人情味あふれる政治家だったそうな。

 「踏まれてももえ出る草の力かな」彼が衆議員議長に推されて詠んだ俳句です。
 濱口の陰に隠れて、党務でも幹事長などまとめ役に徹していた彼が、議長という晴れがましい地位に就いた感慨が感じられます。
 
 出身は現在の安芸市川北。川北小学校から芸陽学舎に学びます。卒業後教員をするのですが、政治問題に関心を持ちはじめて、土陽新聞記者となります。記者としても活躍をしていたのですが、会社内の内紛に嫌気がさして、先に紹介したような高知新聞の発刊に参加するのです。

 先に紹介した濱口雄幸の政治活動を支えた一人でもあります。金融恐慌への対策や、軍部からの圧力に苦悩する浜口の仲間でした。
 明治のジャーナリストであり政治家。さらに乞われていくつかの会社の経営者としても実績を残しています。

 しかし贔屓目に見ても、幕末から明治にかけての男達のかっこいいこと。
 すごいねえ。

野根山街道散策ツアー

2009-12-29 08:04:10 | Vision East
 野根山街道散策ツアーが参加者募集を締め切りました。

 総員80人が、1月3日に野根山街道に向かうことになりました。

 こうしたイベントの日は、普段静かな街道もにぎやかになって、小さな獣達も緊急避難をするのでしょう。
 私はスタッフの一人として、同行しますがいつものことですが、最後尾になります。だいたい80人もの方々の中には、何人かは具合の悪い方や動けなくなる方が出てきますから、大変ですが自分の体調に合わせて動ける自由度もありますから、いつもどうりの最後尾を勤めるつもりです。

 奈半利の街中から米ヶ岡まで、野根山街道の入り口辺りなのですが、結構きついのです。登ってしまえば後はなだらかな稜線になるのですが、どうしても登り口は急傾斜ですからきついです。

 ま、しっかりと歩いて正月の酒を抜きましょう。

素晴らしい出会い。

2009-12-27 15:33:35 | 好きなもの
 もう40年も前のことです。
 私が青春真っ只中だった頃、会いに行ってみたくなって、出かけたのです。
 わざわざ、奈良斑鳩の里。中宮寺まで、一人で出かけたのです。なんで?といま自分に問いかけても、「解りません。」

 土讃線に乗って、宇高連絡線に乗って岡山までそして大阪へ行って、奈良へ向かったのです。

 初めての一人旅でした。しかし不安はなかったような。

 奈良駅からバスで斑鳩まで、法隆寺の隣に中宮寺。
 思ったより小さな庵のような本堂に、彼女は座っていました。
 木造の小さな本堂でした。
 少し微笑んで、「よう来たね。」そう言われた気がしましたよ。
 そんな他愛もないような記憶しかありませんでしたが、昨夜ふと「そういえば行ったことがあるね。」
 靴を脱いで座ったことは覚えているのですが、それから後のことは記憶がないのです。もう40年も昔のことですからね。
 多分手を合わせ、頭をたれて、何かお願い事でもしたのでしょう。

 あとは、法隆寺にでもいって、そのまま京都へ向かったのです。
 京都で何をしたのかの記憶はないのですが、いいのです。
 彼女に会えたのですから。
 菩薩半跏像。国宝なのです。

 うん!!菩薩様って女性ダッカ??。
 いい。そういえば理数系の高校に通っていたのに、大学受験は史学だった。失敗したよなあ。古文・漢文はまるで解らなかったなあ。今でも駄目です。

 これも思い出の一つです。
 菩薩半跏像。イマデモスキデスネエ。

 

男子の本懐

2009-12-27 12:52:10 | 高知県東部人物列伝
 ライオン宰相として有名な濱口雄幸氏を紹介します。気骨あふれる明治の男なのです。
 昭和5年、東京駅で右翼の青年に狙撃された濱口雄幸首相は駅長室に移された後傍にいた幣原外相に「男子の本懐だ。」といったというのです。そのようになるかもしれないとの危惧は抱きつつ、信念を曲げることなく、当時の国粋的な風潮に向き合ったのです。ロンドンでの軍縮会議のことです。突出する軍の力に自ら向き合っていたのです。
 ロンドン軍縮会議での条約承認は、濱口雄幸の意思と決断によるもので、政党内閣の勝利であって、日本の民主主義にとっても銘記すべき事だったのです。

 彼の内閣が発足した昭和4年は、ニューヨーク株式取引所における大暴落を契機として世界恐慌の最中だったのです。もちろん高知県出身の初の内閣総理大臣でした。

 高知市で産まれた彼は、高知中学在学中に縁あって田野町の濱口家の夏子16歳と結婚。濱口家の養子となり、東京大学を経て大蔵省に入ります。
 当時の高知は自由民権運動が最盛期で、板垣退助、片岡健吉、植木枝盛等青年期の濱口雄幸にとっては綺羅星のごとくの諸氏が各地で活動をしていたのです。かれも、議論を繰り返していたとの記録があります。

 濱口家は安芸郡田野町で18代も続いた豪家で、雄幸は18代義立(よしなり)の婿養子となったのですが、義立の妹は、かの清岡道之助の妻、静ですから父親の代には討幕運動から明治維新にかけての攻防の最前線にいた方々がいたことになります。もちろん彼等は、奈半利川原での23士の処刑をも、じっと見ていたはずです。

 「国家政策の手段としての戦争放棄を遵守する。」命を架けて政治家として、信念をつらぬき通したことになります。
 今の政治家の先生方は、命がかかってってないような・・・。

すごいねえ。

2009-12-26 01:22:33 | 新聞雑感
 香川県から奈半利に通って農業をしている人がいるらしい。
 高知新聞によると、みかん農家らしいのですが、すごいねえ。

 もっとも前例がないわけじゃあないけれど、農地を貸してくれる人と借りてでも農業をやってみたい人がいれば成立するんですが、あまりにも身近にそうした方がいるようだと、興味がわきます。

 専業でもないのでしょうが、熱意は伝わってきますねえ。

 農業はこれからの産業だけに若い方々が新規参入することはいいことですね。
 ただ、農地を貸してあげる善意に期待するのみです。

 こうしたつながりが新たに生まれると、地域はもっと元気になるかもしれないですね。
 Uターンでもなく、Iターンでもなく、田舎が仕事場を提供するのですから、凄いことです。

 恵まれた気候風土が彼らの作物を丈夫に育てますように。

 新聞もこんな記事が多いといいのですがね。
 せちがない世の中ですから、最近は、さびしくなるような記事ばかりです。

今年の正月は大工さん。

2009-12-24 08:56:10 | 好きなもの
 日曜大工じゃあなくて、正月大工かな。

 最近はどうも家のことをやらなかったもので、あちこちが傷んできているみたいです。少し自分で楽しみながら手を入れてみようかなと、思った次第です。

 整理をしていると、本の占める割合が多くて、ダンボールを開けるのがいやになるぐらいですし、ビデオテープなども結構あるのです。
 蔵などというものがないだけに、簡易倉庫など作ってみようかな。

それに、日差しよけの「ひさし」を作ってみようかな。
 いつのまにか増えすぎてしまった本や映像資料をどうにかして整理をしないといけません。
 
 どこまで出来るか、まじめに取り組むことにします。
 これはこれで楽しみです。

新鮮な朝

2009-12-19 09:14:09 | 日記
 忘れておりました。

 朝の冷たい感触。本当に久しぶりです。何年ぶりだろうか。メダカの水槽に氷がはって、メダカの親子が窒息するんじゃあないのか、心配しているほどです。

 こんなときは決まって冷たい水で顔を洗います。凛とする感じが好きです。
 空気も緊張しているようで、吐く息が白くなっているのを見て、うれしくなっています。

 そして、朝日が当たると少しずつ、辺りがやさしくなっています。
 ただ、部屋の中は、昨夜の一人宴会のせいで混沌状態ですねえ。
 掃除が大変です。
 自分の汚した部屋ですから、自分で掃除をいたします。

 しかし、昼まではかかるでしょうね。要領が悪いのと、時々ではなくて休み休みですから、時間はかかります。
 まあ、大掃除のリハーサルと思えば、「マ・いいか。」って感じです。

 多分掃除をしていると、探し物が見つかるのです。
 それも楽しみです。

吸江庵

2009-12-18 21:52:53 | 昔話
 夢窓疎石をご存知でしょうか。今から700年ほど前の鎌倉・南北朝時代の僧なのです。晩年には京都天竜寺の開山となるほどの名僧なのですが、その彼が土佐に来て、五台山に吸江庵を建立していたのです。43歳ほどの頃ですから血気盛んな頃でしょうね。

 夢窓疎石が庵から出た後も、守護代細川氏や国主長宗我部氏の尊信保護を受けていましたが、長宗我部氏の衰退と共に寂れておりました。
 長宗我部氏12代兼能が吸江庵の寺社奉行に任命されたとの記録がありますから、この辺りからですね。ご縁が出来たのは。
 かの長宗我部元親は21代ですから、随分と昔の話です。

 ということは、長宗我部氏を初め土佐の武士達も、彼に会っているはずなのです。当代一流の学僧と彼らがどのような形で出会い、何を話したのか興味があるところです。多くの門弟を育て、その数1万とも言われる国師のことですからね。

 知と武が出会って、多分新しい何かが産まれていったのです。
 その後の長宗我部氏の隆盛と衰退に吸江庵がどの様に係っていたのか、興味のあるところです。
 
 慶長6年(1601年)山内氏入国後に山内一豊の命により湘南和尚によって再興されるのです。この時から京都妙心寺の末寺となりましたが、傑物が出始めるのです。

 さらに、湘南和尚にしても夢窓疎石が開いた庵を吸江寺として再興することに感慨深いものがあったことでしょう。
 吸江庵。少し調べてみましょう。かつて五台山にあったのです。

寒い朝に、さむい話。

2009-12-18 20:45:52 | 新聞雑感
 今日は寒かった。ずっとストーブの前でお世話になっておりました。
 少し掃除の準備をと思い、新聞の整理をしていたのですが、さみしい話が出ておりました。
 今年10月下旬の新聞だったのですが、「貧困率」が先進諸国の中で際立って高水準だというのです。さて、豊かな国日本なのに、なぜに貧困なのか。
 実感としては、高知県東部地域における状況は残念ながら、「その通りなのです。」

 相対的な貧困率は、国民の年収分布の中央値と比較して、半分に満たない国民の割合。だそうです。

 OECD(経済協力開発機構)が報告した03年のデーターで、日本は加盟30ヶ国の中で4番目に悪い27位だというのです。14.9%で悪化しているのだそうで、日本の貧困が先進諸国の中で際立っているのだそう。
 06年には15.7%なのです。

 現政権では、子供手当てを支給して、貧困率がどうなるか??。
 まずいよなあ。

 妙なところで社会実験などやられたら、地域の格差はさらに広がるじゃあないか。高知県東部地域などは、20%を越えているのでしょうね。
 豊かな国のなかの、最貧地域なのですから。

 すべての子供に配るのなら、貧しい家庭の子供を対象に倍額でも出してあげたら差は少しだけ解消されるのにね。

 夜になってもまだ、気温は上がらない。腹の中にアルコールを流し込んで温まることにしよう。

 最も悪いのは、メキシコで18.4%、いいのはデンマークとスエーデンの5.3%だそうです。
 格差が良い訳はないのです。
 明日こそは明るい話題で、盛り上がろうと思う。